経営担当者の養成

経営担当者の役割

 経営担当者は企業にとって最も高価な資源である。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『未来創造のマネジメント』で以下のように説かれました。

「人の値段の中でも、一番高いのは、やはり経営担当者、経営管理者です。こういう人たちをつくっていくことが出来れば、その大切さを知らない人から見ると、魔法のような結果が出てくるようになります。

 経営担当者、経営管理者になるべき人は、今現にあるもの、例えば、部下をはじめとする会社の人たち、工場、会社の社屋、土地、お金、情報などの経営資源を組み合わせて、これまでに生み出していなかった価値を生み出す仕事をしなければいけません。

 経営担当者、経営管理者にとっては、現にあるものの価値を合計しただけのものを生み出したのでは仕事をしたとは言えず、「現にあるものから何をつくり出せるか」ということが大事なのです。

 例えば、鉄骨があり、セメントがあり、砂利があり、水があるからといって、それだけでは近代的なビルは建ちません。これらの原材料から、最終の仕上がりである近代的なビルを見れば、まるで魔法のようです。

 このように、「全体を設計し、つくり上げて、それが付加価値を生むものとして最終的に仕上がる」ということが経営なのです。これの見える人が大事であり、そういう人たちをつくっていかなければならないのです。

 「現にある資源を使って最終的に何ができるか」ということを構想し、それを実現するには、専門家の集まりでは駄目であり、そのための特殊な能力が要ります。しかし、この経営担当能力は、この世的に養成しない限り身につかないのです。

 人間は、赤ん坊として生まれたときには、そういう能力は持っていません。学校のクラス担任の先生も持っていません。これは、そういう立場に置かれた人のみが訓練と経験、知識によって身につけていく能力なのです。」(P-266~269)

 

経営担当者は自然発生しない

 経営担当者は専門家の延長戦上にあるわけではありません。経営担当者は経営担当者として育成する必要があります。

「一つのところに長く置けば専門家は育つのですが、経営担当者、経営管理者は、努力して育てないかぎり どうしてもつくれません。そういう人が必要なのだということを知っていなくては駄目です。まずそれを知っていて、「育てよう」と意図し、そして努力しなければ育たないのです。

 ライブドアは、事件当時、設立されてから5年ぐらいだったと思いますが、五年ぐらいの期間で、そういう人を育てるのは、もちろん、誰が考えても、極めて難しいことです。「経営担当者が必要である」ということを十分に知らない人が、規模の拡大だけを行った場合には、いずれ、どのようなかたちにせよ、崩壊が起きるのです。

 トップというものは、常に能力の限界にぶち当たっています。何かを起業するということは、一つの優れた専門技能がなければ、まず出来はしないのですが、その部分でいかに傑出していて、たとえ世界一であったとしても、大きな組織の運営においては、能力的に必ず壁にぶつかるのです。

 自分ができないことや、まだ知らないことについて、知識を持ち、経験をためるには、かなり時間がかかります。「自分長所としていることと同じレベルまで ほかの分野でも精通する」というのは極めて困難なことなのです。

 したがって、その間、自分の片腕になるような人を時間をかけて育てなくてはいけないし、そのための訓練も必要なのです。」(『未来創造のマネジメント』P-260~262)

 ドラッカーによると、マネージャーは育つべきものであって、生まれつきのものではない。したがって、明日のマネージャーの育成、確保、技能について、体系的に取り組まなければならないという。運や偶然に任せることはできないと。

 初めに、マネジメント開発に当てはまらないものを明らかにしなければならない。

1 マネジメント開発とは、セミナーに参加することではない。セミナーは道具の一つである。それ自体マネジメントではない。

2 マネジメント開発は、人事計画やエリート探しではない。それらの者は全て無駄である。有害でさえある。

 組織がなしうる最悪のことは、エリートを養成すべく他の者を放っておくことである。10年後、仕事の8割は、その放っておかれた人たちが行われなければならない。しかも、彼らは軽んじられたことを覚えている。成果はあがらず、生産性は低く、新しいことへの意欲は失われている。他方、選ばれたエリートの半分は、40代にもなれば、口がうまいだけだったことが明らかになる。

3 マネジメント開発は、人の性格を変え、人を改造するためのものではない。成果をあげさせるためのものである。

 ピーター・ドラッカーは、「経営で勝つには兵法が要り、兵法を用いて勝つ場合には、天才を要しない」と言っている。別の言葉で言えば、「経営担当者の養成」ということである。

 明日の経営担当者をつくらなければ、組織として大きくならない。

  大川隆法総裁は、『イノベーション経営の秘訣 ドラッカー経営学の急所』で以下のように説かれました。

「彼は、要するに、「経営で勝つには兵法が要り、兵法を用いて勝つ場合には、天才を要しない」ということを言っています。
 これは、どういうことかというと、「仕事のやり方を固めて、ほかの人に学ばせることができれば、トップ一人が考えて、思いつきでやっているように見えていたようなことを、ほかの人にもやらせることができる」ということを意味しているのです。
 別の言葉で言えば、「経営担当者の養成」ということです。「やはり、経営担当者をつくらなければ駄目だ。明日の経営担当者をつくれ」ということを強く言っているのです。
 今日ただ今、採用したばかりで、もうどうしようもない、動けない人がたくさんいるけれども、その人たちを「明日の経営担当者にしよう」と思って教育すれば、だんだん育ってくるというわけです。
 「最初の頃は、役員に命じても、実に頼りなく、『小田原評定をしていて、くだらない。自分一人でやったほうが、よっぽど早い』と思うものだが、その頼りない人たちであっても、何年か役員をやらせているうちに、そこそこ、仕事をし始めるようになる」というようなことを書いています。
 ドラッカーも、トップの目には、役員であっても頼りなく見えることをよく知っていたのです。よく知っていて、そう書いているので、私は「なるほど、そういうものか」と思って、それ以降、気前よくポストを与え、いろいろな人を局長等にするようになりました。
 仕事ができない人のなかには、部下の“反乱”により“消され”たりした人もいます。その場合、確かに、その人を上げるのは早かったのかもしれませんが、いろいろなポストを経験したり、何カ所かやったりしているうちに、だんだん、できるようになる人が出てきたということも事実です。
 ですから、経営担当者をつくらなければいけません。明日の経営担当者をつくらなければ、組織として大きくならないのです。これを私が学んだということは、やはり大きかったと思います。
 そういう意味で、足掛け三十年ぐらいになりますが、その間、幹部が数多く出てきました。
 ただ、ずいぶん流動性のある組織だと思います。次々と新しい仕事を始めていたので、みな、「そこでは新人」ということが多かったのですが、私は、「とりあえず幹部を置いて訓練し、実地にやらせてみる」というかたちでやり、気がついたことがあれば、修正を入れたりしながら、仕事をだんだん固めていったのです。
 できる人は、自分で仕事をつくっていきましたが、仕事ができないままの人もいました。いろいろな人がいましたが、だんだん仕事のかたちが出来上がってきて、人を替えても、同じセクションで、定常的な業務ができるようになっていったのです。
 このあたりが、非常に大変なところであったかなと思います。」
(64~67ページ)

 

経営担当者を育てる

「さらに、部下に対しては、基本的に期待をかけなければいけませんし、仕事を任せなければいけません。

 その意味で、「自分しかできない」と思うような経営者はあまりよくないのです。「人を使える」ということは、「自分の仕事の範囲が広がる」ということを意味します。やはり、一人仕事には限界があるので、常に「自分でなくてもできるものは何か」を考え、やり方をきちんと教えて、人に任せていく訓練が必要です。

 少なくとも、七割から八割ぐらいは人に任せたいところです。訓練によって、できるだけ人に任せていき、要所はチェックしたとしても、実際上の作業は自分がやらないようにしていかなければ、企業が大きくなることはありません。

 つまり、部下に期待し、任せ、さらに掌握しなければいけないのです。そのときに、部下の能力の特徴や性格の長短をよく見て、「この人はここは大丈夫だが、ここは失敗する」というようなチェックポイントを持っておくことが大事です。

 しかし、基本的には、人に任せていかない限り、企業は大きくなりません。

 今は ひょっこ でも、何年かやっていくと できるようになることがあります。三年から五年ぐらいやれば出来るようになることがあるので、それを信じることです。ゼネラルな能力を持った人はそれほど多くありませんが、ある程度の仕事であれば、何年かするとほとんどの場合は精通してきます。

 特に能力が低いと思われる人、もともと素質が低いと思われる人の場合には、あまり部署を動かさず、仕事に精通させることが大事です。同じ仕事を十年やれば、どんな人でもベテランになり、その仕事については社長よりもよく分かるようになるので、能力があまり高くないと思う人については、なるべく専門的な仕事に就けることです。」(『未来創造のマネジメント』P-181~184)

 経営幹部の候補生については、販売だけ、技術だけ、経理だけという偏りが出ないように、複数の分野を経験させて、経営全体が見えるようにする必要があります。

 経営者になるには、生産、販売、経理・財務系の三つ、さらに言えば、人事や総務も含みますが、それらのバランスを取り、幾つかの分野をまとめて見えるような目がなければ駄目なのです。

 しかし、現実にはそうした全体観のある人は多くないため、能力的な弱点や偏りを補えるように、コンビを組むか、3人から5人ぐらいの経営チームを組むことが大事になります。

 ドラッカーは、本来の経営担当者の養成に「経験」が必要である点について、次のように指摘しています。

 「目標によるマネジメント、事業の分析、さらには目標の設定とそのバランス、目前のニーズと遠い将来のニーズについて学ぶには、人としての成熟に加え、マネジメントの経験が必要である。経営管理者としての経験あるいは成人としての経験がなくても、これらのことを唱えることはできる。しかし、行うことはできない。

 リスクを評価し、リスクを負うためには、経験が必要である。判断を行い意思決定を行うためにも、経営管理者としての経験が必要である。

 ビジネススクールで人事管理論を学んだから、人をマネジメントする資格があると思っている若者ほど、役に立たず悲しむべき存在ではない。役に立つことをほとんどなしえず、害を与えるだけの存在である。」

 実際に仕事を任せ、管理職として様々な部署を経験させることによって、マネジメント能力は身に付くわけです。

 

経営担当者をつくることの難しさ

 経営担当者を育成しなかった場合、経営は深刻な危機を迎えることになります。「経営者がいつまでも引退できない」「後継者が育たない」という事態になり、どれだけ成長した企業であっても、一代限りで終わってしまうリスクが生じます。創業社長が晩年になって「しまった」と思っても、経営担当者はすぐには育たないため、手遅れとなります。外部からプロの経営者を招聘する手もありますが、長年かけて醸成された企業文化や経営理念を壊されてしまうリスクもあり、うまくいきません。

「経営担当者、経営管理者を育てていく上で、一番難しいのは、スペシャリストをゼネラリスト、すなわち、全体の運営、経営ができる人に育てていくことです。どう考えても、これが一番難しいのです。

 新入社員、あるいは それに近い人が、年数を重ねて一つの仕事を長くやれば、主任、課長、部長などへ上がっていくこと自体は難しくなく、また、あとから入ってきた人を そのようなかたちで育てることも難しくないと思います。

 ただ、ある部署で十年、二十年の経験を経て、部長なら部長という役職を持った人が、他の部署に移った時に、今の部署でできるレベルの仕事ができるかというと、普通はできないのです。

 例えば、営業で部長を張っている人が、製造部門ですぐ部長を張れるかというと出来ません。また、営業部長が横滑りをして、すぐに人事部長をやれるかというと、まず出来ないでしょう。では、人事部長に財務部長ができるかというと、これも苦しいし、財務部長を長く務めた人が、「販売部門の陣頭指揮を執ってくれ」と言われて、すぐにできるかと言うと、やはりそう簡単に出来るものではないのです。

 そういうときに、新しい部署の仕事を身につけるためには、ある程度の地位まで行った人を、いったん平社員に近いようなところまで戻さなければなりません。しかし、それは本人にとって かなりの苦痛を伴うので、組織内では そういう異動を行うことはなかなか難しいのです。ここが一番難しいところです。

 今の部署に置いておけば、そこそこ仕事が出来て、給料や地位に見合う働きが期待できるのに、その人をこれまでとは違うところで訓練しようとすると、本人も苦しみますし、会社のほうにしても、その人の働きは給料に見合わないわけです。また、その人にポストを与えても、「部下を養成できない」という苦しみもあります。」(『未来創造のマネジメント』P-270~272)

 

新規事業や子会社の経営も経営者養成に効果

 名経営者と言われる人は、一つの専門の井戸を掘りながらも別の部署を経験することで、会社全体を見渡せるようになってきました。その際には、生産、販売、経理・財務系などの重要部門を経験することが大切になります。

 また、「新規事業」を経験させたり、子会社の経営を経験させるということも大切です。

「会社が一定以上の規模になり、そうした管理だけをして経営者をやっているような気分の人が増えてきたら、全体が潰れるところまでいかないレベルで、新規事業や新しいものに取り組ませることです。「その人の今までの経験値からは出てこないような智慧を出さないとできない」というところを経験させて、それを幹部にするための条件にしていくことも一つでしょう。

 これは、既に行われていることですが、「大会社では、未来の幹部をつくるために子会社を経験させる」ということがあります。

 普通、大会社で落ちこぼれた人が子会社に行く場合、「本社で部長だった人が、子会社では社長になれる」「役職はもらえるが、給料は7割ぐらいになる」というようなかたちで外に出していきます。体よく出していくために、そのようなかたちをつくっているわけです。

 ただ、ここ二、三十年の動きとしては、小さくてもよいから全体の経営を行った経験のある人や、赤字会社になっているところに投入して、それを立て直す経験をさせた人を本社に呼び戻して、経営幹部にしていくようなところも増えてきています。

 やはり、人間にはそういう修羅場をくぐらなければ本物にならない面があります。よく斬れる名刀をつくるためには、火で焼いて叩き、さらに水に通さなければいけません。火や水に通し、金槌で叩かなければいけないところがあるわけです。」(『経営が成功するコツ』P-122~124)

 

経営担当者育成の注意点

 経営担当者の育成について、ドラッカーが重要な指摘をしています。

 「経営担当者の育成とは、トップ・マネジメントの後任候補として昇進させうる人物を対象とする昇進プログラムのことではない。

 後任候補という言葉は、経営管理者の仕事や組織の構造が不変であって、今日のトップマネジメントの靴をそのまま履ける人間を探せばよいとする考えを表している。しかし、もし一つだけ確かなことがあるとすれば、仕事が要求するものや組織の構造は、これまでと同様、明日においても大きく変化していくということである。したがって、必要とされていることは、昨日の仕事ではなく、明日の仕事のための経営管理者を育成することである。

 トップ・マネジメントの後任候補という考えは、明日のマネジメントに関わる最も重要な意思決定が、後任候補が高い地位に昇進するはるか前に行われるという事実を見落としてもいる。明日 高い地位にある者は、今日はまだ低い地位にある。しかも、大工場の長や大営業部隊の長というトップ・マネジメントの後継者を選ぶときには、既に候補は三、四人に絞られている。

 したがって、真に重要な人事の決定とはそのように絞りこまれる前の、より下のレベル、つまり工場の部長、地域担当の営業部長、検査役などの人事を適切に行うことであり、彼らの能力を引き出すことである。」

 内部から時間をかけて次の経営担当者を育てていくことが王道である。そのためには、組織文化として、人を育てるという気持ちを持っているかどうかが大事になります。

 経営管理者の育成は、選別と混同しやすいところがあります。そうではなく、長い時間をかけて経営管理者を育てるという発想が大切です。育成とは粘りである。仕事の面と時間の尺度が違い、気を長く持ち、自然に変わってくるのを待つことが非常に大切です。

 なお、この考えと逆の方法が ヘッドハンティングです。

ヘッドハンティングの注意点 

 会社が急成長する時の注意点として、外部人材の活用があります。

「実は、成長しすぎるのも怖いものなのです。なぜなら、成長しすぎると、トップの能力が限界に達する時期が非常に早く訪れるからです。

 成長しすぎると、二年や三年でトップの能力が限界になることもありますし、幹部にもどんどん限界が来ます。

 「幹部に能力がなくなったから」という理由で、外部から人を採り、すぐに重要な立場に就ける場合もありますが、ある会社でキラキラと輝いていた人でも、別の会社に入ると、それほど仕事ができないことはよくあるのです。

 それはそうです。今、スタープレーヤーとして仕事をしていても、その会社での知識や経験があるからこそ輝いているのであり、よその会社に移れば、いきなりは仕事ができないのです。

 他の会社の人を採って幹部に就けても、成功率は三割から四割と言われています。つまり、六割から七割は失敗するのです。

 したがって、会社の成長速度と人材の成長速度のバランスをよく見ないといけません。

 外部の人をヘッドハンティングする場合には、その人が成長するまでには時間がかかると思って、いきなり重要なセクションには就けず、鍛える時間を少し取らないと駄目なのです。」(『未来創造のマネジメント』P-73~75)

 

経営担当者は長期的視点を

「経営担当者になるような人は、「長期で見る目」と「現在ただいまを見る目」とを持ちながら、この両者を調和させる能力を育てなければいけません。

 業績の判定に当たっては、1クォーター(3ヵ月)、半年、1年など、短期的に業績を判定され、「優秀だ」ということで、給料やポストが上がることはよくあります。営業系などは特にそうでしょう。こういう短距離走型の人は成果が早く出やすいのです。

 ただ、そういう現在ただいまにだけ目先が向いているような人たちは、短期的な局面では優秀なのですが、長い目で見たときには、残念ながら経営担当者として不適切な能力を身につける可能性も高いのです。

 「十年をどうするか」という目で考えたときには、短距離走的に見ると、必ずしも最短ではないことをやらなければいけない場合も数多くあります。

 例えば、人の養成がそうです。人の養成には時間がかかります。長い時間をかけながらやらなくてはなりません。

 ところが、「今年の前半だけで、これだけの成績をあげるためには、どうすればよいか」と問われれば、誰でも、「即戦力になる人ばかりを集めて成果をあげる」ということを考えます。ベテランを外に出して、新しい人を入れたりすると、全体の能力は必ず下がるからです。

 ただ、こうした長期的な視野を持たない人が、全体の経営管理者として育っていくことはないと思われるのです。

 また、「長期的な視野を持つ」と言っても、単なる夢想家で、「来年はこうなる」ということだけを言って、ご託宣を垂れているような人も駄目です。

 長期に関しては、必ず現在において、既に根はあるというか、種は撒かれているので、「現在やっているもののうち、これについては、五年先、十年先には こうしていかなければならない」ということを見なければいけません。

 やはり、「現在ただいまにおいても、立派な成果をあげながら、組織の十年後にとつて大事な布石を打てる」という人を育てていかなければなりませんし、そういう仕事を形成していかなければならないのです。

 要するに、「異業種、異分野という、複数の分野にまたがった見識を持つ人」を育てなければならないのと同時に、「現在ただいまや今年一年など、短期においてある程度平凡でない優秀な成績をあげる技術を知っており、かつ、十年後、二十年後の組織の未来に対して、布石を打っていける人、そういう考えを持っている人」を育てなければいけないのです。」(『未来創造のマネジメント』P-277~280) 

 短期の業績は数値で測りやすく、管理・評価が容易であるため、単に成果だけを求めれば、組織は短期評価型に流れやすいところがあります。信用やブランド形成など、すぐに結果の出ないものは、定量分析が困難であり、管理・評価は困難です。したがって、経営担当者は、長期的視点で取り組む仕事について、評価する姿勢を意識的に明確にする必要があります。

 

お金の使い方に経営担当者の適性が現われる

 経営担当者は、成果に責任を負う立場にありますから、投資効果の見極めが出来なければなりません。

「経営管理者にとって、「未来の事業をどう育てるか」という目は非常に大事ですが、「何を事業として育て、何をしないか」という選択は難しい判断になります。

 その客観的な指標として、一般的には「投資効率、投資効果」というものがあります。

 資金には、自己資金として内部で持っている場合、すなわち内部留保によって自分でお金を貯めている場合と、銀行からの借り入れ、社債や株など、いろいろなかたちで外部から調達する場合と、この両方がありますが、いずれにしろ、例えば、十億円なら十億円という資金を持っているとして、「これを何に使うか」ということを考える頭が要るのです。

 可能な事業はいくつかあるでしようが、「この十億円をいったい何に使うか」ということを考えて、適切に選択ができるかどうか。これも経営管理者として非常に重要なポイントです。

 客観的に見ると、この十億円が二十億円、三十億円になっていくような使い方、つまり、未来に実を結ぶような使い方のほうを選んでいく傾向を持っている人、そういう選考性を持っている人が、経営管理者としては望ましいのです。

 同じ十億円でやれることはたくさんあります。例えば、「宣伝費に使う」「工場の拡張に使う」「海外で資源の新しい調達先を探すことに使う」「人を採用することに使う」など、いろいろな使い方があります。同じ十億円でも幾らでも使い道はあります。「この十億円を何に投資するか」ということを考えられる人が大事な人なのです。

 そして、投資効率の最もよいものを選ぶ傾向を持っているひとが、客観的には望ましいわけです。」(『未来創造のマネジメント』P-281~283)

 資金の使い道については、「投資」と「経費」の問題があります。ある行為が投資なのか、消費なのかを判断するのは極めて難しい。しかし、これが見分けられるかどうかは、「経営者的才覚」でもあるし、「財務的センス」の部分でもあるのです。

 

業務の分担とゼネラル・マネージャーの育成

 特に、カリスマ型の創業経営者は、努力して経営担当者を育成する必要があります。

「スタープレーヤー、あるいはカリスマの問題もあります。

 スタープレーヤーは目立つし、評判になるし、会社の宣伝になることもあります。

 それから、経営者にもカリスマ性のある人がいます。私がカリスマのことを否定的に言うのはよろしくないかもしれません。宗教というものは、どこもカリスマが必要なので、カリスマのことを否定的に言うのは好ましくないのではないかと思います。

 ただ、宗教に限らず、それ以外のところでも、個人である以上、カリスマにも能力的な限界が来ます。それは、宗教指導者であろうと、企業経営者であろうと、政治家であろうと同じであって、どうしてもそうなのです。

 一人で一日に千件も万件も決済したりすることは不可能です。また、全ての業務に精通することは やはり不可能です。

 したがって、基本的な考え方としては、本人の主観的な意図とは逆に、「自分の能力には限界が来る」ということを前提にしながら、その上で組織の発展を目指さなければいけません。こういう矛盾するものを両立させなくてはいけないのです。

 ある意味で能力の限界が来るわけですが、やはり、自分の業務を分担させなくてはなりません。それが出来なければ駄目なのです。「分権制」「事業部制」などのように、業務を分担させて分権し、権限を持たせない限り、全体を大きくすることはできません。個人だけでは どうしても能力に限界が来るのです。

 そして、任せてみると、意外なもので、けっこう出来るようになることもあります。自分の業務を任せていきながら、トータルで広げられるかが大事なのです。

 これは非常に難しいことですが、おそらく会社で重役や部長あたりにいる人も同じように考えているのではないでしょうか。

 普通は「いかに自分の権限を拡大するか」ということを考えます。しかし、自分だけでは仕事がそれほどできないと見て、それでも「いかにして全体の仕事を大きくしていくか」ということを考えると、やはり権限を分けながら人を育てていく以外に方法はないのです。

 ただ、権限を分けると、バラバラになって、全体が分からなくなるので、今度は、「異業種間を渡りながら、ある程度の分野をまとめていける人、すなわちゼネラルマネージャーを育てていく」という努力を同時にしていかなければならないのです。」(『未来創造のマネジメント』P-303~307)

 多くの場合、創業経営者は、社員と比べて段違いの実力を持っています。それだけに、経営トップの候補者にだれを挙げても物足りなく感じてしまいます。後継者の問題は、この認識のギャップに起因するケースが多いのです。

 カリスマ社長のリーダーシップに牽引される経営から、凡人でも非凡な結果を出せる経営への転換が組織の永続には必要となります。そのカルチャー転換をカリスマ社長自身が果たせるかどうかが鍵となるわけです。

 カリスマ社長の凡人化の背景にある考え方は次のとおりです。

「「私はこうしたい」ということではなく、「仕事そのものが求めていることは何なのか。私たちの仕事とは いったい何なのか。何が私たちの事業なのか」「それをなしていくためには、どうしなくてはいけないのか」ということを考えるべきです。

 実は、「私に何ができるか。私はどうしたいか」と考える人ではなく、「私たちの事業は何であって、それはどのように運営され、どういう方向に持っていかなければならないのか」ということを謙虚に、心を空しゅうして考えることのできる人が、経験を積んで経営担当者になっていけるほうがよいのです。

 単なる自己実現だけでは無理です。その反対である、無我による全体の発展を目指さなくてはなりません。「心を空しゅうしながら全体の発展を目指していく」という気持ちを持たないと駄目なのです。

特に、自分が持っている仕事や権限は外したくないでしょうが、それがある程度見えてきたら、できるだけ それを部下や他の部門に渡しながら、自分は常に新規のこと、新しいものに取り組まなくてはなりません。

 自分の仕事の半分を部下や他の部局に渡せば、仕事は半分になります。その空いた部分で、「新しい仕事、新規の事業で何かできることはないか。もっと付加価値のある仕事はないか。未来に向けた事業は何かできないか」ということを、常に考えていくようにしない限り、全体的な発展はないのです。

 「自分の持っている仕事を死守する」というかたちでは、組織全体としては必ず死を迎えることになります。

 つまり、上の地位に行くほど、新規の案件以外は持っていないようにしたほうがよいのです。そのためには、ルーティン業務は、仕事のやり方を固めて、できるだけ部下に下ろさなくてはなりません。

 上位にある者は、逆に楽に仕事をしているような状況をつくらなくてはいけません。楽に仕事をしていて、手持ち時間があり、他の仕事が出来るような状況をつくっていくのです。

 一見、怠け者のように見える人が、実は組織を発展させる人であり、「上位にある者は手が空いている」という組織が、実は発展していく組織なのです。

 したがって、「仕事のやり方を固め、その仕事をほかの人に任せる。自分は時間の空きをつくって、新しいものを常に構想し、常に成長を目指す」という考え方が必要です。

 こういうことを心掛けていけば、たとえ、それが いかなる組織であろうとも、いかなる事業形態であろうとも、発展する可能性は高いと言えます。」(『未来創造のマネジメント』P-308~312)

 

将来の経営トップ候補の選定

 早い段階から将来のトップ候補を選定してしまう組織もあります。官庁がその典型であり、民間企業でも大手金融機関など役所型の組織では、入行、入社段階の成績でトップ候補に選定される場合があります。

「早いうちからトップ候補が決まるところは、ここ十数年あたりで崩壊してきています。そういうところは、いわゆる護送船団に近い組織体制であり、能力主義ではありません。そこでは、組織の秩序が大事であって、村社会が壊れないように、誰もが納得するかたちで組織を維持し続けていくための論理が働くのです。

 ところが、実際には、早い段階ではトップになる能力は測れません。どこでもそうですが、二十二歳、三歳でトップ候補を選ぶのはやはり無理なのです。」(『未来創造のマネジメント』P-290~291)

 村社会型の組織が通用するのは、民間企業でも保護行政にあって、大きな突発的変化が少ない業種や外部環境が数十年以上にわたって大きく変化しないことが見込める場合です。あるいは、社会主義型の経済の場合です。しかし、その場合、その業界ごと、その国の体制ごと崩壊する可能性が高いと言えます。

 変化する外部環境に合わせて、企業の舵取りを任せるべき経営担当者を育てるには、長い年月をかけて、異なる分野で異なる仕事を経験させ、実績や見識を見ていく必要があります。

3段階で選抜する

 将来のトップ候補の選抜には、大きく3段階あります。

「「管理職に上がっていけそうな人かどうか」ということについて、最初は三十歳ぐらいで一段階目の選抜があるべきだと思います。次の選抜は、やはり四十歳前後でしょう。四十歳あたりで、「人が使えるような人物として育ってきているか」ということが判定されます。さらにその次は、五十歳ぐらいでしよう。

 そして、各年代で要求される能力は おそらく変わってくるだろうと思います。

 三十歳ぐらいまでは、任された担当の部署において、速くて正確で よい仕事が出来る、「個人としての能力」が大事でしょう。

 四十歳ぐらいまでには、個人としても有能ながら、徐々に上と下と横との人間関係を結んでいけるような能力を持たなくてはなりません。「個人の能力」プラス「ネットワーク能力」のようなものが必要となるでしよう。それから、その間に経験した いろいろな部署での実績がついてくるでしょう。

 さらに、五十歳ぐらいになると、今度は、「人を育てる能力」のほかに、いろいろな人を使いながら、その人たちの能力を統合し、高い付加価値に結びつけていける、魔術、魔法のような力が だんだん必要になってきます。「経営管理能力」が極めて高くならなければいけなくなるのです。そのように視点が変わってきます。

 経営管理者になる能力というものは、やはり、比較的 先天的なものだろうとは思うのですが、ただ、それを早いうちに判定することは不可能です。

 本人の努力や経験、そして実績によってふるい分けていった結果、経営管理者として選ばれた人に、「先見的能力があったのだ」という判定をする以外にないのです。」(『未来創造のマネジメント』P-291~294)

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