経営者と八正道

 幸福の科学大川隆法総裁は、2004.11.21 法話・『経営の極意』で以下のように説かれました。

「経営についての技術的な考え方は数多くありますが、当会の信仰者であるならば、基本として、第一に八正道を みずからを振り返る考え方の中心に置いてください。

 八正道は、人生全般に通用する生き方の基準です。ただ、経営者は、その特殊な立場において八正道を行ずることが出来るという、極めて稀な経験を積むことが可能なのです。」

八正道は、人生全般に通じている生き方の基本です。その特殊な立場である経営者にとって、実際の経営のなかで八正道の実践が可能だと言われます。

 例えば、「正見」に当たるものは、「正しい経営理念、経営信条があるか」ということになる。自らの使命が仏法真理に合致して、世の中の人々を豊かにしていけるかどうかが問われるのです。

 

経営者のための八正道

 経営者は、「八正道」の実践を通じてさまざまな奥深い人生経験ができる。八正道は、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」という観点で、自己変革や正しい生き方を促すため教えです。

 八正道のなかでも、特に一番目の「正見」を大切に考えてください。

 正見の考え方は、宗教的には、「正しい信仰」「正しい宗教信条」「正しい真理の認識」ということですが、経営者にとっての正見とは、まさしく「正しい宗教信条を持っているか」ということになります。

「まず、「正しく見る」ということがあります。
 自分は他人を見て、「こんな人間だ」と思っているけれども、その他人が自分自身を見る目と、自分が他人を見る目とが食い違っていて、そのことにも気がつかず、何十年も生きていくことができるということです。例えば、周りの人がみな、自分のことを本当はほめてくれているにもかかわらず、「自分は駄目な人間だ」と思い続けているような人もいるわけです。結局、「見る」ということができていないのです。逆もよくあります。
 自分を「過大評価」してしまっても、また転落の基となるけれども、「過小評価」しすぎてもいけない。この「正しく自分を見つめる」ということは、何にも増して大事です。」
(『幸福の科学の十大原理(上巻)』)

「正見の部分で、男性が最も気をつけなければいけない点は、この「敵か味方か」という考え方です。
 男性は、いったん、「敵」あるいは「自分にとって有害な人」という分類をしてしまうと、なかなか、その分類を変えようとはしません。しかし、「そういう分類をするのは少し待ちなさい。結論を出すのは、まだ早い」と私は言いたいのです。
 自分にとって、仕事の面で不利になるような動きをしている人であっても、「なぜ、そのように動いているのか」ということを探究してみることが必要なのです。そういう人は、実は、姿を変えた先生であることも多く、自分の心の反映である場合も、実際、数多くあります。
 ほんとうは、最初の段階で、相手の持っているよいところがすべて見えるとよいのですが、たいていの人は、そこまで修行が進んでいないために、初対面でその人のよいところをすべて理解するほどの認識力を持っていません。したがって、その見えていない部分については、可能性を持った灰色として見てあげなくてはならないのです。そして、いろいろな人との接触を通して人間を知り、正見を深めていく必要があります。」
(『復活の法』)

「「上司が自分をいじめ続ける」などと思っていても、何のことはない、実際は自分のほうが言うことをきかずに、何だかんだと生意気に反抗したり仕事をしなかったりしているわけです。そのようなことが引っ掛かっているだけのことであって、態度を改めて「申し訳ございませんでした」と言えば、もうそれで済むようなことを、“永遠の地獄”として自分でつくり出しているのです。
 これを「自我」と言ってもよいでしょう。あるいは「自己保存欲」「エゴ」と言ってもよいでしょう。美しく言えば「プライド」です。
 しかし、本当に自分がかわいいのであれば、自分を救うことをこそ考えなければなりません。自分を苦しみから救出しなければならないのです。そのためには、間違ったと思ったら、素直に「ごめんなさい」という気持ちを出さなければならないのです。これだけのことで、どれほど幸福になるか分かりません。」
(『真説・八正道』)

「大切なのは、目を通じて入ってくる情報を、いかにさばいていくか、ふるい分けしていくかということです。
 たとえば、会社のなかで、若手の社員が「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。しかし、この行為に対する認識は、人によって分かれることになります。その人の上司が、その提案を肯定的にとらえようとすれば、「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」と見ることもできるでしょう。
 否定的に見れば、「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語し、自分の分を知らずにいる。日々の事務仕事がきちんとできてこその、大きなプランであり、理想である。彼はまだまだ謙虚にならねばならん。うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」と感じる人もいるでしょう。
 この二つの見方のうち、どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。そして、前者の見方が正しいならば、自分はなぜ後者の見方をしたのか、この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、その根本原因をたぐっていく必要があるのです。」
(『釈迦の本心』)

 

 二番目の「正思」では、心の中を振り返り、自分が1日のうちに考えたことや思ったことを点検してください。

経営において、「正思」に当たるものには、「正しく判断したか」という内容があり、経営判断の基礎ともいえる学びがあります。

「気に障ったらお許しいただきたいのですが、例えばかなり長く勤めているOL、結婚していない女性等のなかにも、そうしたことをする人はいるでしょう。もちろん、気立てもよく、仕事もできる人もいますが、なかには、無意識下に若い人たちの邪魔をし始める人もいるのです。
 若い女性の結婚の邪魔をする場合には、「浮ついている」「化粧が云々」「仕事をする気が全然ない」「遊びに来ている腰掛けだ」といったことを言っていじめたりします。また、男性に対しては、「仕事をしないで女の子の尻を追いかけている」などといびったり邪魔をしたりするわけです。
 こうしたものは、みな、自己正当化をして、プライドを固めていった結果なのです。そして、自分が、神仏から、あるいは多くの人たちから愛を受けて生きているということを見落とした結果なのです。
 こうしたものも、「正しい思い」のところでチェックしなければいけない部分です。」
(『真説・八正道』)

 

 三番目は「正語」です。

 まず、悪口があります。「他人の悪口を言わなかったか」ということです。

 次は妄語です。「嘘偽りを言わなかったか。特に、商売上嘘が過ぎていないか」ということです。

 それから綺語です。他人にお世辞を言ったり、おべっかを使ったりする場合でも、「お世辞やおべっかが過ぎていないか」ということです。

 さらに両舌です。「AさんとBさんに違うことを言って、仲違いをさせるようなことをしなかったか」ということです。

「あなたは正しく語ったかということです。言葉による不幸というのは絶えません。会社でもあります。家庭のなかでもあります。
 会社などの仕事環境でも、たいてい言葉のせいで人間関係がおかしくなるのです。人を傷つけたり、悪口を言ったり言われたりするようなことで、おかしくなります。ですから、言葉というのは、現代では非常に大事なのです。」
(『悟りの挑戦 上巻』)

「「正語の教え」というのは、仏教的な悟りの問題だけではなく、仕事の上でも大事であり、嘘を重ねていく者は、基本的には信用されません。
 『太陽の法』にも、「正語の教え」として、「自分は正しく語ったか。自らの良心に恥じるようなことは語らなかったか」という「真実語」を出しています。「真実語を語ることが大事である」ということです。」
(『嘘をつくなかれ。』)

「商売上、綺語を言う人はいます。「毎度あり。お客さん、〇〇ですねえ」などと言って、お客さんの機嫌をとることは、商売上の潤滑油として、ある程度は許されるでしょう。お互いに、そういうものだと了解しているからです。
 しかし、商売ではなく、単に自分がほめられたいために、おべんちゃらや、きれいな言葉を言ったり、あるいは、「相手を利用してやろう」と思って、そういう言葉をよく使ったりしている人には、やはり、どこかで、しっぺ返しが来ます。特に、おべんちゃらを言う人には、劣等感を持っている人が多いのです。
 ただ、地位も低く、仕事のレベルも大したことのない段階においてはよいかもしれませんが、ある程度、仕事が固まってきたり、地位を得てきたりしたならば、気をつけなければいけません。やはり、立場相応の言い方というものがあるのです。
 そのため、影響力の大きい立場になったときには、言葉に気をつけて、抑えた言い方をしなければいけません。」
(『八正道の心』)

 

 四番目は「正業」(正しい行為)です。

 これは、「憲法、刑法、民法、その他の法律行為に反する行為をしなかったか。「人が見ていなければよい。人に分からなければよい」と考えて、この世的に見ても「悪」と言われるようなことをなさなかったか」ということです。

「「正業」、正しい行為です。
 私は、これを現代的に翻訳して、「正しい仕事」(正業)ということもこれに含めています。仕事がきっちりできることです。勤め先で仕事がきっちりできること、また主婦であれば家庭のなかでのやりくりがきっちりできること、それがやはり人間として正しい人生を生きるための中心です。」
(『悟りの挑戦(上)』)

「「正しく仕事をする」などという「正業」の問題もあります。自分の今日一日を振り返って、例えば、「正しく仕事をしたか」を考えてみます。サラリーマンであったなら、「会社のなかで、本当に貢献できるような仕事をしたか。投げやりな仕事をしたのではないのか。本当に誠心誠意やったか」を点検するのです。
 また、「立場相応」ということがあります。新入社員のときには「新入社員の心掛け」というものがあったでしょうが、やがて課長になり、部下を持つと、長たる者の仕事はまた別になってきます。
 社長となれば、自分の個人の事情だけでは判定や判断ができない。やはり、全社員の運命や幸福を握っている。そういうことで、一つの判断であろうとも、本当に天にもすがる気持ちで、必死の判断をしなければいけないことがいっぱいある。そうしたことを部下は知っているだろうか。こうした問題があるわけです。」
(『漏尽通力』)

「デスクワークにおいても、確かに、しっかりした仕事をしているということは、それ自体に真理価値があることは事実です。
 そのなかにおいてきっちりとした仕事、よい仕事をしたということであるならば、それはそれでプラスと考えてよいでしょう。その間に仕事でミスを犯したり、あるいは他の人に迷惑をかけたり、取引先に迷惑をかけたりと、マイナスのことをたくさん起こしたならば、これは真理価値的にはマイナスになっていきます。
 その単位時間当たりの自分の仕事の内容を見ていくことが大事です。これが正命的判断からの反省です。「正業」と「正命」とは似たところもありますが、このように、正命を「一日の時間の使い方」という観点から照射していくことも可能です。これに対して、正業は、「もっと大きな意味での仕事の仕方」、「自分の生き方」、「行為によって自分の値打ちは決まる」といった点から考えればよいでしょう。」
(『真説・八正道』)

「理論的な位置づけとして、八正道のなかの正業は、正しく仕事をすることを含んでいるかもしれません。ただ、この場合の「正しく仕事をする」ということは、主として反省的観点からのみ述べられていることが、いまひとつ不十分な点だと思います。もっと積極的な観点から、仕事というものを捉え直し、位置づけることができないかどうか。
 優しさというものを考えてみるならば、「多くの人に優しく接する」ということは、仕事の面においても、大いなる潤滑油となり、力強い推進力ともなることでしょう。
 厳しさは、愛のなかでも、特に「生かす愛」の面で出てくることが多く、厳しさのなかで、仕事を高度に仕上げていく技術が磨かれることも真理です。
 「愛の強さ」というものが出ると、どうなるでしょうか。おそらくは、責任感となって表れてくることでしょう。
 愛のきめ細かさが仕事一般のなかに表れてくると、どうなるでしょうか。それは、おそらく、「ミスのない仕事」というかたちになるのではないかと思います。」
(『仕事と愛』)

 

 五番目は「正命」です。

 これは、「自分の体の使い方(身)、口の使い方(口)、心の使い方(意)、この『身・口・意』の調和がとれているか」ということです。

 経営者は、その激務ゆえにストレス対策は必須だと言えます。経営において、八正道の「正命」に当たるものには、「『身・口・意』の調和がとれているかという内容があります。生活の乱れを糺すという学びがあり、正しい一日二十四時間を生きて成長することが求められているのです。

「「正業」と「正命」の違いについては、「職業」と「生活」との違いというように考えればそれまでですが、正命のなかにはもっと違った意味合いがあります。現代的に言い換えるとするならば、この正命というのは「時間の生かし方」というように考えてよいでしょう。
 別の言葉で言うならば、「ライフスタイル」という言葉に置き換えてもよいかもしれません。「あなたは、どのようなライフスタイルをよしとするのか」という問いかけです。
 アフターファイブというように考えてもよいかもしれません。「アフターファイブの生き方はどうなっていますか」ということです。この無限の時間を、みなさんはどのように使ってきたでしょうか。その結果、現在、自分がどうあるのでしょうか。そして、今後どうなっていくのでしょうか。これを考えてほしいのです。」
(『真説・八正道』)

 

 六番目は「正精進」です。

 これは、「仏法真理に基づいて正しく精進しているか。「修行する」という気持ちがあるか。「会社は道場である。取引先は自分を磨いてくれる師匠である。全ての仕事が人生修行のための課題である。仕事上のどのような苦難や困難も、一種の人生の問題集として、必ず解いていこう」という気概を持っているか」ということです。

 

 七番目は「正念」です。

 正念は、もともとは「仏陀の教えを正しく記憶する」ということでした。その意味で、「当会の教えをきちんと心に刻み、それを毎日生きていくための則とし、方針とし、教訓とする」ということは大事です。「常に、当会の教えを確認し、繰り返し反芻して思い出し、正しく覚えている。その教えを心に刻印しながら、日々の業務や生活に生かしていく」ということも、正念と考えてよいでしょう。

「「正しく念う」とは何でしょうか。みずからの想念のコントロールの仕方として、正思を、一日のうちに去来する思いの総量、集大成と考えるならば、正念は、未来の人生計画、将来の自分についてのビジョンといったことになります。
 これは「あなたの人生計画、自己実現計画は、どのへんにあるのか。あなたがいつも心に念じていることは何なのか」ということを問うているのです。
 人生はまさしく目標や計画の連続であり、「いかなる目標や計画を立て、いかにしてそれに念いを集中していくか」ということが非常に大切になるのです。
 その念いが、たとえば、「あの人に害を与えてやりたい」「あの会社をうまくいかないようにしてやりたい」「彼の出世を妨げてやりたい」といったものであれば、それは間違った念いとして記録されることになります。そうではなく、できるだけすべてのものがよくなっていく方向で念うことが大事なのです。」
(『釈迦の本心』)

 経営者にとって「会社の理念、また自分の使命や職業観などが、仏法真理に合致し、時代性にマッチし、いかに人々を潤していくか」ということを繰り返し考えることの大切さが、一貫して語られています。人生全般に通用する生き方の基本である「八正道」の実践が経営者にとっての成功の道です。

 

 八番目は「正定」(正しい禅定)です。

 これは、「正しく精神統一の時間を持っているか。八正道の修行は正しくなされているか」

ということです。

 

「みなさんは、「一生のうちで職業に従事する時間がどれだけあるか」を考えたことがあるでしょうか。成人してよりこのかた、三分の一、あるいはそれ以上の時間を費やしているのです。
 仕事というのは、二つの面において大切な価値があります。まず、「これがユートピア建設の基地である」ということです。そこを起点として大きな社会変革が起きてくることを、環境が変わってくるということを知らねばならないのです。また、職業はさらに次なるものをわれわれに与えんとします。それは、「われわれの悟りを高めるための材料」として立ち現れてくるということであります。
「自らの悟りを磨いていく場としての仕事がある」ということ、これを知らねばなりません。この方向において、人を生かしていく道は無限に近く、無限の道が広がっているのです。」
(『幸福の科学の十大原理(下巻)』)

 

「「諸行無常。この世のものは、すべて流れていき、移り変わっていくものだ」という目で見られるかどうかです。こういう諸行無常の目で見ると、「執着だ」と言われているものが、全部、網に引っかかってくるのです。
 会社に執着している人もたくさんいるでしょう。しかし、会社に執着しても、百年以上続く会社はほとんどありません。
 しかし、ありがたいことに、宗教は、あちこちで二千年以上もっています。
 したがって、宗教というのは、すごいものだと思います。現代の会社が苦しんでいる姿を見ると、「宗教は偉いな」と、つくづく思います。ほんの一部の教えだけでも、大勢の人がそれをずっと続けられるのですから、「もとはどれほど立派であったことか」と考えれば考えるほど、すごいものだと思います。宗教というのは宝の山です。同じく宝の山でも、ダイヤモンドや金の山であれば、大勢で持ち去ったら、なくなりますが、宗教というのは無限にわいてくる宝なのです。
(『八正道の心』)

ビジネスと真理 へ

「仏法真理」へ戻る