「自由」「民主」「信仰」

 国民から信教の自由や言論の自由を奪い、覇権拡大の野心を抱く中国。共産党一党独裁体制が長く続き、「民主主義」が存在しません。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『青銅の法』において、「自由」「民主」「信仰」という言葉を世界各地に広げていくべきであり、この三つを浸透させるために地上的な活動を続けていくことが大事だと説いています。

 現在、この三つの価値が失われている中国や北朝鮮では、多くの国民が幸福に暮らすことができず、亡命者も相次いでいます。

 この三つの価値観を広げていくことがなぜ大切なのでしょうか。

 

「自由」

「自由」は幸福の源

 大川隆法総裁は、著書『自由の大国』において、「自由から繁栄が生まれます。発展が生まれます。そして、あなたがたの幸福が生まれるんです」と説いています。

 お金が一番大事であり、お金さえあれば幸福という人もいるかもしれませんが、それは、お金で自由を買える面があるからです。

 たとえば、お金があれば迷わず買いたいものが買えますし、好きな場所に旅行にいけます。すなわち、選択の自由が生まれるのです。

 もし、有り余るほどお金があったとしても、牢獄に閉じ込められたり、健康を失ったりして自由を失えば、お金よりも自由がほしいと願うはずです。自由があれば、未来は自分の力で開いていくことができるのです。

 自由が当たり前の環境の中にあると、お金や物や地位などいろいろなものがほしくなりますが、自由がない世界を思い浮かべてみれば、自由の重要性に気づくはずです。

「自由」とは「わがままに振る舞うこと」とは違う

 総裁は、「自由」について、子供向けの法話の中でこのように語っています。

「大人になってゆくということは、自分の力で生きてゆけるようになるということだ。わがままの自由ではなく、責任のある自由に目覚めるということだ」(『子供にとって大切なこと』あとがき)

 親が見ていないところで きちんとしていると 自由の範囲が広がり、信用がなければ禁止が増えるものとして、もらった おこづかい を計画的に使うこと、親や教師が見ていなくても悪いことをしないこと、人に嘘をつかないことなどを心がけることを勧めています。

 義務から逃れようとするのではなく、積極的に義務を果たす中で、自分が自由にできる範囲や、選べる範囲が広がるのです。

 社会人になれば、自由にできることが増える一方、その結果は自分で責任を取ることになります。それでも、自分で人生を選び、より良いものにしていけるということは、誰かにすべてを決められることより幸福ではないでしょうか。

自由な社会は「チャンスの平等」、チャンスがないと苦しい社会

 「自由」とは、政治体制においてはどのように理解できるでしょう。

 総裁は、『Power to the Future』において、「神の子とは、『一人ひとりが、善なる存在となる権利、繁栄する権利、努力して天上界の光となれる権利を等しく持っている』ということを意味します。これが自由の意味なのです」と説いています。

 すべての人間が神の子・仏の子であることを前提に、すべての人がチャレンジする権利を持っている社会こそが、自由な社会と言えます。これは、すべての人が平等に扱われることとは違います。すべての人が平等な結果を得られるようにしようとして建設されていったのが、共産主義・社会主義国家、あるいは福祉国家と言われるものです。

 共産党が支配した かつてのソ連では、生産手段を持つ資本家のところに富が集中して貧富の差が広がることを避けるべく、生産手段をすべて公共のものとしました。人々は自由に会社をつくることができず、全員が国家公務員となり、一部のエリートの計画で仕事が割り振られるのです。その結果、人々が欲しいかどうかを無視した生産が横行。物が売れるわけでもなく、庶民の生活が豊かになることはなく、共産主義の実験は失敗に終わりました。

 また、経済発展を遂げた資本主義国では福祉国家化が進みました。イギリスの「ゆりかごから墓場まで」という言葉に代表されるように、北欧を中心に、重税を課する代わりに貧しい人にばらまく政治が蔓延しました。しかし、国に頼ればよいとなれば、自分たちの生活に責任を持たない人が増えてしまい、全体が貧しくなります。産業が発展するわけでもなく、税金を納める豊かな人が減ってしまったのです。

 自由を失うもとになるのは、自分たちの手で生計を立て、家族を養い、産業を発展させるといった義務から逃れ、誰かに頼ろうとする発想にあります。神仏の子である人間は自分自身で人生を切り開く自由があると考えることで、一人一人の自由が保障され、自分の生き方を自ら選べるという幸福を手にすることができます。

参考

「民主」

「民主」とは多くの人々が望まないことは実現しない体制

 「民主」についてですが、これは、国家や社会をその構成員である国民が自由に作り変えていくことができるということです。「政治参加の自由」と言ってもよいかもしれません。

特定の個人に強制されたルールや仕組みの中で生きるのではなく、国民の知恵や理想によって国をかたちづくっていくことによって、国家や社会をより良くしていこうという愛の心や責任が生まれます。知恵を絞っていくなかに向上もあります。

 総裁は、『宗教立国の精神』で以下のように語られました。

「私は、日本の政治を民主主義の原点に返そうとしているのです。古代ギリシャにあったような、『政治参加の自由』が必要です。各人が政治に参加し、公開の討論ができる『自由の広場』を創設するべきです。公的空間に自由の広場を創設することによって、この国に対し、国民が自覚と責任を持てる体制を再構築しなければならないと思います」

「『個人個人の価値を認め、基本的な人権として平等の価値を認め、それぞれの意見の総合によって、いろいろなものをつくり、動かしていこう』という考え方なので、民主主義社会は『多数の者が望まないことは実現しない世界』なのです。」(『自由・民主・信仰の世界』)

 中国も北朝鮮も、「人民民主主義」を掲げていますが、多くの人々の意見が反映されてつくられた政治体制ではありません。

 もともと、「人民民主主義」とは東欧で始まった動きで、人民(労働者階級)が権力をにぎることを目指していました。これ自体は選挙や多党制という民主主義のなかで多数派を形成するというものだったのです。

 中国では、支配階級である人民の中で民主主義を行うことであると理解されているようです。ただ、体制に反対する人々は支配階級である人民に入っていません。一部の意見しか反映されず、国民が政治家を選ぶこともできない体制は民主主義とは言えないでしょう。

 総裁は、全体主義国家を見分けるポイントについて、

 (1)軍事的独裁者がいること、

 (2)政府に反対する者や思想犯を取り締まる特別警察、秘密警察のようなものがあること、

 (3)政府に反対する人たちなどを捕まえて収容する強制収容所があること

を挙げています。多くの人々が弾圧されている中国や北朝鮮は、まさにこの条件を満たします。

「民主」は神仏の子が信仰を持つから成り立つ

 「民主」という価値観も、人間の本質が魂であり、神仏に作られた存在であるという「信仰」が前提となります。人間を超えた神仏の心を探究している人々だからこそ、「より良い社会を作っていくことが可能になる」「自分たちが幸福になる政府を選ぶことができる」というのが発想のベースです。

 このように、「自由」と「民主」は、国民の自由を保障する上で必要不可欠なものといえます。

 

「信仰」

「信仰」のない「自由」と「民主」は歪みやすい

 一方、「信仰」については、内面の問題であり、信仰を持とうが持つまいが自由ではないか、という考え方もあるでしょう。

 むしろ、神仏の存在を受け入れるように言われるのは、自由に反するのではないか、という意見すらあります。

 しかし、「信仰」のない「自由」と「民主」は歪みやすく、もろいものです。

 たとえば、日本では公立学校において宗教について教えられないため、勝手気ままに生き、子供たちがわがままを主張することが「自由」と混同されている面もあります。

 同じく、「民主」にも誤解があります。自分たちの主張が通らないと「民主主義が失われている」と叫ぶなど、「民主」を都合よく解釈する団体もあります。一方で、多数決を絶対視し、多数を形成したものは何でも許されると考える人もいます。

 長らく日本の最大与党である「自由民主党」も、党名だけで見ると「自由」と「民主」を奉じているようですが、最近では増税や規制強化などの政策を推し進めています。いずれも国民の経済活動の自由を奪う政策です。

 また、安全保障に関することや憲法改正の議論を進めることは重要ですが、数を頼みにして国民に十分に説明することなく決めていこうとする傾向も見られます。

 「自由」や「民主」の本質を理解するためには、神仏への「信仰」が必要です。

 トランプ米大統領は、宗教心をとても大切にしており、福音派から圧倒的な支持を集めています。

 実際、トランプ氏の演説には、信仰や神といったフレーズがよく登場します。2018年1月に行った一般教書演説において、減税政策の恩恵に触れた後に、「アメリカ人の生活の中心にあるのは信仰と家族であり、政府や官僚ではない」と語っています。

 トランプ氏が減税や規制緩和を進めるのは、神仏を信じる心に基づいて、各人が自由な経済活動を進めていくことを是とする哲学があるからです。

 人間心によるわがままではなく、神の子としての善なる性質に基づいて自由を発揮するとき、国家は最大限に繁栄していくのです。

 そして、神の子である人間が各人の知恵を持ちよるところに、民主主義の意味があります。

 総裁は、『日本建国の原点』で次のように述べています。

「民主主義においては、みんなで神の心を慮り、良心と良識で考えて道を決めていくことが大事です。『神様ならこう考えるだろう』という気持ちに合わせて、結論を出していくことが大事なのです」

 たとえば、ヒトラーによる全体主義体制は民主主義から生まれました。神仏への信仰心を忘れてしまうと、「民主」は誤った方向に進んでしまうこともあります。

「自由」と「民主」の観点のない「信仰」は問題がある

 では、信仰だけあれば大丈夫なのかといえば、そうとは言い切れません。

 イスラム教の信仰に基づいて政治がなされているイスラム教国では、開祖が説いた教えや戒律を絶対視し、人々の自由が制限されたり、宗教指導者が国政について強い権限を持っていたりすることがあります。

 確かに、「自由」が多少制限されても、優れた宗教指導者が出た場合は、その人に従っていけば国がまとまり、大きな間違いを犯すこともないかもしれません。

 また、「民主」についても、徳ある指導者が政治を行ったほうが、試行錯誤が少なく、国家を発展させられる可能性もあります。

 しかし、自由性を発揮して向上する喜びや、自分たちで新しい国の仕組みを作り上げていく幸福感は得られないでしょう。

 総裁は、神が政治をつくられた時の念いについてこのように説明しています。

「神が人々に対して、『あなたがたが、この世において「仏国土ユートピア」、あるいは「神の国」をつくりなさい。この世を”実験場”として与えるから、天国にあるような世界をこの世でつくってみなさい。その意味での”権限”を与えるから、やってみなさい』と託されていることを忘れてはいけないと思います」(『日本建国の原点』より)

 神仏は、魂の学習の場としてこの世をつくられました。政治という営みに参加することによって、私たちの魂は公の使命に目覚め、成長できるのです。

 また、神の言葉が絶対だといって、自由や民主の価値観を制限してしまえば、地上の宗教指導者が暴走した際に歯止めが聞かなくなります。

 「自由」と「民主」を尊重する内容が含まれているかということは、その信仰が寛容であり、普遍的なものを含んでいるかどうかというチェックポイントにもなりうるのです。

 このように考えると、「自由」と「民主」と「信仰」の三つはセットでなければいけないことがよく分かります。

 「自由」「民主」そして「信仰」をもとに、自分の人生を自分で決められ、他の人々の幸福のために生きることを選べる社会でこそ、人権が守られ人間の尊厳が守られるのではないでしょうか。

 この三つの価値を広げていくことによって、多くの人を不幸に陥れる全体主義国家や共産主義国家をなくしていくことができるのです。

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