大局を忘れず、小事をおろそかにしない

大局観

 人生において、大きな成功を収めたり、多くの人々を導くリーダーになったりしていくためには、大局観を磨かなければいけない。

 部下が一つひとつの勝ち負けに一喜一憂しても、リーダーが大局観をもって、「ここさえ押さえておけば大丈夫だ」というところをがっちりと握っていれば、部下は動揺しないで自分の仕事に専念できるようになる。

 この大局観は、生まれつきの才能としてもあるが、磨かなければ出てこない才能でもある。

  幸福の科学大川隆法総裁は、『希望の法』で以下のように説かれました。

「大局観を持つということは実に難しいことです。しかし、人生において、大きな成功を収めたり、多くの人々を導くリーダーになったりしていくためには、どうしても、この大局観というものを磨かなければいけません。
 部下から、「あれを失敗しました」「これを失敗しました」という報告をいくら聞いても、リーダーが、「大局において、これは、まだ負けになっていない」という気持ちを持っていると、部下も、あまり動揺しないのです。リーダーが、「このあたりでは負けていても、全体では負けではない」と思い、「ここさえ押さえておけば大丈夫だ」というところを、がっちりと握っていれば、部下は動揺しません。
 そうすると、一つひとつの勝ち負けに一喜一憂して大騒ぎしている人たちも治まってきます。部下たちは、「勝ちなのか、負けなのか」ということが分からないので右往左往することが多いのです。そういうときに、大局観を持って、「大局的な勝ち負けは何によって決まるか」ということを、じっと見つめている人がいると、小さなことで右往左往し一喜一憂している人たちも治まるわけです。
 彼らは、むしろ安心してリーダーの判断を待つことになります。「リーダーが『負けではない』と言うなら、負けではないし、『勝ちだ』と言うなら、勝ちだろう」と考え、大きな勝ち負けの判断をリーダーに任せて、自分の仕事に専念できるようになるのです。
 ところが、「局所的に勝ったり負けたりしたことが、全体では、どうなっているのか」ということは分からないことが多いため、枝葉末節のほうを中心に判断する人がリーダーになった場合には、部下たちは、逆に、ちょっとした負けでも全体の負けのように感じて、一斉に逃げ出してしまうこともあります。その辺が難しいところです。それは、たとえて言えば、水鳥の羽音を聞いて逃げ出す軍隊のようなものでしょう。
 もちろん、誰しも恐怖心は強いので、負けの影が少し見えると、すぐに逃げ出したくなるのは人の常です。そのときに、「リーダーが大局観を持っているかどうか」ということが大きいのです。
 この大局観は、生まれつきの才能としても確かにあるのですが、また、磨かなければ出てこない才能でもあります。
 大局観を持っている子供や、物事を達観している子供は、あまり見かけません。たまには、いるかもしれませんが、すごく老けた感じがして、かわいくないでしょう。やはり、子供は子供らしく勝利を得ていって、途中から、すらりと大人に変わらなければいけないでしょう。
 そのように、大局観のある子供は、それほどいるものではないのですが、ときどき、絶妙な判断をする子供がいることはいます。したがって、生まれつきの才能として、ないわけではないのです。
 ただ、実際に大局観を身につけていくのは、もう少しあとからです。はしりとしては思春期あたりにありますが、二十歳を過ぎたあたりから、だんだん、じわじわとできてくるものなのです。」
(212~218ページ)

  どうすれば負けにならないか、このポイントを押さえれば勝ちと言えるのはどこか。

 つまり、大きな目で見て、全体での勝敗とは、どういうものなのか。

「人生において、単なる「勝ち負け」という考え方だけではなく、もう一段、踏み込むと、「どうすれば負けにならないか」という考え方があります。
 たとえば、「現在、敗色が濃い。失敗が続いている」というときに、「何を押さえたら負けにならないか」ということを中心に考えてみるわけです。「『負けない』とは、どういうことなのか。『ほかのところで敗れても、これを押さえれば負けにならない』とは、どういうことなのか」という、守り型の考え方があるのです。
 もう一つには、積極的な考え方として、「このポイントを押さえれば勝ちと言える」という考え方があります。「たとえ、ほかの小さな戦闘において幾つか敗れても、ここを押さえれば勝ちと言える。あとは無視してもかまわない」という見方があるのです。
 「全部、勝つか。それとも、全部、負けるか」と考えるのではなく、「何かで負けることを織り込んででも、全体での勝ちを取る」と考える、そういう考え方があります。「このあたりを捨てても、全体で勝つ。それには、どうするか」という考え方です。逆に言えば、「ここは負けても、これを押さえれば、全体では負けにならない」という戦い方もあるわけです。
 このように、「全体での勝敗とは、どういうものなのか」ということを、もう少し大きな目で見るやり方があるのです。
 大局観を持つことは実に難しいことです。しかし、人生において、大きな成功を収めたり、多くの人々を導くリーダーになったりしていくためには、どうしても、この大局観というものを磨かなければいけません。
 部下から、「あれを失敗しました」「これを失敗しました」という報告をいくら聞いても、リーダーが、「大局において、これは、まだ負けになっていない」という気持ちを持っていると、部下も、あまり動揺しないのです。
 リーダーが、「このあたりでは負けていても、全体では負けではない」と思い、「ここさえ押さえておけば大丈夫だ」というところを、がっちりと握っていれば、部下は動揺しません。
 そうすると、一つひとつの勝ち負けに二善一憂して大騒ぎしている人たちも治まってきます。部下たちは、「勝ちなのか、負けなのか」 ということが分からないので右往左往することが多いのです。
 そういうときに、大局観を持って、「大局的な勝ち負けは何によって決まるか」ということを、じっと見つめている人がいると、小さなことで右往左往し一喜一憂している人たちも治まるわけです。
 彼らは、むしろ安心してリーダーの判断を待つことになります。「リーダーが『負けではない』と言うなら負けではないし、『勝ちだ』と言うなら勝ちだろう」と考え、大きな勝ち負けの判断をリーダーに任せて、自分の仕事に専念できるようになるのです。」
(『リーダーに贈る「必勝の戦略」』71~74ページ)

 

大局を忘れず、小事をおろそかにしない

「「大局を忘れず、小事をおろそかにしない」ということを述べておきたいと思います。大局観、全体観を持たない人は、経営者として、あまり優れた素質があるとは言えません。
 従業員が考えていないような、大きなスケールの発想も持たなければいけません。従業員が自分の仕事だけをしているときに、会社全体のこと、あるいは、外部との関係や未来のことなどを考える人が必要です。それが経営者としての資質だと言えるでしょう。こういう大局観は、心して磨かなければいけません。大勢の人を率いていくには、この大局観が大事なのです。これには素質的な面もかなりありますが、そうした素質に気がついても、「磨かざれば光なし」ということです。」
(『常勝の法』)

「大局観、全体観を持たない人は、経営者として あまの優れた素質があるとは言えません。

 たとえば、たまたま何かの技術を持っていて、その技術によってある商品を開発し、売り出したところ、それがヒットしたとします。しかし、それが個人のレベルを超えて事業化され、会社が設立されたときには、経営というレベルの問題がどうしても出てくるので、技術へのこだわりだけでは、残念ながら会社の運営は難しくなってきます。

 そのような場合には、やはり、全体を見る目、大局観が大事です。常に全体を見ているということです。「会社全体、市場全体、あるいは日本の経済、世界の経済、それから政治がどのように動いているのか、今後どのような世の中になるのか」、こうした大局観を常に磨いている必要があります。

 しかし、大局観だけにこだわっても、経営者としては成功しません。

 日本型社会においては、階層が十段階も十五段階もあるような会社や役所などがありますが、こういうところで上のほうにいる人のなかには、単に年功序列で押し上げられただけで、必ずしも能力が優れているとは言えない人もいます。そういう人のなかには、大局観というものを、「大勢の人の上に乗っかって、書類に幾つも押されるハンコのうち、最後のほうのものを押すこと」というように考えている人もいます。そのような仕事をしていても、組織が繫栄・発展しているのであれば、それはそれでよいのかもしれませんが、いまの厳しい時代を生きていくには、それは必要な能力であるとは思えません。

 したがって、おおまかなことが見えると同時に、小事、小さなことも おろそかにしないことが大事です。そこに明日へのチャンスがあります。」(『常勝の法』P-179~182)

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