部門対立の解消には「認識力の限界突破」が必要

参考

 タコには脚が八本ありますが、タコの脚がお互いに喧嘩し合うような状態が出るわけです。どの脚が吸盤を使って岩場にくっつこうと、どの脚が獲物を獲ろうと構わないのですが、うまくいかないと、お互いに絡み合って、なかなか動きが取れなくなってしまうところがあります。八本の脚を見事に使い切れたら、タコも優雅に、優秀な動き方ができるのですが、足がもつれたら動けなくなる、そのような感じでしょうか。どこにでもあることです。

 二つ、問題はあると思います。

 一つは、ドラッカーの経営論で、「目標管理」というものが出ています。企業をつくっていくときに、目標管理をやっていくことで、全体的に企業が大きくなっていくための仕組みをつくれるということを教えているとは思うのですけれども、ドラッカーの場合は、「カリスマ的な指導者みたいなのに、もう頼らないほうがいい」という考えです。

 『徳のリーダーシップ』の話をしましたけれども、徳のある人を一定の比率つくるとか、採用するとかいうことは、そんなになかなかできることではありません。これはもう、天命みたいなものなので、簡単にできません。彼自身はそういう天性のカリスマみたいなものに頼らずに、会社を大きくできる方法は何かということを考えた方であります。

 そういう意味においては、平凡すぎてはちょっとあれかとは思いますが、学校で鍛えられる秀才ぐらいのレベルの人をリーダーにして会社を大きくするなら、部門を分けて、それぞれに目標を与えて、それを達成させることで競争させる。給料を上げたり、ボーナスを上げたり、あるいは、出世を早くしたり、調整することで競争させて、会社全体を大きくするというスタイルが、平凡よりちょっと上ぐらいのリーダー、秀才型リーダーを使って会社を大会社にしていく方法としては、ありえるだろうというのです。

 松下幸之助のような名前のある人とか、ソニーの井深大さんや盛田昭夫さんみたいな人でなくても、例えば、日立みたいなところだったら、いったい誰がやったか分からないけれども、大会社になっているようなところもあります。秀才の山で、東大の工学部ぐらいは出たような人がいっぱいいるのだけれども、誰がやったか分からず、仕事ができて大きくなっているような感じでしょうか。そんなようなことを考えているのかなあ、とは思います。

 ですから、傑出した人を使うよりは、「中の上」ぐらい以上の人を使って会社を大きくする方法を考えた。この目標管理の考え方は一つにはあるので、場合によっては、「中の上」以上まで行っていないぐらいの、普通の、凡人が部門長をやっている場合は、喧嘩が絶えないというところはあるかもしれません。もう少しできなければいけないところはあるのかもしれません。

 それと、長く同じところで二十年ぐらいやらないと、長になれないことが多いので、他のところは分からないということですね。そういうことがあって、上に上がっていくにつれて、だいたい、全社的なことを勉強しなければいけないということです。

 

縦割り型の組織の弊害

 それからもう一つ、いわゆる”大企業病”ないしは”官僚病”みたいなものがあると思うのです。官僚病は、もう、言うのもつらい話ではあるけれども、縦割りといって、ずいぶん言われていますが、「自分の省の利益あって、全体の国家の利益なし」みたいなところがあります。

 今も待機児童解消のための、保育園や幼稚園などをつくれるようにしようとしても、この管轄がいったい、どこなのかがはっきりしない。幾つかの省庁をまたがっているので、文科省も厚労省も関わっているし、他のところもちょっと絡んでくるし、地方行政のほうも絡んでくるので、役所がいろいろ絡んでくると、進まなくなってくるようにはなります。

 この辺のところは、大会社でも同じく、けっこう縦割りでやっているので、お互いに他のところは何をやっているかよく分からないで、自分の部の主張ばっかりする。営業のほうは、「もっと売りたいから、宣伝をもっとしろ」とか、営業用の出張費から始まって、あるいは交際費とかそんなものも「もっと認めろ」とか、いっぱい、営業のほうは言ってくるわけです。「そういう潤滑油がなかったらできんじゃないか」と言ってくるけれども、管理部門の経理とかが、だいたいそういうものを削りに来るというようなことでしょうか。

 それから、製造部門と営業部門も喧嘩して、製造部門は「営業が売ってくれん」と言うし、営業部門のほうは、「もっといいものをつくれば、こんなに苦労しなくても売れるのに、製造のほうが悪い」と言うし、みたいな感じでしょうか。こういうことは起きるので、凡人より上の人で組織をつくったとしても、お互い理解できないところの苦しみは出てきます。

 中小企業の場合は、今度はそういうわけにはいかないところがあって、意外にオールマイティーでなきゃいけないところがあります。暇なときには手伝うという、お互いの部門で、自分のところが今暇だから、手伝うみたいな感じでしょうか。経理が忙しい月末には、他のところからも人が手伝いにも行ったりするけれども、出荷するために非常に人が要るといったら、皆出てきて、ダンボールに詰めたり、手伝ったりするように、空き時間を詰めていって、お互い、全社で助け合うようなところがあるけれども、会社が小さいから、だいたい全社でやっていることが分かってしまう、というところもあるし、社長一人が命令したぐらいで動くというところもあります。

 それは、人間の「認識力の限界」のところの問題として出てくるものですよね。昔から言っているように、東大の卒業生も、社員数が千人超えたら、使うところがあるけれど、それより小さい中小企業だったら使えないということはよく言われている。あまりにも専門技術的な細かいことに目が行きすぎたりする場合と、あまりにも全体的なことに目が行きすぎるために、そういう器用な動き方ができないというようなことがあります。

 

紐付きでしか動かない

 自衛隊などで幹部をやった方が、退官したあとに、企業コンサルタントとしてよく来ています。

 幸福の科学も紀尾井町ビルの時代に、ある程度の立場で自衛隊を退官された方が、何度か話しに来られたと思いました。やはり、自衛隊出身の方がやる場合は、責任と権限を必ずセットにして、キチッと誰が責任を持っていて、誰の権限でそれを命令されてやるかと、それが通っていなければ許さないわけです。自分の権限もなく、自分の責任でもないようなことに対してはやらないみたいな、そういう指導の仕方をするのです。要するに、忙しいところは忙しく、暇なところは暇なままで、延々に走り続けるというような部分も、大会社と似たようなところでしょうか。

 銀行なども、やはりそういう傾向はあります。一人で何役もするとごまかしができるので、一つのことしかやらせないのです。誰がやったかがはっきり分かるようにする。要件を受け付ける係は誰がやっているかというのを、この時間は誰がやっていたかはっきりさせる。お金を出すほうは誰がやっていたかはっきりさせる、という感じです。記帳するのは誰がやったかなど、全部、責任がはっきりするような使い方をするのです。

 ですから、もし当たっている方がいたら申し訳ないのですが、私も忘れてしまったけれども、銀行なんかで、長く経験を積んだり、あるいは仕込まれた方などの場合は、そういう考え方をする傾向が非常に強い。だから、人がものすごく増えるんです。増えて増えて、となりがちです。誰がやったかがはっきり分かるように分けたがる傾向があるためです。

 お金のことですから、紛失したら非常に困るので、『黒革の手帖』をやられないためには、それしかないんです。一人で何役もできたら、窓口業務もやって、通帳を作成したり、記帳したりと、全部一人でやれるようになったら、いくらでも偽造のものができるので。『黒革の手帖』や『紙の月』みたいなことがいくらでも可能になるので、これをさせないように、できるだけ責任の範囲を狭くして、権限をきっちりして、明記する。

 私が勤めていた商社などでも、やっぱり権限の明細表みたいものはありまして、「何億円までは誰の決済」というのが書いてありました。守っていませんでしたけどね。破りまくっていましたが。何と言うか、カルチャーとして、商社の場合は、結果オーライだった場合には罪に問えない部分があるのです。

 どうしても、タイムリーな勝機というものもあるので、勝負をかけなければいけないときがあるので、そのとき、「もう、言ってられるか」というようなところがあって。「ここで売り込まなきゃどうする」「ここで売らなきゃどうする」「ここで切らなきゃ駄目だ」とかいうときもあるので、やってしまうことがあるのですが、結果オーライだった場合は、特に降格もされず、昇格もしないけれども、ボーナスだけちょっと増えている、ぐらいの扱いをされる場合は多いです。何度もやって何度も失敗すると、やはりだんだんに左遷され、窓際の方になっていくということはあります。

 

大企業は社員が歯車になりがち

 私なんかも、生意気ですが、二十代で大銀行を相手にしてやっていても、向こうの方は「何か、社長と話しているような気がする」なんていうことをよく言っていたので。

 こちらが「いや、私の考えは会社の考えです」というような感じで来るので、銀行の場合は上に何層も相談しなければいけないので、本店まで稟議を上げない限り、答えが返ってこない。

 一年後に返ってくるみたいなこともあるので。この、稟議の階梯がいっぱいあることによって、断る理由をたくさんつくれるわけです。時間をかけると、相手が諦めてくるわけです。一年ぐらいかけて審査しているうちには、向こうが諦めてくる。これを待っているところが多くて。申し入れを聞くと、だいたい銀行に不利なことが多いですから、そういうことが多かったですけれども。

 いろいろな職場によって違いはあるとは思うのですが、比較的裁量が許されたようなところにいたことはいたので。自分もそういう考えを持っていてこの教団を始めたのですが、意外と、中途採用で、大企業から来た方は多いので、皆、この紐付き型の考え方しかできない人が多くて、要するに、歯車になっている人が多かったのです。

 「あんな有名な会社の部長だから、このぐらいは分かっているだろう」「課長だから分かっているだろう」とか、「支店長だからこのぐらいはできるだろうな」と思ったら、まったく分かっていないというようなことがいっぱいありました。「あれ? こんなことが分からないのか」というふうな、自分のやった仕事以外のところについてのイマジネーションが、まったくできない人がいるということですね。これはちょっと驚きだったんですけれども。どこでも、それは仕方がなく、そういうふうになっていくのかな、と思います。

 ですから、ドラッカー型の、「秀才ぐらいの人を使って、マネジメント層をつくっていく」というのは、非常に大きな会社がいっぱい出てきた理由ではあるんだろうとは思うのだけれども、やはりどこかで、コントロール・タワーは要ることは要ります。徳によってまとめるか、あるいは先見性でまとめていくか、いろいろあるけれども、全体のでこぼことか、そういうことが見える人がいないと困ることは困るでしょうね。全体が見えている人が必要でしょう。

 

人事異動から読み取れるもの

 私などは、会社時代、入社一年目だったんですが、一応、毎月以上でしょうか、社内の人事異動の表が回覧されてきて、判子をついて回していくのです。人事異動を見ながら、会社がいったい、今、何を考えているか、人事異動で読んでしまうのです。だいたい、「こういうことを考えているんだな」「今、このあたりを考えているんだ」「この人がいなくなって、この人が上がったということは、こういうことなのかな」「この人を呼び返したということは、こういうことかな」と、だいたい、こういうことを、私は人事異動から見て読むのです。

 そんなことをしゃべったりすると、先輩あたりから、「おまえ生意気だ」「黙っとれ」という感じで、「新入社員が関心持つようなことでないだろうが!」というような感じでよく怒られて。「すみません。生意気ですみませんでした」という感じだけれども、やはり、そういう感じですよね。

 私の二年ぐらい後輩にも鋭い人がいたのですが、その人も人事をよく見ていて、私に「先輩」と言って、「この人が海外出張している時に、いつも役員会議をやっていますよね」と言うのです。「この人はいつもいないです。この人が海外への出張命令が出たあと、必ず役員会議をやっていますね。これ、絶対に外して会議しているのは間違いなしだ」と、ここまで読む人は、いることはいるんですね。

 その外されていたのは誰かというと、商社として航空機を取り扱おうとして、日商岩井というところが、ロッキードやグラマンや、あの辺りで航空機商戦をやって、ちょっと大きくミスをつけて、副社長が逮捕されて、自殺者もたくさん出るような事件が起こりました。あのころは当然、どこの戦闘機を仕入れるかと、各商社が当時の防衛庁や自衛隊ともコネクションをつくりながら、仕入れの代理店になるための売り込みをかけていたところで、人脈づくりをやっていたのです。

 今の防衛省の局長クラスぐらいの人の天下りを受け入れてはいたのですが、商社の仕事は、全く分かりはしないですよね。だから、コネとして何かルートをつくるためには、受け入れてはいたのだけれども、やはり、その人がいたら会議ができないので、海外出張をさせて、その間にいつも会議をやっているというのが見えるわけです。

 そういうことを後輩が言っていて、「おまえも細かいところを見ているな」とか、何か言っていたことがありました。

 会社というのはそういうところです。商社だけでなくて、私の父に聞いたら、「徳島県庁でもそうでした」と言うのです。

 「いや、出張もけっこう危険なんだ」と言って、出張している間に決められることが多くて、具合の悪いことに出張している間にやられることが多い、とか言って、県庁あたりでそんなことではどうしようもないなあ、と思いました。あまり小さい話ではあるのですが、やはりそういうことらしい。中央というか、東京に毎月出張で父親は来ていたので、「その間にやられないように気をつけないかん」とずいぶん気にしていたので、いないときに、「鬼の居ぬ間の何とか」でやられてしまうみたいなことを言っていたので、人間の性として、そういうところはたくさんあるんだろうとは思います。

 

補い合うチームを作る

 そういうことも知った上で、ある程度、平凡な人を使いながら、経験と努力で、立場が上がっていくような会社をつくること自体はいいことだと思うのですが、やはり欠けるところはあるので、コーディネーターになったり、あるいは、徳があったり、先見性のある人とか、いろいろな人が、何か少し欠けているところをこう見通していくような力は多少要るのかな、とは思います。

 商社なんかだったら、二十本部ぐらいあって、それぞれで扱っている商品が違うので、例えば、鉄鋼本部、食料品本部、木材本部とか、化学品本部などいろいろあると、化学品で二十年エキスパートの人が鉄鋼が分かるかと言ったら、それは分かるわけがないのです。分からないのです。木材が分かるかといって、分かるわけがありません。石油をずっとやってきた人が、機械本部の仕事が分かるかといったら、分からないんですよ。分かるわけがないのです。

 ただ、本部長というのになると、まず本部長になってだいたい二年ぐらい能力を見て、仕事ができるほうだ、と見たときに役員になるわけです。役員になる。でも、このときはまだ、その本部一つの責任なのですが、その次に、常務ぐらいに上がってくると、三つぐらいのセクションを担当として見させるんですよ。当然ながら、自分が出身でないところを持っているから、分かるわけがないのだけれども、それを管理しながら、報告を受けたりして勉強して、大所をつかむ訓練をしなければいけないわけです。

 だいたいそういう感じで、専務になるともう少し、全社的にある程度見なければいけないところが増えてきて、副社長ぐらいになると、管理部門担当の副社長と、営業部門担当の副社長二人のだいたい二人ぐらいになって、会社を半分ぐらい見ていて、それで社長がいる、みたいな感じになるわけです。

 やはり専門知識が全然違うので、欧米のほうでは、総合商社みたいなのはできないということを言っています。似たものはあることはあるのだけれども、せいぜい、つくれて一千億円か二千億円ぐらいの会社までしかつくれないと言われていて。日本のほうは芸術みたいでちょっと信じられないと言われてはいるのです。

 うちなんかも、そういう癖があるので、私もいろいろな変わった仕事を、同時にやろうとするのですが、中にいる人は、自分がやっている仕事以外見えない人が多くて。上がっていくポジションによっては、全体がもうちょっと見えなければいけなくなってくるので、その辺を勉強しなければいけないですね。

 

全社の動きが見える目

 それをするためにどうするかというと、一部の人でそういった見識が広そうで能力がありそうな人を、本当は、一つのセクションに精通するところまで行かないのだけれども、一年ぐらいでだいたい場所を変えて、いろいろなところを経験させていって、なるべく全社的に見えるように育てようとし始めていくということです。

 私なども、一年間で私は「地球一周」したけども、同期で入ったもう一人の人は、「俺は一メートルも動いてない」って言っていたので、いろいろですけど。できるだけ全社的なものを見せようとしているのは、明らかに分かりました。これは、あんまり詳しいところまでは分からないのですけれども、その認識力があれば、問題点をつかむ能力が高くなってくるので、そういうふうにしようとしていました。

 当会でも、多少、そういう動き方はあるかもしれません。けれどもシステムはまだうまく機能していないというか、人材がバラバラに、いろんな時期に入ってくるので、必ずしもそういうふうには、なってはいないかとは思います。幾つかやっているうちに「全体的な目」を養おうという気持ちは要るのかなあ、と思います。

 いずれにしても、私から出ているこの目標で、何かの事業をやっているのだけれども、それは、そこにいる人が自分たちの事業だけを考えているみたいな感じになれば、タコの足が喧嘩している、もつれている状態になっているということです。そこにいる人を全部責めるわけにはいきませんが、少なくとも、上に立つ人は、「認識力」がもう一歩、出なければいけないかなあというところですね。「全社的な意識」を持たなければいけません。

 その、お互いに喧嘩しているあたりが、もしかして経営層まで行っているというなら、それは人材として足りていないということにはなるのかなあというところですね。その辺、努力がまだ要るということでしょうか。そんなところだと思います。

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