宗教心なき教育

 今の日本の教育は、秀才をつくるところまでしかできていない。

 宗教心なき教育は、基本的に、創造性の破壊である。

 神秘的な思想や、神・仏なるもの、霊的なるものを恥ずかしいと思っているようでは、真の意味での天才は生まれず、真の意味での謙虚さも生まれない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『霊性と教育 公開霊言 ルソー・カント・シュタイナー』で、ドルフ・シュタイナーの霊の言葉(「霊言」)を次のように伝えておられます。

「まあ、「宗教心なき教育」というのは、基本的に、創造性の破壊だと私は思いますねえ。
 ですから、「現代の教育が、知識を中心に組み立てられ、行われている」ということは、それによって失っている半面が必ずあるはずですね。その失っている半面は、おそらく創造性だと思います。
 創造性のもとは、やはり、インスピレーションであり、それは霊界の存在を前提としています。ですから、霊界からのインスピレーションを、本人の職業形成に役立てる方向で受けられるような教育をしていくことが大事です。そうした、インスピレーショナブルな人が数多く出てくることによって、社会は、新しいルネッサンス期を迎えることができると私は思います。
 今の日本の教育は、全国一律ですね。それは、明治以降の、えー、四民平等ですか? 「生まれによらず、教育を一律に行って、国民のレベルを上げる」ということには成功していると思うんですけれども、神の恩寵にあずかるような教育からは遠ざかっています。むしろ、「そこまで届いていない」と言うべきかもしれませんね。
 要するに、「秀才をつくるところまでの教育しかできていない」ということです。神の恩寵にあずかるほどの天才が出てくるような教育には至っていません。
 天才の根拠は、何と言っても創造性ですよ。創造性のある人を育てられなければ、天才は生まれてこないし、そもそも、学問が創造性を破壊する方向に動いているのならば、やはり、一考を要しますね。今の受験勉強は難しくなりすぎていて、創造性が失われているところがあります。
 まあ、天才に代わるものとして、知的レベルの高い者同士が、共同作業や会社仕事によって、創造的なものを構築しようと努力している点もあるため、そうした、実務のなかで、一部、創造性の部分が補われている面はあるかとは思います。つまり、個人主義でなく、集団主義によって創造性をつくっている面もあるのです。社風などによっては、そのようなことができることもあるとは思います。
 でも、最後はですね、やはり、神秘的な思想や、神・仏なるもの、霊的なるものを恥ずかしいと思っているようであっては、真の意味での天才は生まれないでしょうね。
 また、真の意味での謙虚さも生まれないでしょう。そして、謙虚な心がなければ、人間は向上することができないと思います。この世的に、いくらいい成績を取ったところで、それは、この世の世界の範囲でのことであって、人間がつくったテストの点数にしかすぎないわけです。それで、神になれるわけではありませんね。
 “神の試験”においては、まだ零点なんですよ。まったく白紙の状態だし、それが災いすると、地獄の門を開く鍵にもなりかねないところがあるわけですね。その知恵が悪知恵になった場合は、悪魔にだってなれます。天使も悪魔も、頭の良さでは変わらないぐらいです。頭がいいのは、両方にいるわけですね。
 だから、その“高度な教育”が悪魔の大量生産にならないように気をつけなければいけないと思いますね。」
(116~119ページ)

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