ナレッジマネジメント

ナレッジマネジメントとは、企業などの組織において、その共有資産としての”知識“を発見、蓄積、交換、共有、創造、活用を行うプロセスを体系的にマネジメントしていこうとする経営手法の一つのこと。主に暗黙知を形式知に変換することによって、知識の共有化、明確化をはかり、作業の効率化や新たな発見を促し、組織全体の競争力強化を目指す。知識を活用した経営、という意味の「知識経営」、知識の管理を意味する「知識管理」の2つの側面を持つ。

 

「知識経営」としてのナレッジマネジメント

ナレッジマネジメントの概念は、1994年に一橋大学大学院の野中郁次郎教授と竹内弘高教授が出版した『The Knowledge-Creating Company』によって提唱された。(邦訳「知識創造企業」1996年) 経営資源としての“知識”に注目する理論は、それまでにも散見されたが、野中・竹内が強調したのは、知識の処理ではなく、知識からの創造における重要性と、その形成プロセス(SECIモデル)である。この本はアメリカで英語で出版されてベストセラーとなったが、副題に「How Japanese Companies Create the Dynamics of Innovation」とあり、形式知重視のアメリカにおいて、日本企業の強み(つまり暗黙知重視の日本)を理解する一つの理論として注目を浴びた。

IT分野においても1990年代半ばからナレッジマネジメントを実行するツールとして様々なシステムやソリューションが登場した。“知識”の集約と共有化を図り、これを再利用することで新たな価値創造に結び付けようというものである。データウェアハウス、データマイニングを利用してSECIモデルの実践に繋げようというもの。例えば、グループウェアなどの共有型文書管理ソフトを活用して、営業日報などの個々人が蓄積していた文書を組織全体で共有化し、事例や方法論についての議論の場を設けたり、過去の事例を検索出来るようする、などの“知識”の共有などもナレッジマネジメントの一つ。

「知識経営」としてのナレッジマネジメントは、ITを活用した情報共有によって実現しようと多くの企業で試みられたが、結果として成功している事例は少ない。これは、インフラとしての情報共有システムが整っても、それをどう活用するかは活用する組織次第である為である。いくら、個人の暗黙知を共有化するシステムがあっても、個人の頭脳に存在する暗黙知の量は膨大であり、それをシステム上に落とし込むには多大な労力と時間が要求される。また、提供者に対しての報償制度等も伴わなければ、そもそも“知識”提供をする動機が生まれない。しかし、一方で社内外に存在する膨大な暗黙知や形式知を共有化し、それを新たな価値として創造したり、競合情報を分析して戦略に繋げる事が出来れば(コンペティティブ インテリジェンス)、多大なる可能性が期待出来る手法でもある。

 

 

企業の競争優位を生むための継続的学習の実践方法

「知識」には文章(や図表)化できる。「形式知」の他に、そういうふうには客観化できない主観的な「暗黙知」があります。野中は、そういった新しい知識がどうやって個人と集団(組織)の中で生まれていくのか、循環型プロセス「SECIモデル」を示しました。

 

SECIモデル

I(内面化)の個人の鍛錬の中で

S(共同化)の切磋琢磨の中で

E(表出化)の文章化の苦しみの中で

C(連結化)での異質との組み合わせの中で

イノベーションはどのプロセスにおいても起こります。

 

野中郁次郎は主張しました。戦略や戦術を定めてからそれを「組織化(役割分担と人の調達)」するのではイノベーションは生まれない。戦略に理解や想いを持っている適切な人を集め、戦略の方針さえ決めればあとは「自己組織化」され、チームが決めて行っていくと。センゲも言います。

「世界は相互のつながりをより深め、ビジネスはより複雑で動的になっている。今や、組織のために学習する人が1人いれば十分と言う時代ではない」

 

「知識」には文章や図表などで表現することができる「形式知」と、経験や勘に基づく知識で、言葉などで表現が難しい「暗黙知」の2つが存在するとしました。「形式知」は、組織内での共有が容易です。文書化・データ化し、ナレッジマネジメントシステムに登録した後、容易に検索をかけて調べることができます。

一方、個々人の全く個人的な経験に基づく知識は自己の内面にとどまり、他人との共有を図ることは大変難しいのですが、その前に、その本人が自覚的にこれが暗黙知だと認知しているかどうかも怪しいものがあるのです。

人の身体には、明示的には意識化されないものの、暗黙のうちに複雑な制御を実行する過程が常に作動しているという前提が暗黙知にはあるのです。これを平易な例でたとえると、人が自転車に乗る場合、一度乗り方を覚えるとどんなに年月を経ても乗り方を忘れることはありません。自転車を乗りこなすには数々の難しい技術があるのにもかかわらず。そして、その乗りかたを人に言葉で説明するのはとても困難を伴うのです。これが いわゆる「暗黙知」というものです。

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