自分の器

 人間の器の大きさとは、責任をとれる範囲のことでもある。

 自分の責任の範囲を、心のなかで少しずつ広げていく努力をすること。

 そうするうちに、責任という言葉で語っているものが、やがて愛に変わっていく。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『リーダーに贈る「必勝の戦略」』で以下のように説かれました。

「人間の器の大きさとは、責任をとれる範囲のことでもあります。人間の大きさを測る基準は幾つもありますが、一つには「どれだけ責任をとれるか」ということなのです。つまり、「自分は、どのような人間か。どのような立場の、どのような器の人間か」を知りたければ、自分が責任をとれる範囲を考えればよいのです。
 これは極めて大事な考え方です。案外、責任がとれないものなのです。
 責任をとるということは、自分の人生だけではなく、他の人の人生にも責任をとることを意味します。これはリーダーの資格そのものです。「どれだけ多くの人の生き方に責任を持てるか」ということが、リーダーとしての器を表すのです。
 責任をとることに関しては、次のような考え方が大切です。
 「自分の心で正直に見て、失敗だと思うことは、自分の責任を認めることによって、次なるステップがある。ところが、それを環境や周りの人のせいにだけしていては、いつまでたっても向上はない。『自分に不利なことをも、あえて正直に認める』という性格が、大いなる独立の精神へと導いていくのである」
 失敗したとき、人間は、ともすれば、「自分だけの責任ではない。いろいろなことが原因でこうなった」と思いたいものです。実際、そのとおりでもあります。原因を分析すれば、誰か一人だけの責任ということはありえません。やはり周りの人の問題もあるでしょう。
 そのため、「こうした環境や条件下でこうなった」と、自分を慰めたい気持ち、自己を弁護したい気持ちが起きてきます。その気持ちは分からなくもありません。そう考えないと、非常に繊細になり、悩みに陥ってしまい、再び立ち上がれないかもしれません。
 ただ、傍目から見て、「この人は偉いな」と思うのは、その人の責任範囲を超えたところにまで、自分の責任を感じている人を見たときでしょう。他の人の場合はそう思えても、自分の場合になると、なかなかそうはいかないものですが、ここはひとつ努力してみる必要があります。
 確かに、「直接に手を下したかどうか」という一次的な責任は有限なので、自分が直接的な責任を負っているとは言えないかもしれません。しかし、二次責任、三次責任、すなわち、間接的な責任というものがあるのです。
 たとえば、「うちの子が転んだのは、おたくのお子さんが悪かったからよ」と一生懸命に考えたところで、器は大きくなりません。
 しかし、「うちの子が転んでケガをしたのは、一緒に遊んでいた友達の責任かもしれないが、危険な場所であることに気づかなかったのは、母親である自分の責任である」という考え方もあるわけです。「これは自分にも原因がある」と思ったときには、他の人を責める気持ちがなくなるのです。
 そして、自分の責任の範囲を、心のなかで少しずつ広げていくことです。
 そうするうちに、責任という言葉で語っているものが愛に変わっていきます。最初は責任と思っていたものが、やがて愛に変わっていくのです。必ずそうなります。」
(66~70ページ)

 

無用の用 氷山の水面下の部分

 実力あってこその名声、実力あってこその人気であって、そのためには蓄積していくことが大事である。

 学んで蓄積したことが、目前の仕事や家庭生活に生きなくとも、それは、天の蔵に富を積むこととなっている。

 のみならず、今世でも、「無用の用」の部分があることが、いろいろな危険から自分を守り、心の安定に役立ち、自分の実力をつくっている。

 大川隆法総裁は、『不動心』で以下のように説かれました。

「人間はともすれば、実力が充分ではないのに、「他人より偉くなりたい」と思い、肩書や地位を求めます。それがなぜ悪とされるかといえば、実力の充分な蓄えがないのに人びとを指導することは、クレジットカードでボーナスの先食いをしているようなものだからです。
 すべての人が「自分は社長になりたい」と思っても、そうはいきません。なぜかといえば、実力の蓄えのある人が社長になると、多くの人に恩恵を与えることができますが、蓄えのない人が社長になると、その社長業はむなしくなり、人びとが苦しむからです。こうした面があるのです。
 人気先行型の俳優やスポーツ選手も同じでしょう。人間は実力相応の人気が出てくればよいのであって、人気が先行して実力が伴わないと、その人気はむなしいものなのです。
 やはり、実力あってこその名声、実力あってこその人気です。実力以上の人気を得ようとすると、足が宙に浮いてしまうような現象が現われてくるのです。
 したがって、人生に勝利していくためには、やはり蓄積が大事です。その蓄積が、今世において使われなくとも、今世において評価されなくとも、それは天の蔵に富を積むこととなっているのです。
 すなわち、人生において学んだことが、必ずしも仕事や家庭生活に生きなくとも、「学んだことは一切無駄にならない」という事実があるのです。
 みなさんは高校時代に、物理や化学、地理などを学んだでしょう。「これが将来、何の役に立つのか」と思ったかもしれません。しかし、それらを知っていることが、みなさんが認識力のバランスをとるための素材となっているのです。
 それは「無用の用」という言葉でも表わされます。
 どれほど大きな橋でも、一人の人間が歩くために必要な幅は、わずか二、三〇センチです。それだけの幅があれば、人間は橋の上を歩くことができます。
 それでは、橋の残りの部分は無駄かといえば、無駄ではありません。急流の上に幅三〇センチの丸木橋が架かっているだけでは、たいていの人は下の急流が気になり、恐怖で足がすくんで渡れないのです。
 このように、実際には使わない部分であっても、それがあることが、いろいろな危険から自分を守り、心の安定に役立っているのです。これを「無用の用」といいます。
 そして、この「無用の用」の部分、すなわち蓄積の部分をどれほど持っているかが、その人の実力だと考えてよいのです。
 蓄積が少ない人は、少々のことで心が動きます。一方、蓄積が多く、自分のなかに絶大なる自信がある人は、多少の不評や挫折ぐらいでは心が揺れません。したがって、それだけの蓄積を、氷山の水面下の部分をつくっていくことが大事なのです。」
(53~57ページ)

 

自分の器を大きくする

 人をくさしたり、悪口を言ったりすることが増えてきたと思ったら、心して「祝福の心」を持つことが大事である。

 若い人は、くさされると駄目になるが、励ましてもらうと、まだいくらでも仕事はでき、伸びていけるので、伸ばしてあげることが大事である。

 自分の器を大きくしたいのなら、祝福する努力をすることである。

 大川隆法総裁は、『ストロング・マインド』で以下のように説かれました。

「もう一つ述べておきたいのは、「祝福の心を持つ」ということです。
 人生の中盤以降は、どうしても、自慢話が増えてきて、人を悪く見たり、くさしたりするようなことが多くなります。
 それは分かります。確かに、後れてくる者については、能力的に落ちるように見えたり、仕事ができないように見えたり、非常に低く見えるものです。
 これは実際にそうなのです。決して悪意だけで見ているわけではないのですが、若い人たちを見ると、仕事ができないように見えます。「まだまだ駄目だ」というように見えるものなのです。
 しかし、その見方がかなり曇ってくることがあるので、「人をくさしたり、悪口を言ったりすることが増えてきたな」と思ったら、心して「祝福の心」を持つことが大事です。
 やはり、人をほめる心を持つことです。若い人であれば、励ましてもらうと、まだいくらでも仕事はできますし、伸びていけるのですが、そこでくさされると駄目になっていくので、伸ばしてあげることが大事です。
 そのように、祝福する気持ち、祝福の心を持っている人は、やはり器の大きな人なのです。
 逆に言うと、自分の器を大きくしたいのなら、祝福する努力をしてください。」
(184~185ページ)

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