諫言をどう受け止めるか

 経営者になろうという人は、何らかの夢を持っていなければいけないと思います。その夢を自分なりに信じられるかどうかは大きいでしょう。

 「自分はこういう夢を持っている。これを実現したい」と強く願っていて、その夢を実現する姿を自分自身で信じられることが大事だと思います。自分が自分を信じられないで、人に信じろというのは かなり無理な話です。

 「夢の実現に向けて努力していこう」と自分自身を信頼できなければ、駄目だと思います。それが正当な夢で、社会を少しでも前進させたり、良くしたりする夢であったならば、協力者は必ず現れます。

 まずは、自分自身が自分の理想や夢を強く信じられなければいけません。それを信じていると、その部分がオーラのようになって人を引きつけるようになります。

 私の理想が大きければ、彼らの働きも「もう一段大きくならないと、それが実現できない」と頑張ってくれるようになります。ところが、本人が、「まあ、どっちでもいいや」としか思っていないと、周りで働く人も「なんだ、大きいことを言っているからすごいかな? と思ったら、実際はそれほどやる気がないのだな」と思い、トップのために働いてくれません。

 

近くにいる人は怖い

 ですから、やはり、自ら襟を正すことは大事です。特に身近な方ほどよく見ています。近くにいる人には油断しますが。

 富士山と一緒です。遠くから見ると、きれいなものです。世界一美しいか、日本一美しいかは知りませんが、遠くから見ると、雪を被っている富士山はとても美しい。けれども、近くに行き、夏に山を登ってみると、ゴミの山、ガラクタの山、石がゴロゴロしていて、全然美しくありません。遠くから見るからよいのです。

 会社の社長をやっていても、遠くから見れば、「あの人は立派だな。偉いな」と見えるけれど、近くへ行けば行くほど、そうは見えないのが普通です。

 そういう意味で、近くにいる人はよく見ているので、そういう人たちが「本気にならない」「夢を信じない」「理想を信じない」という状態なら、その人たちを通じて発信されているものが、他の人たちを興奮させたり、本気にさせたりすることは少ないでしょう。

 だから、「近くにいる人は恐るべき」だと、三十年以上前からずっと思っています。近くにいる人は、とても、とても、とても怖いです。裏も表も見ているし、特にサボッているところや、休んでいるところをよく見ているので、怖いと思います。

 近くにいてニコニコ笑ったり、サービスしたりしてくれるような人ほど、怖いものはありません。こちらが見ていないところで一体どういうふうに言っているかは分かりません。富士山に登ろうとしても、「ゴミの山で、あんなところに二度と行きたくない」という感じに言われたら、登る気はなくなります。大体そんなものです。

 

公私混同が批判されるケース

 小さな会社の場合は、特に社長の全体がよく分かるので、自分に厳しくなければいけません。小さな会社や中小企業ぐらいまでなら、公私混同は当然あります。できるだけ少ないほうがよいのですが、どうしても公も私もない部分は出てきます。

 大きいところも、政府のレベルでは、総理のお友達を助けるために税金を投入して、学校を建てるのを支援したのではないかということで、追及されたりしています。

 友達や支援者、自分の心酔者だと思っていたような人でも、よく知っていれば知っているほど、その人が挫折したような場合には、敵になって”刺して”くることはよくあります。

 常々、「身近にいる人たちから、自分がどのように見えているか」ということをよく知っておくことは大事だと思います。そうは言っても、リラックスしたいし、休みも取りたいから、そういう時にも一緒にいられるような人はほしいものです。そうした時に、全て身構えなければいけないと、肩が凝って肩が凝って仕方がありません。そうしたところも見られながら、接しなければいけません。

 それでも経営者であれば、普通なら遊んでいるか、家族で何かをしていると思われるような時でも、やはり、いつも、事業や経営の未来について考えていて、ヒントを探しているのだなという感じが分かると、遊んでいるように見えても、実は遊んでいない、何か考えているんだと分かるようになることがあります。

 

意見をどのように聞くか

 近くにいる人たちには、いろいろ意見を聞きやすいと思うので、「どういう時に頼りにして聞くか」ということもあります。逆に言うと、「いろいろ意見を言ってくることをどのようにさばくか」「どのように仕分けしていくか」というところで、「人間としての絆」の部分はあると思います。

 ところが、若い経営者だと、「自分の考えを押しつけて、人にやらせたい」と思っているから反発されたり、反論されたり、言い返されたり、別の考えを言われたりすると、腹が立ち、すぐ喧嘩になったり、クビにしたくなったりして、使えない人ばかりが増えてくる傾向があります。このあたりの努力は、相当なものだと思います。

 人間として練れていかなければいけません。天才的な発想が浮かぶ人ほど、なかなか人には分かってもらえないことが多いです。腹が立つと思いますが、大将たる者はあまりくだらないことやしょうもないことで怒ったりしてはいけないと心得るべきです。

 本当に大事なことについては、パシッと言わなければいけないことはあると思います。しかし、些細なことやどちらでもありえるようなこと、どうにでもなるようなことについて、「自分の趣味と合わない」と、ガンガン怒るようなことは間違いだと思います。

 そういうことは教えの中で、「多様な価値観やいろいろな個性を認めるように」と言っているのですが、実際にやってみるとできません。

 

経営者としての器づくり

 仕事面で、自分と合わないものに対しては受け入れられないことが多いでしょうが、そのあたりは「経営者としての器の問題」だと思います。いろいろ意見を言っても、そのままやらないこともありますが、何かの折に「自分の言った意見を少し取り入れてくれたのかな」というところがあると、「また言ってみようか」という気持ちになります。

 逆に言うと、トップではなく、仕えている身分である場合は、年上の人がただただ褒めてくれる場合も、あまりそれを真に受けて慢心すると、周りからあっという間に浮き上がってしまうことがあります。年上の人に褒められても、それで浮き足立ったり、慢心したりしないように身を引き締める必要はあります。

 逆に年上の人から怒られて、簡単に潰れてしまうようでもいけません。若くても経営人材なら、褒められてもすぐに風船みたいに舞い上がっていくようでは駄目です。怒られたりくさされたりしても、それで潰れてしまい、プリッとするようでもいけません。

 基本的にプライドが高い人はそうなります。これを克服しないと駄目です。自己調整できるようになってくると、「人を受け入れる器」ができてくるようになります。

 仕事の生産性を落としているものは、「人の好き嫌い」や「人が使えない」という人間関係で多く出ます。社員の人数が多くても、使えない人が多いと結局無駄です。きちんと使うべきところに使えば その人は生きるのに、嫌い合って適材適所ができないということがよくあります。

参考

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