宗教と民主主義

 民主主義は、歴史的には悪王による暴政を防ぐための制度にすぎず、最善の人を選ぶ機能は必ずしも持っていない。

 民主主義を担保するものは、良識であり、見識ある意見の存在であるから、特に発達したマスコミが見識ある意見で人々を啓蒙する力を持っていることが重要である。

 しかし、マスコミ情報の源流である学者に間違いがとても多いため、現実には、マスコミが機能を果たしていない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『宗教立国の精神』で次のように説かれました。

「民主主義という制度は、歴史的には、「最善の制度である」とは考えられておりません。どちらかと言えば、「悪王による暴政から自分たちを護るために、民主主義という制度が肯定されてきた」というのが真相です。君主制あるいは国王制等の場合、よい国王が出れば、当然、国民は幸福になれますが、悪王が出たときには非常に悲惨なことになります。こうした悪王を制度的に追放するために、国民は、選挙によって、統治者の一群をいつでもクビにできるようになっていて、一種の「永久革命」が制度化されているわけです。ただ、民主主義の制度には、もちろん弱点があります。それは、「『悪王を防いだり、追放したりする』という機能を持ってはいるが、『最善の人を選ぶ』という機能は必ずしも持っていない」ということです。今、日本は、ある意味での分岐点に差し掛かっています。民主主義が繁栄主義となり、真に人々を幸福な方向へ導いていくものとなるのか。それとも、民主主義が、一種のポピュリズム、つまり、人気取り政策による政治へと転化していくのか。その分かれ目に来ています。  多数の票をとにかく集めれば、国をも支配できるので、民主主義はポピュリズムへと転化しやすく、さらにその次は、衆愚政へと転化しやすいのです。そして、政治学においては、歴史上、「衆愚政が最悪の政治形態である」と言われています。民主主義を担保するものは、やはり、良識であり、見識ある意見の存在です。ゆえに、オピニオンリーダーが正しい言論を吐いていることが重要ですし、特に現代においては、発達したマスコミが、見識ある意見を持ち、人々を啓蒙する力を持っていることが非常に重要であろうと思います。ただ、マスコミは、それぞれの専門家に意見を訊いて報道しているわけですが、そのマスコミ情報の源流である学者のところに、間違いがとても多いのです。その間違いの根源は何かというと、日本の学問界では、戦後、一種の反動が起き、「日本的なるものを否定することが進歩的であると捉える傾向が非常に強くなった」ということです。例えば、公教育においては、「戦前から続いている日本的なものを否定することが、進歩的である」と考えられています。また、宗教学者等でも、「あの世や魂の存在を否定することが、進歩的であり、科学的であり、現代的である」と考え、信じていないふりをする人が多くなってきています。  要するに、そういう学者に意見を訊いたところで、正しい結論が出てこない現状になっているのです。ゆえに、学問から派生しているオピニオンにも、さまざまなバイアス(偏向)がかかっているのです。今、私たちは、この国に精神的主柱を立てようとして、政治活動を始めたわけですが、これは、ある意味で、戦後の政治や経済、文化の流れの「総決算」であり、「改革」であり、そして、「未来のための脱皮」でもあるということです。」

 私たち人間すべてには「仏性」(ぶっしょう)があり、すべてその魂の光においてダイヤモンドである。

 そして、仏の心を自らの心として努力精進し、その「仏性」を輝かせたときに、人間は真に目覚め、優れたる者となれる。

 その意味で、人は「平等」であることを宗教は教えているのであって、これが民主主義の出発点であり、源流である。

 大川隆法総裁は、『人生の王道を語る』で以下のように説かれました。

「そして民主主義は、戦後のマスコミが否定してきた宗教と相容れないものでは決してないのです。これを間違ってはなりません。宗教を民主主義の敵のように考えている人たちがマスコミにはいますが、これは勉強が足りないのが原因です。歴史を振り返ってみるならば、たとえば二千年前のイスラエルでイエスの説いた教えにも、民主主義の萌芽がきちんと入っています。イエスの説いた教えのなかに、「人間は神の子である」という思想が入っています。「この世的な貴賤、この世的に評価されているかどうかにかかわりなく、人びとはすべて、神の子として素晴らしい魂を持っており、その魂において平等なのである。人が義とせらるるは、その魂が悔い改め、人びとに愛を与えんとして清く生きているときである。そのとき人は素晴らしいとして評価されるのであり、この世的な職業とか身分とか、そういうものは何の関係もない」ということを彼は言っています。これぞ、民主主義の出発点です。

 イエスの当時、尊敬されていたのは誰かというと、古い教え、すなわちモーセの教えを教えていた律法学者たちであり、また、ローマの役人たちでした。そして、いちばん嫌われていたのは、一つは貢ぎ取り、つまり取税人、税金を取る人です。それから、もう一つは、娼婦という言葉で言われている女性たちです。イエスは、こうした差別されていた人たちに、ひじょうに優しかったのです。彼らにも魂の平等を説きました。彼らにも天国に入る可能性を説きました。そして、この世的に恵まれていなくとも、神とつながることによって救われる道を説きました。これも民主主義の出発点です。また、イエスの時代からさらに五百年ほどさかのぼった時代のインドにおいて、釈迦の説いた教えはどうであったでしょうか。インドは、当時はすでにカースト制というものがあって、ひじょうに身分の差別が大きかったのです。そのような身分制度に対して、思想的に対決したのが釈迦でした。そして、僧団の中では、その身分制を打破するべく、「人が優れた者として認められるのは、その身分がバラモンであるとか、クシャトリヤであるとか、バイシャであるとか、シュードラであるとかいうこととは関係ない。すべては仏種、仏の種を宿している存在であり、万人にすべて仏性がある。その仏性を輝かし出したときに、人間は真に目覚め、そして素晴らしくなれるのだ。人びとは、仏の心をみずからの心として努力精進していくなかにこそ、優れたる者となるのであり、生まれつきの身分やバラモンの教学などは関係がないのだ」ということを説いたのです。  

 このように、民主主義の根本を探れば、それは救いの原理であり、多くの人びとへの勇気の原理であり、また、勇気を与えられた人びとが、新たにチャンスをつかみ努力することによって、最大の繁栄の原理ともなったものなのです。それが民主主義の源流です。仏が教える平等とは、そういうことです。みなさんは、その魂の出発点において、その魂の光においてダイヤモンドであるということを、宗教は教えているのです。」

 社会主義は、一部の官僚の智慧でだけで国を支配することで、結局、国民全員の力を出し切ることができない。

 ところが、民主主義では、各人が自分の頭を絞って智慧を出し、自分たちの会社を最高の会社にしようと努力する。多くの人の智慧を集めたほうが世の中は発展・繁栄するのです。

 大川隆法総裁は、『朝の来ない夜はない』で以下のように説かれました。

「私は、三十年余り前に、東京大学法学部で法律学と政治学を専攻していましたが、当時、学問として政治学を勉強しても、「なぜ、民主主義がいちばん良い制度であるのか」ということについて、確信を得ることができませんでした。例えば、ソクラテスやプラトンなどのギリシャ哲学では、民主主義という制度は評価が下のほうになっています。古代のギリシャ哲学では、「民主主義というのは、民が愚かだと、すぐに衆愚政に転落する危険があり、独裁者に支配されやすい制度である」ということで、民主主義に対する評価は平均よりも下なのです。実際に、ソクラテスは民主主義によって処刑されました。つまり、ソクラテスは投票によって死刑にされたのです。そのため、弟子のプラトンは民主主義を嫌っていました。そういうことも私の頭のなかにあったため、学生時代には、「民主主義がなぜ最高なのか」という答えを自分自身で見つけることはできませんでした。しかし、大学卒業後、さまざまな本を読んでいるなかで、私は、松下幸之助の言葉のなかにその答えを見つけたのです。第二次大戦後、松下幸之助が初めてアメリカを視察したあとに、「民主主義というものは、繁栄主義であることが分かった」ということを結論として述べています。私は、その言葉に出合ったときに、初めて、「民主主義がいちばん良い」と言われる理由が分かりました。松下幸之助は、学問として政治学を学んでいたわけではありませんが、経営者の目でアメリカを見てきて、「要するに、民主主義の下では、いろいろな産業が発達し、経済が発展するのだ。なぜかと言うと、それぞれの人が、自分たちの会社を良くしようと智慧を出して努力し、頑張るからである。そのように、いろいろな人が智慧を絞り、汗を流して努力するから、社会が繁栄するのである。だから、民主主義というのは、繁栄主義なのだ」ということを言い切ったのです。これは、一つの悟りの言葉だと思います。それに対して、社会主義は、一部の官僚が中央統制型で国を支配する体制であるため、国の隅々にまで目が届かず、計画経済になります。そのため、結局、国民全員の力を出し切ることができないのです。ところが、民主主義では、各人が自分の頭を絞って智慧を出し、そして、自分たちの会社を最高の会社にしようと努力するのです。アメリカは、そのようにして繁栄したわけです。

 やはり、「たった一人の人間の智慧よりも、多くの人の智慧を集めたほうが、世の中は発展・繁栄する」ということです。これが民主主義の意義なのです。」

 

民主主義と宗教は相いれないか

 「民主政」と似て非なるものに「衆愚政」がある。

 神の理想を地上に実現し、神の国を建設するという目的のもとに、民主主義が最大の開花を迎えたのが民主政。人々が理想を失って、個人が自分の欲得や利益のために奔走しはじめたときに、衆愚政に陥る。

 民主主義の発祥の地である古代ギリシャはもちろん、民主主義の大国であるアメリカ合衆国も、宗教を背景にして繁栄・発展した国であることが見逃されてはならない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『人生の王道を語る』で以下のように説かれました。

「民主主義の大国であり、その発祥の地とも言われ、その最大の繁栄を誇ったアメリカであっても、その民主主義の源流はどこにあるかと言うと、それは、メイフラワー号によってイギリスから渡った清教徒(ピューリタン)たちの考えから始まっているのです。彼らは神の子としての使命に燃えて、理想的な新世界をアメリカに創ろうとして、自助努力の精神を忘れずに建国しました。そして、丸太小屋のなかから出てきたリンカーンのような指導者でも是(よ)しとするような、素晴らしい国家が生まれてきたわけです。もちろん、アメリカがいま退廃期に向かっていることは周知の事実ですが、民主主義には、その発祥の地において、その発祥の時において、道徳的基盤、精神的基盤、倫理的基盤というものが確固としてあったということを忘れてはなりません。さらに、二千数百年の昔にさかのぼってみるならば、ギリシャの時代に是しとされた民主主義はどうだったでしょうか。当時の民主主義社会においては、神を否定する者など一人もいませんでした。当時は、デルフィーの神殿があった時代です。神と民主主義が共存していた時代だったのです。では、神と民主主義が何ゆえに共存できたのでしょうか。民主主義というものは、一人ひとりの持っている才能やエネルギーといったものを最大限に開花させるという、素晴らしい面を持っているわけです。最大限に開花する繁栄主義とも言い換えることができるこの民主主義は、その方向性がひじょうに大事なのです。その方向性とは、いったい何でしょうか。その方向性こそ究極の理想であり、それは「神の理想」です。神の理想を地上に実現し、神の国を建設するという目的のもとに、民主主義は最大の開花を迎えるのだという歴史的事実を、忘れ去ってはなりません。戦後四十数年間、日本人はそのことを忘れてきました。民主主義とは投票型民主主義のことであって、多数の意見が通るというだけの形式的民主主義だと思いがちです。神も仏も否定し、政治の崇高さも否定し、ただ数の原理を求めてきたということは、ギリシャの時代の末期に起きた衆愚政への転化が、すでに始まっているということです。民主政が衆愚政に転化する契機は何でしょうか。理想を失って、個人が自分の欲得や利益のために奔走しはじめるときに、それは衆愚政という最も醜いものへと転化するのです。その危険がすでにアメリカには出ています。日本にも出はじめてきました。このようなものは本当の民主主義から離れているのです。民主主義というものは、優れた人びとが、理想実現のもとに力を合わせてがんばってこそ、起業家精神や倫理的精神を持って理想社会を築かんとするときにこそ、最大の成果を上げることができます。しかし、各人が自分の欲得のために走っているときに、その多数の意見が全体の意見になるならば、まさしくこれは、独裁者に支配される全体主義の前兆とも言うべき大衆支配制の始まりとなるのです。民主主義体制をつくっている一人ひとりは、目覚め、理想に燃えた人たちでなくてはならないのです。根本の精神というものを、道徳的基盤というものを、倫理的精神というものを持った人たちが、努力し、競争し、そして発展してこその民主主義社会であるということを、もう一度、振り返らなければなりません。」

 歴史を遡って見てみるならば、宗教と民主主義とは両立しないものではなく、実は一体のものである。神を信じている人たちが、神の理想を実現するために心を寄せ、努力して政治を行なっていくのが、真なる民主政である。そして、真なる民主主義は、徳治主義とまったく同じものとなっていく。

 大川隆法総裁は、『ダイナマイト思考』で次のように説かれました。

「日本には民主主義が繁栄しているように見えますが、日本の民主主義の基礎にあるものはにせものです。私はそれをはっきり述べておきます。民主主義の基礎にあるものは「神の心」でなければならないのです。民主主義が始まったのは二千何百年か前のギリシャでしょう。ギリシャの国は神を百パーセント信じている人たちの集まりでした。神を信じている人たちが、神の理想を実現するために、心を寄せ、みんなで努力して政治を行なっていたのです。そのような理想があってこそ、真なる民主政というものが成り立ったのです。神というものがなくなれば、多数が集まったとき、そこに現われるものは衆愚政です。そして一部の独裁者によって迷わされる全体主義が始まっていったのです。ヨーロッパで崩壊した全体主義の流れを見てください。神なき指導者たちが教えた指導方針のもとにやってきた国の体制が崩れたのです。宗教と民主主義とは両立しないものではありません。一体のものなのです。その基礎に神を信ずる心があってこそ、人びとは理想に向かって努力をし、その努力が素晴らしい政治、経済を生んでゆくのです。日本の民主主義は物質的なる繁栄のみであって、そのなかに心がありません。精神がないのです。これこそが、いま求められているものであり、変革を余儀なくされているものなのです。私たちがやろうとしていることこそが、真の民主主義の道なのです。これは私だけの考えではありません。マックス・ウェーバーという社会学者も、『古代ユダヤ教』という本で、「民主主義の時代には宗教が繁栄する」と書いています。その通りです。一人ひとりが、神の心を求めて、真なるものを求めて活動するときに、社会は繁栄するのです。だから民主主義と宗教は一致するのです。そして真なる民主主義は、徳治政、徳治主義とも一致するものなのです。真に人びとが神の理想に燃えて努力し、おたがいのなかから最高の人を選んでいく過程を取り、そうした人を選んでいったならば、その頂点に立つ者は、最も徳高き者になるのは当然のことであって、民主主義の真なるものは徳治主義とまったく同じものとなっていくのです。  これを間違えてはいけません。」

民主主義の時代には宗教が繁栄する  民主主義と宗教は両立する

 また、大川隆法総裁は、著書『朝の来ない夜はない』の中で以下のように説かれました。

「「信教の自由」「信仰の自由」というものは、実は、民主主義の基礎であり、これがなければ、民主主義というものは成り立たないのです。もし、人間を、「物や機械などと同じである」と考えたならば、人間の価値というのは、基本的に土くれや石と同じようなものであり、尊さはありません。人間は、仏の子、神の子であるからこそ尊いのです。それが、民主主義で言う「人権」の本当の意味なのです。人間が仏の子、神の子であるからこそ、人権を大事にしなければいけないわけです。「信教の自由」が認められるということは、「心のなかで仏や神を信じる自由」が認められるということです。この「内心の自由」(心のなかで何を思うかの自由)こそが、人権のスタート点なのです。これは、政治的な意見を発表する自由よりも、もっと大事な基本的権利です。心のなかで思うことまで他人に抑圧されたら、やはり、生きていくのは大変です。まず、「信教の自由」があって、そのあとに「言論の自由」「出版の自由」というものが出てくるのです。民主主義には「言論・出版の自由」が付き物ですが、本当は、その前に「信教の自由」があるわけです。「信教の自由」から「信仰告白の自由」が生まれ、そのあとに、「言論の自由」「出版の自由」などの「表現の自由」が出てきたのです。こういう流れになっているので、「信教の自由を認めさせる」ということは、民主主義にとって、非常に大事な原点であるのです。これは、私だけの考えではありません。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や『古代ユダヤ教』等で知られるドイツの有名な社会学者であるマックス・ウェーバーも、「民主主義の時代には宗教が繁栄する」という考えを持っていました。民主主義は、さまざまな価値観や考え方を認めるので、いろいろな宗教が繁栄・発展するのです。彼は、「民主主義の時代には、たくさんの宗教が出てきて、『人々をどうしたら幸福にできるか』という良い方向での競争が起きるため、宗教が繁栄する」というようなことを言っています。これは、「民主主義と宗教は両立する」という考えですが、それをドイツの世界的に有名な学者も言っているということを、一つの論拠として述べておきたいと思います。」

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