瓜生島伝説

 大分川の河口から1キロほど沖合いに砂州で陸とつながった島があった。これが約420年前まで大分県の別府湾、大分市の西北3.3㎞の位置に存在したと言われる「瓜生島」という島です。

 しかし、豊後国(現在の大分県)で発生した慶長豊後地震とそれに続く津波によって、一夜にして海に沈没、島の住人の大多数が犠牲になったという驚くべき話が残っています。

 

瓜生島沈没伝説

 そのむかし、豊後湾(別府湾)には瓜生島(別名迹部(あとべ)島・沖の浜島)、大久光島、小久光島、東住吉島、松島などの島々が浮かんでいました。

 なかでも瓜生島は、東西36丁 南北21丁あまりもあり、古代から栄えた古い島でした。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)や鵜葺草不合葺尊(うがやふきあえずのみこと)は、東上の際この瓜生島から舟出したと伝えられています。

 室町時代になりますと、島は豊後一の貿易港として、各国からの入船でにぎわったと言われます。当時は十二ヵ村戸数千戸を数え、島長の館を中心に三条の大通りが走り、南を本町、中央部を東町、北を新町と称し、大分から瓜生島・久光島を通って別府へ抜ける交通路がひらけていました。

 島長の幸松勝忠は たいへん信仰心の厚い人であった。島には威徳寺・阿含寺・住吉神社・菅神社・蛭子社等の寺社が立ち並んでいた。文禄4年には阿弥陀寺を建立するための僧行恵が島へ勧進に来たという。

 島には古老たちによって古くからの言い伝えがあった。それは、「瓜生島に住む人々は仲良くしなければならぬ。一人でも仲違いする者あれば、島じゅうの神仏の怒りに触れ、島は海中に沈んでしまう。そのあらわれとして、蛭子社の神将の顔が真っ赤になる」というのである。

 文禄五年(1596年)6月下旬のこと、島の南西端の申引(さからす)村に住む加藤良斎という医者が、「そんな言い伝えなど気にする事はない、天変地変など実際に起こる筈がない。俺が試してやろう」と、蛭子社に奉祀してある十二神将の顔を丹粉ぶんで真っ赤に塗り潰してしまった。

 島の人々は、それを見て、「大変なことをしてしまったものだ。何か異変が起こらねば良いが・・・」と気をもんでいた。その翌月(改元慶長元年6月)の初め地震があり、続いて16・17日にも日に数回地震があった。島の人たちは、「良斎はたいへんなことをしたものだ」「地震は神仏の怒りの前兆だ」とささやきあい、島が沈むのではないかと南大分の方まで逃げる者さえ出てきた。

 翌閏7月にも、4日・5日と立て続けに地震が起こり、更に11日・12日と続いて未刻(午後2時頃)になると、島は激しく揺れ始め、高崎山・木綿山(由布山)・御宝山(霊山)等の山々が一度に火を噴き、大きな石が空から降り注いできた。人々は慌てふためき、島から逃げようと荷物をまとめていると、申刻(午後4時頃)になって一時静かになった。

 その時、白馬にまたがった一人の老人が、島じゅうに「瓜生島は沈んでしまうぞ、一刻も早く避難せよ!」と大声でふれ回った。

 島の人々は、皆我先にと舟に乗ったり泳いだりして、府内(大分市)や日出の街を目指して逃げていった。この老人は、神の化身だったと言われる。老人の予告通り、一刻ほど後に大地震が起こり、もの凄い高潮が島を襲った。

 島長の勝忠も、息子の信重を伴って小舟に乗り、命からがら逃げ延びた。併し、海上は波が荒く、小舟はたちまち波にさらわれ、二人は海中に投げ出された。勝忠は、信重の手を堅く握ったまま波にもまれていた。大量の水を飲んで意識がもうろうとしていた。その時、夢とも無く、現とも無く、大空から声がして、一本の竹が差し出された。勝忠は夢中でその竹にしがみついたが、それっきり波をかぶって気を失ってしまった。気が付いたときには、二人とも高崎山の麓に打ち上げられていた。

 一夜明けて、地変は収まったが、海上には島影一つ無くなっていた。瞬時のうちに沈下したのである。生き残った者はわずかに7分の1、行方不明者は数知れず、溺死者は七百余人と言われる。

 『豊府紀聞』は、瓜生島について以下のように記している。

「慶長元年閏七月一二日の哺時〔ほじ、午後2時または4時頃〕、天下大地震。豊後でもまた所々の地が裂け、山が崩れた。このため高崎山の山頂の巨石がことごとく落ち、その石が互いにぶつかりあって火を発した。地震は間もなく止んだ。府内の民はみな心身を安んじ、入浴をする者、夕飯を食べた者もいたが、まだ食べていない者もいた。その時大海が大鳴動し、諸人ははなはだこれに驚いて、東西に走ったり、南北に逃げたり、海の様子を窺ったりした。村々の井戸はみなことごとく干上がってしまった。そのとき、大海に大波がたちまち起こって押し寄せ、府内と近辺の村々は水であふれた。大津波は三時〔さんとき、約6時間〕に及んだ。 こうして大地震と大波によって府内の家々は大小にかかわらず大半が倒壊、人畜ともに死せるものの数はわからない。また、府内城の西北20余町〔約2.2km〕に勢家村〔現在の大分市勢家〕があり、その地は高かったので人々はそこに避難した。 勢家村の北20余町に瓜生島と名づくあり、あるいはまた沖ノ浜町という(「勢家村二十余町北有名瓜生島。或又云沖浜町」)。その町は東西に並んだ南北三筋の町並みからなっていた。いわゆる南本町・中裏町・北新町であり、農工商漁人が住んでいた。その瓜生島がことごとく沈没して海底となった。溺死しなかった者はわずかに7分の1。ある者は小船で漂い、ある者は流れる家に乗り、ある者は浮木に取り付き、ある者は流れる櫃にすがった。彼等はお互い離れ離れになり、激しく流されたのち、しばらくしてから西南の犬鼻あたりの岸や蓬莱山などの高地に流れ着いて助かった。」

 勢家村の名主は府内城にこのことを知らせ、時の府内城主・早川長敏は、被災者に衣服や米、金銭などを与えた。この災害で沖ノ浜・府内を合わせての死者はおよそ708名にぼったという。

 ムー大陸やアトランティス大陸の沈没と共通するのに、「神の怒りにふれて、巨大地震により沈没した」ということである。

 瓜生島も神意にかなった理想の島である。信仰心の厚い島民たちの手によって多くの神社・仏閣が建ち並び、更に新しい寺の建立も計画されていた。そして、その神意にかなう方便として、人々に仲良く暮らすことを教え、その教えを守らねば島が沈むという厳しい罰を科したのです。

 

瓜生島とは

 その昔、豊後湾(現在の別府湾)内には、瓜生島・大久光島・小久光島・東住 吉島・松島などの島々が浮かんでいた。

 瓜生島は、東は荻原の沖(現在は大分共同火力発電所のある埋立地の辺り)、西は白木沖(仏崎附近)まで、洲浜のような場所で山や丘は無いが、海岸線に沿うようにある松林と海の青の対比が美しい島でした。岬や入り江がいくつもあって、まるで怪物の足形か何かのような複雑な形をしている。

 東西3.9㎞、南北2.3㎞、周囲12㎞、12ヶ村1000戸、人口5000人ほどの島であった。府内の西北約3.3㎞、勢家町から北の速見郡の約2.1㎞あったようです。

 島の中心は「沖の浜町」と呼ばれ、島長である幸松家の立派な屋敷を中心に本町、東町、新町と呼ぶ大通りが走っていた。この幸松家は代々信心深いことで知られ、そのおかげもあり島には威徳寺、阿含寺、住吉神社、蛭子社他多くの寺社があった。当代の勝忠殿も同様であり、島の人々と共に朝に夕にと手を合わせていたという。

 古地図には、東には蛭子社や住吉社、島津勝久の塚、西には瓜生島道場などが描き込まれている。いくつかの岬をもっているが、山や丘はなく低い洲浜のような島で、あちこちにある老松や松林が風景を引き立てていた。

 沖ノ浜町の他に、東側には「浜村」「中ノ津村」、西側には「申引(サカラツ)村」「森崎」という村落が描かれている。瓜生島の西北には「大久光」「小久光」の二つの「久光島」および無名の一島が描かれており、別府湾の奥部はまるで島で埋まっているかのように見える。

 現在の別府市の浜脇の東の沖合に久光島が、そして久光島のさらに東に瓜生島があったという。瓜生島の鼻先には現在の大分市の勢家町(大分港付近)があったらしいから、別府と大分は2つの島を介して海上においてつながっていたことになる。

 当時の豊後国の首府 は「府内」と呼ばれ、その西方の保養地は「別府」といわれていたから、久光島と瓜生島は、2つの「府」を結びつけつる要路だったわけである。

 古地図には、勢家村から2町半(約270m)の渡しを経て瓜生島に渡り、さらに8町(約870m)の渡しを経て、久光島を通って別府へと至る道が描かれている。久光島から別府方面には陸続きになっているものと、天橋立のような砂州で繋がっているように描いてあるものがあります。

 大分から別府への道は島の中を通る一本しかない。白木とか田ノ浦の集落は孤立していたようです。

 瓜生島にあった寺院の本尊が田ノ浦付近の岬に流れ着き、その地を仏像が流れ着いた事に由来して仏崎とされたとの説もある。仏像は大分市勢家町の瓜生山威徳寺に安置されたと伝えられている。

 また、大分川河口の東側には「大洲」という砂洲が描かれている。この大洲は明治の頃まで残っていたようである。

 当時の大分川は、府内を過ぎたあたりで大きく西に曲がり、現在の河口よりも1kmほど西の位置(大分市新川・勢家附近)で海に注いでいたと推定されている。『ポルトガル船東方航海記』によれば、沖ノ浜は大分川の河口付近にあった。また、フロイス『日本史』によれば、フランシスコ・カリオン司祭らは、府内から西方に馬に乗って脱出する際に沖ノ浜が炎上するのを見ている。これらの記録から、沖ノ浜は府内の北北西ないし北西、すなわち勢家の北にあったと推定するとうまく辻褄が合う。

参考

 沈没以前の史料に、「瓜生島」としては登場しないが、「沖の浜」という地名が頻繁に出てくる。

 大友家が治めていた頃の府内は博多と共に九州における貿易の拠点として繁栄しており、海外からの船も多く遠くは 唐 だけでなく南蛮からもやって来ていたそうで、瓜生島もその恩恵を受けて栄えていた。

 室町時代には、ここが日本最大級の国際海港都市であった。島は南蛮貿易の基地だったとされ、その港・沖の浜港は国際貿易港として各国からの入船でにぎわったと言われている。「戦国時代に南蛮船の港町としてさかえ、地震により一夜にして別府湾に沈んだ瓜生島」と書かれている。府内を中心とした豊後国は当時の最先端を走っていた事になる。

 沖の浜という名称からみても、瓜生島は大分川の河口付近に形成された砂洲が発達したもので、これが慶長元年の直下型地震によって液状化を起こし、大津波によって海中に崩れるように沈んでいったのではないかとも考えられる。瓜生島は、沖に浮かぶ島ではなく、出島のようなものではなかったかということである。大分市勢家には「浜町」という地名が現在も残っている。勢家、浜町あたりは沖の浜の一部ではないかと思われます。現在の浜町は、以前まで「沖の浜町」と呼称していたそうです。「沖浜町」という別名があって、その沖浜町の生き残りは勢家村に移り住み、その地を「沖ノ浜町」と名付けたという。

 1977年、超音波を利用して海底の地層を観測する装置を使った調査で、勢家沖、すなわち大分川河口の西にある5号埋立地(大分市豊海)から住吉泊地・西日本電線本社工場(大分市春日浦)にかけての沖合い一帯に、大規模な地崩れの痕跡が広がっているのが発見された。しかも、この地崩れの痕跡の上に、段差2mの断層があるのも発見されたのである。

 この地滑りの痕跡は、南北約1000m・東西約1500m、面積にして約2.3~3.2km2にわたって三角形に広がっていた。これは陸地が地震によって崩壊し、土石流となって滑り落ちたものであった。

スクリーンショット (771) 

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(参考 ニュートン 1991 Vol.11 No.9 より)

慶長豊後地震

 慶長元年(1596)7月12日、日本列島の広範囲に大地震(M7.O)が発生しました。震源地は紀州と高知の間の海中でした。震域は、南は鹿児島県大隅地方から北は静岡県西部地方にかけて広がった。慶長の地震は、近年行われた別府湾の海底活断層調査の結果、湾の北西奥から、湾南へと向かう別府湾中央断層の活動によることがわかった。平成28年4月に熊本~大分にかけて発生した熊本地震と同じように、「中央構造線」の沿線で発生した地震です。九州を南北に引っ張る力によってできた裂け目の北側の縁が別府湾中央断層である。別府湾の北に対し、湾中央部がずり落ちる動きによって地震が起こる。裂け目の中央部、落ち込んだところが海水に浸されて別府湾ができたとされる。

 地震と津波で島の地盤が液状化しはじめる。まず島の輪郭がにじみだし、ついには島全体の地盤が液体と同じような状態になり、海底の斜面に沿ってくずれ落ちた。あとには砂州と島の一部が残るだけだった。この時点で何らかの理由で砂州に木柱が打ちこまれた。だが、やがて砂州も島の一部も波に洗われ消えてしまった。

 地震と津波は時間を隔てて生じたため、1~2時間程度の余裕があったようです。島人たちの一部は、生石町、王子町、勢家町、浜町へ逃れる事が出来たそうです。この災害で、瓜生島・府内を合わせての死者はおよそ708名にぼったという。

参考

参考

 別府湾の一番北側にある中央断層を音波探査機で調査した結果、湾の南側(深いほう)が垂直に切り立った感じで下がっているのがはっきりと分かります。活断層神話を信仰しておられる方々には、原因と結果が逆に見えているようで、「この断層が動いて地震を起こした」という解釈のようです。本当は瓜生島を沈降させてしまうような大爆発で、傷跡として断層が残ったというのが正しいと思うのですが。

 沈没の原因の推理に関してですが、ニュートン誌は「液状化現象」が原因であると解説しています。瓜生島の地盤は大分川の堆積物からなり水分を多量に含んだ砂質のものである。この付近から別府湾は急に深くなっている。地すべりを発生させるには十分な傾斜であった。

 地元の若い漁師が素潜りで昔の瓜生島の痕跡を探したところ、神社の階段らしきものが確認できたというが、真偽のほどはいまも不明である。瓜生島の沈んでいる海底は深く、簡単に調査できるところではないらしい。

別府湾の構造

 別府湾は、九州を横断する「別府-島原地溝帯」と呼ばれる地溝帯の東端に位置する。別府-島原地溝帯は、西の島原半島から熊本・阿蘇山・九重火山群・由布鶴見火山群を経て東の別府湾に続く、東西150km・幅20~30kmに及ぶ大地の裂け目であり、多くの火山や活断層が分布している。

 別府湾の海底は、湾の奥に行くほど深くなるという舟底状の地形になっている。特に、湾の中央部から南寄りにかけては、水深50m以上の部分が東西に長く伸びて広がっている。北側はゆるやかな傾斜になっているが、南側は、海岸から離れるとすぐに水深50m以上に達する、いわば急激な崖になっている。そして、最も深い地点は、湾の南西端近い高崎山の沖合いで 水深73mに達する。

 だが、東西3.9km・南北2.3kmもあったとされる瓜生島の痕跡らしき地形は、湾内のどこにも見つけ出すことができない。それどころか、古地図に描かれた瓜生島と久光島の位置は、実はちょうど現在の別府湾の最深部なのです。昔、湾内で最も浅かったはずの地点が現在は最も深くなっているのです。

参考

 今村明恒(1870-1948)は、幸松家図と別府湾の海底地形を比較し、久光島・瓜生島のあった地域が最も深いことを指摘している。

 豊後地震における陥没の中心は瓜生島の東方海底にあり、そこでの沈降量は10m内外であったと推定した。そして、彼は、この海域は最初の地震の後で「急性的或は慢性的の地盤沈下」によって「別府湾最深の場所となった」ものと推定し、その場合「慶長以後近年に至るまでの沈下量は計70m、年平均20cmという驚くべき数字となるのである」と指摘している。確かに、瓜生島が幸松家図が描く通りに存在したとすると、一度に沈んだにせよ徐々に沈んだにせよ、どうしても70~80m程度の沈降が生じたと考えなければならない。

 もし、瓜生島が「陥没」したとすると、とてつもない大陥没を想定しなければならない。別府湾の南岸は崖状になっている。もし、島がこの崖の縁の近くにあったとすれば、地震・津波によって島が崩壊し、地崩れを起こして滑り落ちてしまった、という可能性が出てくるのである。特に、もし島が砂質の地盤から出来ていたとすれば、地震により島全体の地盤が液状化現象を引き起こし、そのまま斜面を滑り落ちた、という可能性は十分に考えられる。ただし、この場合、島は伝説よりもはるかに規模が小さかったものと考えなければならない。

 瓜生島は別府湾の中で局所的に沈降していて、海溝のような深部に崩落したのではありません。現実に別府湾には大きな断層が残っています。

 大分県の調査では火山灰層の段差は20メートルもあることが分っています。

 水素爆発で「押し円錐の軸」が水平の場合には、地殻が沈降する場合もあることになります。爆発が何度も連続すれば、大陸規模で沈降することも不可能ではありません。

 瓜生島は「押し円錐軸」が水平の解離ガス爆発がおきて沈降したと推定できる。

 地震学では、「マントルは固体だから、陸地がいっぺんにドーンと3、4千メートル沈む、なんてことはありえない」という。

 現在8千メートルもあるエベレストやヒマラヤの山塊が、なぜ水底でしかできない堆積岩なのかを考えれば、大地が何千メートル沈降する事だってありえると考えるべきです。

 今から約1万2千年以上前、大西洋の真ん中にあった「アトランティス大陸」には高度な文明が存在し、飛行機、船舶、潜水艦、テレビ、ラジオ、電話等も使われていたそうです。しかし、そのような高度な文明を持っていたとされるアトランティス大陸ですが、大地震・大津波・大洪水により、わずか一昼夜で海中に姿を消してしまったという伝説がある。ゆえに、「瓜生島の沈没」は、日本版「アトランティス大陸の沈没」と言えそうです。

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