「経験」や「歴史」から人間性を深める

大川隆法 未来への羅針盤 No.300

参考

 プライドの高い人の場合は、本当に難しいです。プライドの高い人は、うまく成功が続いているうちは、そのプライドと成功とが結びついて、何か、「無敵」のように見えることもあるのです。

 ただ、そのプライドが高くて、成功が続いていて、実力があると思われ始めると、それなりに立場も上がってくるし、仕事も難度が上がってきます。難度が上がればできなくなりますから、それがやはり厳しいです。

 新入社員に訊いてみたら、半分以上ぐらいは、たいてい、「社長になりたい」などと言うことが多いのですが、入社して三年とか五年ぐらい経ってからアンケートを取ってみたら、もうグーッと減ってくるわけです。もう、一割もいなくなってくるのが普通で、やはり仕事の難しさを感じているのです。

 社長ぐらい、自分がなったらやれると思うのが、三年も経ってみたら、「いや、課長になるのも難しいかも」という人が増えてくる。実際の仕事で、怒られている量と、褒められている量を比べてみたら分かるでしょう。

 それから、周りの評判などもやはり出てくる。そういうこともあります。それから、向き不向きも当然あるので、才能があっても、不向きのところにいた場合はやはり、能力を伸ばすことができません。

 

対人関係の調整も競争のうち

 特に人気があるというか、世間から尊敬される職業や仕事の場合は、競争が激しいことが多いです。何十倍だったり、もっとでしょうか。

 例えば、芸能系だったら、トップスターになるとか、例えばうちも映画などでオーディションをやっていますけれども、それでヒーロー、ヒロイン的な方を選ぼうとしたら、うちでは何千人も来ないですが、人気のテレビドラマとか、映画でも、これはたぶん傑作になるような、有名な人の作品などになってきたら、場合によっては、本当に何千人という中から選ばれます。

 朝ドラなどでも、ヒロインなどは、それはもう、五千人に一人ぐらいで選ばれますし、何かのオーディションなどで、グランプリ風のものであれば一万人に一人とか、そういうこともあるので、なかなか当たるものではありません。

  そういうふうに、入ることも大変なことなのですが、あとで役が回ってきたりして、それを成功してのけることもまた難しいことです。

 それがやはり、長丁場の仕事になってきたら、失敗することがあります。体調のコントロールとか、対人関係なども難しいです。

 人気グループなどでも、十年、二十年と続いているような人は、やはり「実力があるだけでは駄目」みたいに見えます。狭い業界でもあるので、やはり周りの人との人間関係が非常に重視されます。

 画面映りが良くて、そこではうまくやっているようでも、映像に映っていないところではスタッフの評判がすごく悪いとか、あるいは行儀が悪いとか、そういうことがいろいろあって噂が立ってくると、だんだん干されていくような流れになることもあります。これも基本的に、競争のうちなのです。

 

起こるトラブルから能力の限界を知る

 なぜそうなるかということですが、例えば顔が良かったら、モデルみたいなのに選ばれやすいとは思うのだけれども、俳優とか歌手とかいろいろやっているうちに、周りとのトラブルが起きてきます。あるいは、自分が起こさなくても親族がトラブルを起こす場合もありますけれども、結局、それもキャパシティの問題なのです。

 自分の”キャパ”がいっぱい、いっぱいでやっている場合、もう、神経が張り詰めて、針が一つ落ちた音でも気になってできないぐらいの感じになっていますので、周りに八つ当たりが出ます。八つ当たりが出るし、ちょっとしたことでもガミガミ言ってしまったり、機嫌を損ねたりといろいろすることもあります。

 自分が変になってくる率とか、場所が、どの程度のところで変になるかを見れば、要するに、本人の表面意識が分かっていない、能力の限界がそこにあることが分かると思うのです。こういうことがあります。

 

地域性の違いも相手のせいにはできない

 例えば、講演会の場合でも、控え室にクラシック音楽がかかっているだけでも、それで気になってしょうがないから「切ってくれ」と言うような人もいます。そういう人もいれば、「司会者が気に食わない」とか言うような人もいるでしょう。

 地域性に原因を求める場合もあります。同じパターンで自分はやっているけれども、例えば、行くところによってうけたりうけなかったりすることはあります。

 関西系の人などであれば、東北などに行くと、やはり”ノリが悪く”感じられるし、話す内容なども浮ついたことを言うと、何かみんなが”シラッとする”感じがあるので、合わせるのはかなり難しいです。東北や北海道もそうかもしれませんが、もう少し質実な感じがないと、何か上滑りであると、みんなが”シラッとする”感じがある。それが西のほうに行くと、九州などもそうですが、多少、大ぼらを吹いているほうが、何か勢いがあって、「お! すごいな」というような、「ウワアーッ」というような”ノリがある”場合もあります。もちろん”すべってしまう”場合もありますけれども、場所によって違いもあります。

 それで失敗したりして、周りのせいにしたりすることもあるのだけれども、やはり、いろいろ研究の成果はあるでしょう。

 そういうことで、人は限界が来るまでは昇進もするし、収入も増えることもあるし、評判も取れることもあるけれども、どの人も、必ず限界はあるのだということです。それを知らなければいけません。

 昔、私が見ていて怖くなったのは、記録映像で「映像の世紀」というNHKの番組だったと思うのですが、ヒットラーの記録映像を流していました。

 やはりヒットラーも、勝っているうちはいいのだけれど、だんだん負けが込んでくると山荘に籠もっていて、秘書たちも一緒にいるのだけれど、秘書たちの髪型が変わっても気に食わないし、服が変わっても駄目なのです。

 だから、秘書たちは、同じ服を十着も二十着も買っていました。要するに着替えをしなければいけないから、黒なら黒でずっと着なければいけないので、同じ服をたくさん持っていて替えていた。髪型もずっと変えない。そのぐらい神経に障っているのです。

 静養のために山荘に来て、静養だけでもないのかもしれないけれども、考えごともあるのだろうけれども、山荘に入って、負けが込んでくるとおかしくなっているので、皆同じ格好をしている。それを映像で観て、「ああ、やはりこうなるんだ」と思いました。

 

プライドが高いと自分の「天井」が分からない

 ヒットラーが全盛期のころは百万人集会までやって、旗を立てて、そしてかがり火を焚いていました。政治学で習ったのですが、夜になってかがり火を焚いてやると、人は興奮するのです。その興奮したときに、ちょっとだけ遅れて登場して、「ウワアーッ」と盛り上げて、百万人ぐらいを酔わせる。こう、ワーッと演説をやると興奮するというのを、政治学で教わったことがあります。

 それでも負けが込んでくると、そんなふうになってくるのを観て、こういうことを自分で言うのはあれですが、私もゾクッとしたことがありました。

 当時は東京ドームあたりで講演していたのですが、東京ドームだって五万人ぐらいしか入りませんので、ドームだけやっても伝道にならないということで、どうするかということになりました。

 当時いた幹部の一人が、「先生、ドームがいっぱい全国に建ち始めました。全国のドームを衛星中継で結べば、二十万人は入ります」などと当時言っていて、ドームを中継すると言うのです。

 しかしさすがに、ヒットラーの映像を観ていて、「これは規模が大きくなるとやはり危なくなるのではないか」と、自分も思ったことがありました。

 その頃は、幸福の科学を始めて五年ぐらいでしたけれども、実務的な仕事もしなければいけなかったのです。設計とか、いろいろな建物を建てたり、財政運営もしなければいけなくなったので、少し講演会の規模を調整したりしながらやるようになったのを覚えています。

 とにかく、天井が来るのです。天井が来るけれども、プライドが高いから、自分の天井が分からないのです。

 いずれはできるかもしれないけれども、それは十年後かもしれないし、二十年後かもしれないものを、今、ただちにできないと気に食わないところがあって、「君にはできない」なんて指摘されると、腹を立てて、すごく怒ってしまうわけです。そういう人がたくさんいます。

 

人の意見を聞けない人は古典を勉強すべき

 それから、全部自分でやっていて判断できると思っている人は、「余計なお世話だ」と、こういうふうな感じで怒るということがあります。

 こういう人の場合はやはり、勉強しなければいけないのです。勉強しなければいけないことは何かというと、一つは古典です。古典で、やはり歴史をよく勉強することが大事です。

 中国みたいなところでも、今、人の意見を聞かずに、専制的な政治も行われているようには思いますけれども、古典を読めば、ああいう国でも、諫言というのをすごく大事にしています。「諫める」ということです。上を諫めるということをすごく大事にしているので、どうしてもそうなるのです。

 その辺りのことを大事にしたものが、古典の中にたくさん出てきます。

 あるいは、軍師みたいな人が必ずいて、戦いのときには、意見が、A案、B案、C案と、たくさん出てきます。自分だけで考えていると、間違ったり考えつかなかったりすることがあるので、いろいろな人に意見を言わせる。軍議の時には、自由に意見を言えるようにはしなければいけないのです。

 そして、軍師は自分の意見を言っていいし、それに責任が問われるわけではないのだけれども、A、B、C、D案が出てきた中で、どれを採用するかは、やはり大将の責任なのです。大将が決める。A案にすると大将が決めたら、自分はB案、C案、D案が正しいと思っている人もいるけれども、そのときは異論を引っ込めて、それでは「A案で行く」ということで、みんなで、「A案で戦おう」と決めてやるわけです。責任は大将が負うということです。

 そういう意味で、意見は言ってもいいし、聞かなければいけない。いろいろな意見があること、要するに、「もしかしたらこういう奇襲があるかもしれません」というような意見があったときに、そういうことが頭に入っているのと違って、全く考えもしないで自分が攻めて、向こうに勝つことばかり考えていたら、負けてしまうことはあります。これは、知力戦のところがあります。

 一般には、テキストを勉強した「秀才」は(兵法に基づく勝利は)ありえるけれども、「天才」の段階になると、実際にやってみないと分からないところはあります。

 けれども、その「天才」の前の段階の「秀才」のところは、歴史的に過去あったようなことを勉強していくことは大事であろうと思います。「二度あることは三度ある」「歴史は繰り返す」ということがあります。国がどうして滅びるかというのをよく見てみたら、やはり、そうした諫言を聞かない、というようなことがあるのです。

 

創業と守成で人材が入れ替わると知る必要がある

 それから、「創業」と「守成」が違うこともよく説かれています。

 「創業」は、けっこう大胆さもあるし、取りこぼしもあったりしても、勇気を持ってやることは大事だけれども、「守成」になってきたら、今度はやり方が違うということです。守りになってきたら考え方が違って、人材が入れ替わる場合もあります。

 だから、守りに強い人材が「守成」では必要になってきます。「創業」はどちらかといえば、破天荒な方も強いのですが、逆になる場合もあります。

 そういうことを歴史で勉強していないと、人が言う諫言や注意など、いろいろ言われても分からないし、自分を客観的に見る目もできません。

 だから、地位が高くなってくる場合と、あるいは、若くして将来を嘱望されているような方の場合は、そうした歴史に学んで、過去、どういうときに失敗が起きたり、成功が起きたりしているかの勉強をすることです。

 あるいは、近現代的に言えば、経営者などのいろいろな自伝など、そういうものをよく読むことです。偉くなった人はけっこう、自分の失敗などもたくさん言っていますから、そういうことに学ぶことも大事だと思うのです。

 

過去の失敗を伝えることが会社を守ることになる

 成功したらもう、過去の失敗は帳消しで、言わなくなるという方もいるとは思うのです。だんだんに会社が大きくなって、偉い人も入ってくるから、昔失敗した話をすると、皆がバカにするから言えないということもあって、言わなくなって、最初から大会社みたいなふりをして言う場合もあります。

 しかし、会社の歴史を知らないということは悲しいことで、何かのときにまた失敗が出るのです。だから、苦労したときの歴史を教育するのはむつかしいけれども、やはり言わなければいけないこともあります。

 松下電器がパナソニックになって、”「幸之助神話」の逆襲”というのがあるから、もう昔の話は消したいということがありました。「西洋型の近代経営をやりたい」ということもあるわけだけれども、「幸之助神話」が残っていると、例えば「クビ切りをやってはいけない」みたいなことがあったりします。「不況の時でもクビを切らずに、午前中だけ生産して、午後は全員で販売に向かえ」とか、「在庫を一掃しろ」とか、そんなことをたくさん書いてあるので、クビ切りをしたいときには、そういう神話があると実に困ります。そういうことがあるから消したくなることもありますが、でも実際は、西洋型の経営でV字回復しても、長く勤めた技師などがいなくなって、後で困ったりするようなこともあります。

 

八十歳を超えても実力がある人は経営再建ができる

 あるいは、まだ現役で(説法当時)、うちの母ぐらいの年になったと思いますが、稲盛和夫さんなども、JALの再建を託されたときはもう八十歳が近かったと思います。七十九ぐらいから、八十一、二ぐらいまで、八十を挟んでやったのではないかと思います。

 普通、八十ぐらいの人はもう、何万人もの会社の経営というのはちょっと無理だと思うのですが。だから、本人も辞退、固辞して、「自分はJAL派ではない、ANA派なので」「ANAのほうが好きで、JALは嫌いだから、使っていないので」などとまで言っていましたが、あまり言われるので、仕方なしに手弁当でやる、ということでやったわけです。

 もし失敗したら晩節を汚すわけです。今までの成功談、「京セラをつくって何兆円の会社にした」「NTTに挑んで、第二電電をつくり上げた」というような神話があるのに、最後に八十で晩節を汚して、さんざんな目に遭ったら、「おまえ、大変なことなるぞ」と、周りはいろいろ言っていたと思うのです。

 でもやはり、「できる人はできる」ということでしょうか。実力があったのでしょう。当時、五万人いた社員を三万人台まで削って再建させるというのはそうとう血を浴びますから、むしろ、外部からの人のほうがよかったこともあるのでしょう。

 それに、顧客マインドを教え込んだりしています。「セラミックなんかやった粘土屋が何が分かるか」みたいな感じはあったと思うのですが、実際上は回復してしまって、いまだにJALの飛行機は飛んではいますから、大事な仕事だったと思います。

 

 

自分より賢い人を使うには学歴は関係ない

 どうして言うかといったら、「生まれつきの能力のせいで自分はできないのではないか」と思っている社長さんたちに、「そんなものは関係ない」ということを教えたいわけです。

 鹿児島一中がどのぐらいむつかしいのか分かりませんが、おそらく、鹿児島ではいい学校だったのでしょう。附属中学か、トップ高校かぐらいだったのかもしれませんが、それに落ちたという話から、阪大に落ちた話をしているけれども、京阪神の一流会社だったら、京大か阪大ぐらい出ている社員がゴロゴロたくさんいるでしょう。

 自分はそんな無名の会社に勤めたけれども、京セラだって大きくなったら、それは京大、阪大を出ている人もたくさん入っているでしょう。私が知っている人も入っていますから、自分より偉い人を使わなければいけないわけです。

 それで、自分より偉い人を使わなければいけない、賢かった人を使わないといけないけれども、そういう人に、「自分はもう、賢くないから阪大も落ちた。京大だって受かれへんよ」「鹿児島大学を出た人間がこれだけ大きな会社をつくったんだ」と言っている。

 それを言ったらバカにして、「何だあ。社長、大したことないなあ」と思うかもしれないけれども、他にも、高卒とか、高校中退、小学校中退とか小学校卒ぐらいで会社を起こす人がたくさんいるわけです。でも、事業で成功するということは、そんなことにこだわらず、やはり、人間的に成長するということがあるわけです。

 

劣等感を捨てて「経営者になろう」と努力すること

 過去ちゃんとした勉強をしなかったから自分は駄目だ、などと思っているような人もいるけれども、まだまだ、経営そのものの勉強はできるのだ、ということを言いたいわけです。

 だから、鹿児島大学出でも、ちゃんと何兆円もの企業をつくることはできるのだということです。幸之助さんみたいに「小学校中退」には敵わないけれども、そのぐらいでもいけるのだ、と。東大の工学部を出たって、日立あたりで技術者をやっているか、せいぜい出世して部長ぐらいまでしかいけない人なんかたくさんいるよ、と。それから見れば、やはり創業者で何兆円もの企業をつくったらすごいことです。

 ですから、そういう劣等感を持っているなら捨てなさい、ということです。そうではなくて、経営者になろうとして努力せよ、ということを言いたいわけです。

 一番大事なことが何かと言ったら、やはり「情熱」とか「努力の量、時間」とか、こういうものが大事なのだということを繰り返し言っています。

 これを嘘だと思っていたら、もうやる気がないわけです。「そんなことは何にも関係ないし、能力でしょう」。あるいは「学歴でしょう」と思う場合もあるけれども、やはりそうではないということを言っています。

 ありがたいことで、それが分からなければいけないでしょう。

 

失敗したことのない人は危機に気付かない

 能力が高くても、経営者は少し、別な部分が要るのです。

 大勢の人を使わなければいけないので、この人情の機微が分からなければいけないのです。いろいろな人がどう思っているか、男女の違いがあるし、年齢も、八十、九十の人もいる場合もあるし、二十歳ぐらいの方もいるかと思うけれども、いろいろな年代の人がいるので、この言葉を聞いたらそういう人たちがどう思うか、ということを、やはりエコーみたいに聞かなければいけません。

 その人情の機微が分かるのに、苦労していなければ、無理なところはあるのです。ですから、そういう話を知っていることが大事なことであるわけで、一点の曇りもない、完全なサラブレッドとか、失敗なんか一度もないというような人ほど怖いものはなくて、そういう人には任せないほうがいいと、昔から言われています。「戦争も任しちゃいけないけど、経営も任しちゃいけない」「失敗したことがない人に経営を任せちゃ駄目だ」と言われているので、危ないのです。その危機、そこに今潜んでいる危機に気が付かないことが多いからです。

 失敗したことがある人は、用心を必ずするのです。昔で言えば、やかんに触って火傷したことがあるような人だったら、次からはものすごく用心します。そういうふうなことがありますので、やはり痛い目に遭っていないと分からないことはあるので、用心はしたほうがいいし、他人の気持ちが分かるということも財産の一つだということです。そういうことは知っておいていただきたいと思います。

 

経営者であれば失敗を見ないことは許されない

 だから、プライドがあって反省できないで、霊障のまま取れないでいる方というのは、そういう感じだと思うのです。

 非常にプライドがあって今まで成功してきたという方もあれば、「完全主義者」もいると思うのです。私も知っていますけれども、「完全主義者」という人は、必ずしも完全な経歴を持っているわけではないのに、性格的にそうなっている人がいるのです。

 潔癖な感じの人がいて、「自分が失敗するわけがない」みたいな感じの自惚れ天狗になる人はいることはいて、よく失敗しているのですが、それが見えないらしい。「見えない」か、「見ないようにしている」かどちらかです。

 光明思想の中にもそういうところはあって、「失敗を見なければ、要するに成功しかないのだ」みたいな考え方があるわけです。

 「闇を見なければ光、闇を見ないで光だけを見ておればいいのだ」というのが、光明思想の根本です。「罪は”包み”なのだ」という教えです。いくら明るいランプがあったって、風呂敷をかけたら、光が見えなくなる。けれども、風呂敷を取れば光が出てくる。罪というのは”包み”のことなのだというようなことを、谷口雅春先生などおっしゃっていますけれども。

 そういう面で、励まされることもあります。だから、「ああ、そうか。本来闇はないんだ。これは自分の光を包んでいるだけなんだ。風呂敷を一枚取ったら、また光が出るのだ」と思うことで気持ちが楽になって、浮上できることもあります。実際に、そういうふうに思うことで、多少、抵抗力になって元気になれる場合もあるので、そういう場合は方便の教えとして、私は使ってもいいとは思います。

 しかし、経営などというように、人を使って事業をやるようになってきたら、そんなに簡単ではありません。

 「社長、今期はもう、何十億の赤字です」と言われても、「ああ、そんなのはもう、一時期の迷いにしかすぎないんだ。来年はもう、発展するしかないのだ」と、能天気な方もいます。そうなる場合もあるかもしれませんし、来年景気がよくなる場合もあるかもしれないけれども、「社長、そうは言ったって、これ、七十億の赤字が出ていますよ。これ、普通は倒産する可能性がありますよ」となります。

 例えば、「炭水化物を避けて、肉だけ食べて、体を鍛えよう」などとライザップのようなところが流行って、チェーン店をたくさんつくってやっていますけれども、十九年の三月期に百五十数億円の黒字が出る予定だったのに、この前、七十億円の赤字に下方修正していました(説法当時)。百五十何億の黒字と、七十億の赤字はかなり違いますよね。

 七十億の赤字になりますと、一般には、チェーン店をつくっていたら店じまいが始まる可能性は高いでしょう。そうではなくて、「いやあ、こんなものは一時期の迷いだ。また、うちは流行るに違いない」とあまり甘く考えるなら、それは厳しいでしょう。競争がありますから、よそだってまねはできるのだということです。都市部のお店などがしょっちゅう潰れるのを見たら、「ライバルは手強いぞ」ということは本当によく分かります。

 

経験を増やし歴史や他人の人生に学ぶこと

 もとはやはり、経験値が足りないことが全てであろうと思います。経験することも大事ですし、経験で補えない場合は歴史に学んだり、他の人の人生がどうだったかで学んだりしたらいいでしょう。

 こういう点で、小説とか映画、ドラマなどでも、役に立つものはあるのではないかと思います。そういった、人間性をもう少し深めよう、という気持ちを持つことが大事かと思います。

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