一神教と多神教

神の名前と一神教の傾向をめぐって争いが起きている

 イスラエルではモーセ。エジプトにはアモン・ラー信仰。一神教でした。モーセはこの一神教の考え方に影響され、イスラエルにおいても同じ方式を選んだのです。

 モーセは霊能者であり、神の声を聞くことができましたが、「神(the God)は人格を持った一人の存在でなければならず、他の神々(gods)は有害な邪神、または未開の宗教的崇拝の対象である」と考えたのです。

 しかし、モーセの考えには誤解がありました。「神」と呼ばれる資格を持つ存在には、様々なレベルがあります。彼らは神を名乗ることを、唯一の神(God)から許されています。ですから、世界を見渡すと、いろいろな名前の神が見られます。

 一神教と唯一神とは問題が別なのです。幸福の科学は、「エル・カンターレという名の至高の存在がある。この神は、中東においてはエローヒムという名で現れた存在であり、愛の神にして至高神である」と教えています。

 モーセは、このエローヒムから啓示を受けたこともありますが、通常はユダヤの民族神から指導されていました。ユダヤの神は、ユダヤ民族のことしか考えていません。一神教は時折、他の神々を排除します。人間の無知の悲しさで、神々の力にレベル差があることが理解できていない。全知全能の神であれば、イエス・キリストの愛を受け入れることができるはずですが、ユダヤ人はイエスを通して神の愛を受け入れることができませんでした。

 

同じ至高神を信じることができれば争いは止む

 また、イランの人々には別の問題があります。ムハンマドは全知全能ではなかった。現在も全知全能ではないと言うべきでしょう。彼にはアッラー(神)の姿が見えず、その本当の声も聞こえませんでした。彼がアッラーの声を聞いたのはガブリエルを通してです。ガブリエルを介して言葉を受け取り、それを唯一神アッラーのメッセージだと信じていました。

 しかし、ここに誤解があります。コーランには、ムハンマドに霊示を送った高級霊が40人ほどいたと解釈できる部分があり、そこに混乱があります。彼も一神教を打ち立てましたが、その唯一神が誰であるかを知らなかったのです。

 私たちは、中東でエローヒムとして知られる エル・カンターレ こそが、この地域においても真の至高神であることを確信しています。ですから、彼らがこの点を理解することができ、同じ至高神を信じることができれば、互いに和解できると考えます。

 この神の概念のところに、混乱や争いの真の原因があります。エローヒム すなわち エル・カンターレ だけが力を持っています。神々の世界の最終決定権は エル・カンターレ にあるのです。彼らがこの意味を理解できれば、殺し合いは止むでしょう。私たちの活動にかかっています。

「もっと力のある、悟りの高い、大きな権限を持つ教師が、天上界にもこの世においても存在しており、他の教師たちを今も指導している」という認識を広めなければなりません。そうすれば混乱は収まるでしょう。

 

宇宙的な愛を思って違いを乗り越える

 エル・カンターレは宇宙樹であり、宇宙の生命の大樹であり、すべての人類型宇宙人はここを中心として生まれました。

 宇宙には数多くの星があり、地球に似た星も数えきれないほどあります。これらの無数の星で、数多くの人類型宇宙人が学んでいます。

 彼らには生きるための原理があり、その原理はエル・カンターレから来ています。エル・カンターレが彼らに教えたのは、「愛は始めであり、終わりである。その間、様々な困難が生まれるが、経験を通して智慧を得ることができる」ということ。これがエル・カンターレの教えの中心であると言ってよいでしょう。

 

一神教と多神教

 天使・大天使、菩薩・如来などの高級霊を「神」と呼べば、その格には差があるにしても、死後に神社が建つような、神としての格を持っている人はたしかにたくさんいる。

 この多神教の考え方をおかしいというのは、一神教の側の霊界に関する理解不足にすぎない。

 そして、幸福の科学こそが、寛容さ、包容力を持ちながら宗教の統一性をつくろうとし、世界中で起きている宗教に基づく戦争を終わらせることができる一つの宗教である。

 大川隆法総裁は、『朝の来ない夜はない』で以下のように説かれました。

「キリスト教もイスラム教も一神教ですが、一神教では、一つの神を立て、その神のために戦い、ほかの宗教を異端・邪教と見て、潰そうとします。これが延々と続いているのですが、両方とも、神の名の下に戦っているのです。このような問題を何とかして解決しなければいけないと私は思っています。幸福の科学は、寛容さ、包容力を持ちながら、宗教の、ある意味での統一性をつくろうとしています。時間はかかりますが、おそらく、幸福の科学以外で、世界で起きている「宗教に基づく戦争」を終わらせることができる宗教はないと思います。一神教に、評価すべきところがあるとすれば、ある意味で宗教のイノベーションを起こしたことです。「旧いしがらみである伝統的な宗教を一掃して、宗教を革新した」ということは、ほめるべき点ではあります。しかし、「多神教は間違いであり、一神教のみが正しい」という考えは、多神教の宗教を迫害するための考え方にもなってしまうのです。パキスタンとインドの対立を見ても、パキスタンのほうはイスラム教なので一神教であり、「アッラーだけが神だ」と考えるのですが、インドのほうは多神教であって、神がたくさんいます。では、どちらが正しいかというと、「神はたくさんいる」という考え方のほうなのです。神は本当にたくさんいるのです。この場合の「神」を定義するならば、神とは、天使・大天使、菩薩・如来などといった高級霊のことです。こういう人たちのなかには、一つの宗教を起こせるような人もたくさんいます。だいたい、宗教を起こせるぐらいの霊格があれば、神としての格はあるわけです。そういう意味では、神というものは確かに数多くいます。日本でも、「八百万の神々」といって、大勢の神がいるのです。それは、神としての格を持っている人であり、要するに、死後に神社が建つような人です。日本では、特定の人を祀った「××神社」というものがよく建ちます。祀られている人のなかには、かなり昔の人もいますが、近年の人であっても、明治天皇のように、神格があるような人には、明治神宮という社が建ちます。それから、乃木希典には乃木神社が、東郷平八郎には東郷神社が建っています。アメリカは、かつて日本と戦争をしたときには、日本神道について、「こんな宗教は邪教だ」と考えていたと思います。一神教の側から見れば、「おかしい」と思っていたでしょう。しかし、この見方は、一神教の側の「霊界についての理解不足」によるものだろうと思うのです。神様のような人は数多くいます。神としての格というものはあります。ただ、その格には差があるわけです。」

 

一神教に争いが絶えない理由

 総裁は、日本神道やヒンドゥー教のような多神教と、ユダヤ教やイスラム教のような一神教の違いについても詳しく分析された。

「はっきり言えば、完全な一神教というのは、実際上、なかなかありえないのですが、ユダヤ教とイスラム教が、一神教としての面は極めて強いと思います」と指摘。

 ギリシャやローマ、エジプトでは多神教が信じられているが、そうした中、戦闘色の強い一神教が生まれた背景についても分析した。

 さらに、お互いに戦闘色が強いユダヤ教とイスラム教とが戦う理由は、ユダヤ教の「ヤハウエ」あるいは「エホバ」と呼ばれている神と、イスラム教の「アッラー」が同じ存在かどうかについての認識が一致しないことにあるとした。

 ユダヤ教とキリスト教が袂を分かっている理由についても「主神として思っていたものに違いがあった」「人間には神様の姿は見えなかったので、その辺の誤解の余地はあって、声だけで誰であるかを分けるのは難しかった」と説明。この2つの宗教が、唯一の神として信仰している神霊は、実は、天上界においては別の個性の存在であると看破した。霊界の秘密に精通した宗教家でなければ、決して説き得ない内容だと言える。

 そして、キリスト教とユダヤ教・イスラム教との対立については、イエス・キリストを救世主として信仰するキリスト教と、彼を預言者の一人にすぎないと考える二宗教の立場の違いに起因していると述べられました。

宗教 

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