宗教と経営

宗教は、この世の人間の活動も関心の対象とする

 経営は世俗的な領域に属すものであるため、世俗を否定する傾向にある宗教とは対立するという考えもあります。しかし、経営成功学ではそう考えません。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『宗教と経営』で以下のように説かれました。

「「宗教と経営はいったいどういう関係にあるのか」ということについて、私がいま考えていることを述べておきたいと思います。

 世間の一般的な考えによれば、「宗教と経営は、ある意味で対立する」と考える人がいるかもしれません。

 「宗教は、心の世界、あの世の世界に関するものであり、この世とは関係のないものである。一方、経営は、この世のものであり、その中でも、特にお金儲けに関することである。この世でのお金儲けと、この世を去ってあの世に還る話とは、正反対であり、両社は対立するものである」という考え方もあると思います。

 これはマスコミ的な考え方でもありましようし、宗教と経営について深く理解していない人は、そういう反応をしやすいことがあります。

 しかし、幸福の科学では、宗教というものを、あの世のことのみに限定していないのです。人間は、この世に生きているので、「あの世の活動に関心がある」とは言っても、どの宗教も、この世と関係があるわけであり、幸福の科学は、この世とあの世の双方にわたる幸福論に関心がある宗教なのです。

 そのため、幸福の科学は、この世での人間の営みに深い関心を持っています。

 では、この世での人間の営みとは何でしょうか。個人で仕事をしている人もいるのでしようが、大抵の人は、やはり、集団として、会社なり、役所なり、学校なり、いろいろな人々の集まりでなりたっているところで仕事をして、幾らかの給料をもらっているでしょう。

 その意味において、この世の人間の生き方、整形の立て方、あるいは人生観、人生論というものを研究していくと、やはり、この世における人間の活動すべてが、宗教として興味・関心を持つべき対象になるのです。」(P-8~10)

 

宗教的アプローチによる経営研究

 経営成功学では、宗教的アプローチによって、経営のあり方を探求することになります。従来の経営学のようなプラグマティックなものではなく、経営者や経営担当者の意思決定に関わる思想面に焦点を当てることになります。

「あえて言うならば、この経営というテーマも、宗教からのアプローチとしては、大学の経営学部や経済学部、商学部等で教えているような、実用性のあるプラグマティックなものではなく、ある程度、思想性が高いものになるだろうと思います。経営と言っても、やはり、経営哲学のほう、ものの考え方や理念のほうに深い洞察を示すものでなければいけないのです。

 経営論においては、この世における人間の活動のなかで、企業体、あるいは組織体の行動様式に対する分析を行いますが、主として、思想的、哲学的、人生論的な観点から分析していくのが、宗教としての経営論のアプローチなのです。

 したがって、「宗教の経営研修に出れば、まるで経営コンサルタントが会社に入ったように経営改善がなされる」というスタイルでの結果が出るとは思いません。

 宗教の経営研修では、企業に働いている人、経営者や管理職をしている人、あるいは、それを目指す人にとって、「いかなる哲学、思想を持つべきか」ということを学んでいただき、この世的な部分に関しては、各自の自助努力を通じて実現していくのが本筋であると思います。

 思想、哲学、あるいは考え方について、一定の方向性、理念を示し、具体的な活動ののなかで、この世的なさまざまな物差しなり、道具なり、学問なりを使って、成果を上げていくことが大事なのです。

 「宗教と経営は対立するもの」という考えもありますが、私は必ずしもそうは思いません。

 たとえば、企業が倒産して、その結果、宗教に救いを求める人はたくさんいます。救いを求め、心の安らぎを求めに来ます。「今後の人生を、どのように生きればよいか」と、道を求めて来るのです。

 そして、転職を祈願したり、事業繁栄を祈願したりしますが、これは、病院で言うと、既に病気になった人が病院に来て、「治してください」と言っている姿に近いのです。

 しかし、それ以前の段階で、病気にならないような健康法の提唱、健康生活の勧めということはあると思うのです。予防医学的な観点から、「このような生活をしなさい」「このような食生活がよい」「こういう生活習慣を身につけなさい」ということはあると思います。そういう生き方をすることによって、病気を事前に予防することも可能です。

 会社の経営においても同様であり、会社をつぶしてからでは遅いわけです。病院に入院して手術が必要であるような状態、体の一部を切ったり輸血をしたりするような状態では、既にかなり悪いのです。

 その前の段階で、企業のなかに生きる人たちが、根本に正しい企業観や正しい人生観を持って生きていくことが、企業の倒産や赤字、失敗などを防ぐ、予防医学的な働きをするだろうと思います。

 そのように、企業活動をしている人々、経営者や管理職、あるいはビジネスエリートたちにとっても、宗教から学ぶべきものはあるでしょう。」(『宗教と経営』P-10~15)

 経営成功学では、「値決めをいくらにすれば儲かるか」「どのようなビジネスモデルが儲かるか」という研究より、「どのような心構えを持っていれば、正しい値決めが可能になるのか」「どのような考え方をすれば、新しいビジネスモデルを開発することができるか」という研究をすることになります。

 

宗教に学ぶ経営の意義

 宗教や思想は大きな影響を経営に与えます。なぜ宗教に学ぶかと言えば、信仰心とは、強い力を持っているからです。単なる利益追求では出てこない、深い使命感や理想を呼び起こすのです。

「組織体としての宗教と企業体とは、共に人間の営みなので、まったく違うものとも言い切れない面があります。「なるほど」と共鳴し、共感し合う面も持っています。

 そういう面については勉強することができるでしょう。個人において、宗教に学ぶことができるように、組織体においても宗教に学ぶことができるはずです。

 どのような面を学べるかというと、まず、宗教における信仰心の面です。キリスト教、イスラム教、その他宗教はいろいろありますが、信仰心に基づいて、何百人、何千人、何万人、あるいは何十万人、何百万人、さらには億の単位の人が、一つの宗教の信者になって結びついています。信仰心というものは非常に強い力を持っています。

 その数億の人々は、価値観も違うし、生活のレベルも違うし、育った環境も違うので、全員を同じように扱うのは難しいことです。ばらばらの人々、すなわち、違った階層の いろいろな種類の人々、肌の色も言語も違う人々を結びつけるのは信仰心です。これが人々を結びつける最大の紐帯、かすがいなのです。

 この信仰心があってこそ、違いを超えて結びつくことができるのです。これが宗教の強みです。

 宗教には、こういう信仰心というものがありますが、会社においてそれに当たるものは、一種の忠誠心のようなものでしょう。

 会社は、生物として目に見えるかたちで存在するものではありませんが、法人といって、組織でありながら普通の人間と同じように社会のなかで生きているのです。

 「○○商事株式会社」「××製鉄株式会社」など、いろいろな会社がありますが、何百人か何千人かで成り立っている会社は、不思議なことに生きているのです。

 会社は、個々人の集まりや、資金、建物、商品できていますが、そういう ばらばらなものだけで成り立っているわけではなく、組織体として生きていて、呼吸をし、血液が流れているのです。

 そのため、会社は、生き延びるために、あるときは減量して、工場を閉鎖したり、従業員を減らしたりしてしますし、また、あるときは それを増やしたりします。そのようにして、人間と同じように活動しているのです。

 会社は法人という一種の生き物ですが、会社のなかにおいても、信仰心に似た忠誠心というものがあれば、働く人たちの絆は深くなってきます。これがなく、単にばらばらの人の寄せ集めだけであれば、烏合の衆の軍隊と同じで、力がありません。

 その会社で働く人たちを結びつけるだけの強い求心力を持たなければいけないのです。求心力がない場合、すなわち、できたばかりの会社であったり、経営がダッチロール(蛇行)している会社であったりする場合には、経営のトップや経営側にある人は、強い強い求心力をつくらなければいけません。その面では、宗教から学ぶものは多いでしょう。それは、理想の提示でしょうし、使命感の提示でしょうし、目標の提示でしょう。あるいは、熱意でしょうし、説得力でもあるでしょう。

 そういうものによって、「その生きている会社、使命を果たしている会社の存続、発展がいかに大事なものであるか」ということを説かなければいけないのです。

 宗教における信仰心にも似た 忠誠心、帰依の心が、ばらばらの個人を結びつけて、単に給料をもらいに来ているたけの人を、組織の一部となって、「自分たちのために働くことが、同時に会社のためである」と考える人たちに変えていくようになるのです。

 経営者は、そのような会社をつくっていかなければいけません。「条件がよければ寄って来るが、条件が悪ければ辞める」というような人間ばかりの集まりであったならば、経営は大変でしょう。

 社員が会社に対して信仰心にも似たようなものを持つようになれば、その会社は強いでしょう。」(『宗教と経営』P-52~60)

 もちろん、すがる動機だけではなく、社会貢献など高邁な精神の源泉としての信仰であるケースもあるでしょう。

 宗教が経営に与える影響については、宗教の別、信仰者の信仰の度合いによって千差万別です。

 同じ宗教の信者であっても、信じ方や信じる強さは人によって異なります。ヤオハンのように、経営者の信じる宗教思想をそのまま経営理念に落とし込み、実践に移すケースもあれば、個人的には熱心な信仰者であっても、経営とは明確に区別をしているケースもあります。生長の家でいえば、全ての生長の家の信者経営者がヤオハンのような経営をしているわけではありません。

 また、信仰の内容は定量化できないため、外部からの分析には限界があります。しかし、経営トップの意思決定が、企業の運命を決め、最終的な業績に影響を与えることを考えれば、意思決定そのものに強い影響を及ぼす宗教は、思う以上に企業業績を左右する要因となっていると推測できます。

 

宗教を規範とした松下経営

「最高の経営は最高の宗教と一致してくるのです。宗教と変わらなくなってきます。宗教には帰依の対象が必要であり、帰依すべき対象として、本尊あるいは経典などがありますが、会社においてもそれはあるのです。会社において、宗教の基本的な教義に相当するものが経営理念であり、教祖に当たるものが社長なのです。

 社長が書いたり語ったりしたものをまとめて、従業員が読めるようなかたちのものをつくれば、それは宗教の経典などに相当するわけです。」(『社長学入門』P-321)

 経営とは、お金儲けではなく、現にある「ヒト・モノ・カネ・情報」等の経営資源を使って、それらの合計以上の成果を生み出すことである。

 経営の手法が優れていれば、その組織体は発展していくのであって、発展の法則というものは必ずあるが、現人の悩みの大半は経済的原因によるものが多いので、発展の法則を研究することは、悩みの解決手段ともなる。

 また、大勢の人が働く職場である会社が傾いたり倒産したりするのは、非常に危険なことであるから、その運営を正常化するために経営理論を知っていることは、「転ばぬ先の杖」になるだけではなく、さらに幸福を増進することにもなる。

 総裁は、『社長学入門』で以下のように説かれました。

「しかし、私は、経営を単にお金儲けと考えているわけではなく、「経営とは、現にある『ヒト・モノ・カネ・情報』等の経営資源を使って、それらの合計以上の成果を生み出すことである」と考えているのです。
 例えば、百人の人が単にバラバラに仕事をしても、百人分の仕事以上のものにはならないでしょうが、この百人が、一つの理念の下に、優秀なリーダーに率いられて仕事をすると、百人分の合計以上の成果を出すことができます。
 これは分かるでしょう。良きリーダーがいれば、百人が、ただ、バラバラに行っている単純仕事の合計よりも、もっと良い仕事ができるのです。
 それから、物の使い方に関しても、個人個人が、ただ、バラバラに、好き勝手に、いろいろな物を使うよりは、例えば、「現にある施設や道具等を使って、もっと大きな生産ができないか」というような観点から考えると、単にその物が生み出す価値以上のことができるようになってくるわけです。
 また、お金もそうです。個人個人が、バラバラに持っているだけ、あるいは、バラバラに貯金しているだけであれば、銀行の預金金利以上の仕事はしないのですが、例えば、そのお金を集中させて、一定以上の額にし、それを事業資金として使うと、大きな投資効果のある事業をすることができます。
 これは情報についても同じです。
 ある情報をタクシーの運転手が持っていて、その情報は、タクシーの運転には必要のないものであったとします。ところが、タクシーのお客さんのなかに、その情報を必要としている人がいて、その人が運転手からそれを聞いた場合には、その情報は価値を生むことが当然あります。
 しかし、組織においては、そういう偶然を求めていたのではいけません。必要な情報が必要なところに集まり、良い判断ができて、成果を生み出せるように、組織を組み立てていかなくてはならないのです。
 このように、「ヒト・モノ・カネ・情報」等を使って、その総計以上の成果を出す方法が経営の手法であり、これが優れていれば、大きな結果を生んで、その組織体は発展していくことになります。
 したがって、一人か二人で始めた事業が、やがて、五十人、百人になり、千人、万人になることは十分にあるわけです。これは非常に不思議です。
 どういう仕事かということによって、やり方が違うので、定式化することは難しいのですが、発展の法則というものは必ずあります。
 現代では、個人のレベルにおいても、悩みの大半は経済的原因によるものであることが多いので、発展の法則を研究することは、現代人の悩みを解決する手段ともなります。
 また、会社は大勢の人が働いている職場であり、その意味では、会社が傾いたり倒産したりすることは、非常に危険なことです。したがって、その運営を正常化するために、こういう経営理論を知っていることは、「転ばぬ先の杖」になるだけではなく、さらに、幸福を増進することにもなると思います。」
(17~21ページ)

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