企業にとっての徳を積むと運がよくなる

 徳というのは、日常の仕事に愛や思いやり、真心が込められているということです。そういう人は、いざというときに お客様から見放されなかったり、ピンチのときに助けてくれる人が現れたりします。そういう運が巡ってくるのは、決して偶然ではありません。日頃の善行が積み重なってできた徳がもたらしているのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、以下のように説かれました。

「経営者は、グーと突き詰めていくと、最終的には「勘」が大事になります。

この世的には、合理性に合理性を重ね、ありうべきことを徹底的に考え、集められるだけの材料を集めて分析し、経営の理論も使えるだけ使い、考えて考えて、この世的にやれるだけのことをやって、詰めなくてはいけないのですが、やはり、最後には どうしても飛び越さなくてはいけない部分があります。

一般従業員にはとても飛び越せないけれども、経営者には飛び越さなくてはいけない部分があるのです。

この「飛び越さなくてはいけない」というところでは、やはり勘が働きます。「この勘が外れるか外れないか」ということは やはり大きいと思います。それが結果的には「運が良い」ということにもなると思うのです。

こういう意味での「勘のよさ」と「運のよさ」は、実は宗教修行をしていても十分に鍛えられる部分です。

貧乏神を落とす研修もあるかもしれませんが、現実に、神仏の光に接している時間を多く持つことによって、一瞬の判断をよくしなくてはなりません。

車の運転中、曲りくねった山道などでは、一瞬の判断ミスで命を落とすこともありますが、「そういうときに的確なインスピレーションが下りてくるかどうか」ということは大きいと思います。

ここから先は、学問的な領域としては、なかなか感知しがたいものになるとは思いますが、創業および守成の これだけの厳しさのなかでいきのびているところは、結果的に、「努力に努力を重ねた上で、さらに、運がよく、運がよい人たちだ」と言わざるを得ないのです。

その意味では、何代か続いているところでは、やはり「先代からの徳が減らずに貯金されている」ということも大事でしょう。

その「徳」は何かということですが、それは最終的に、「会社が危機に陥った時に、顧客が見放すか、見放さないか」ということだと思います。

商品を売る側、サービスを提供する側が強い立場にあるときには、いくらでも買わせることができたでしょうが、そういう立場にないとき、要するに、「競争過多で、お客様のほうが選べる段階にあるときや、買わなくてもよい時期が来たときに、買い支えてくれるかどうか」というところは、先祖伝来の蓄積された「徳」の部分ではないでしょうか。

「仕事をしながら、そのなかに どれだけ他の人々への愛や思いやりを込めてきたか、真心が本当だったか、単なる売り文句だったか」が試される時期が来ると思うのです。

また、人間は、成功しているときには、誰でも本当によい調子で、機嫌も良いとは思うのですが、そういうときに調子に乗り過ぎないことも大事でしょう。

ときどき、良い運が巡ってきて、調子がよいときには、社業のよいときがあるのですが、そのときに徳を使い切ってしまわないことが大事だと思うのです。徳を使い切ってしまわないで、常に備えを怠らず、「いかにして社会的な公器として存続できるか」ということをトップが考えているかどうか、これが大きな分かれ目ではないかと思います。」(『「実践経営学」入門』P-33~37)

 

 経営とは因果応報そのものです。目に見えない思いや誰も見ていない行動が人知れず仕事をして、どこかでその報いが来ます。そのことを知っているかいないかでも大きな差が出てきます。

 経営で成功するには、「仕事をしながら、そのなかに どれだけ他の人々への愛や思いやりをこめてきたか」を、常日頃から自問自答することが大事になります。

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