資本主義的ユートピア

 幸福の科学大川隆法総裁は、『吉田松陰は安倍政権をどう見ているか』のまえがきで、以下のように指摘されました。

「『税と社会保障の一体改革』は、共産主義的ユートピアの幻想である。早くポピュリズムのワナから抜け出して、自助努力からの発展繁栄こそ、真の資本主義的ユートピア社会であることに気づかれよ」

 

資本主義国にマルクスの呪い

 社会主義や共産主義と言っても、長い歴史があるわけではない。カール・マルクスが『共産党宣言』を書いたのは1848年。人類の歴史上、極めて特異な思想を説き、「自分が貧しいのは、自分から搾り取っている金持ちがいるからで、彼らから強制的に奪い返さないといけない」という被害妄想と嫉妬を体系化した。それが政治的主張になると、私有財産の廃止、強度の累進課税(高い税金)、相続税の廃止(財産没収)となる。

 もちろん「恵まれない人を救いたい」という善意はあったものの、個人がこの考え方を行動に移したら、強盗と変わらない。しかし、「政府が介在して集団で強盗を働く場合は許される」という思想がまたたく間に広がり、社会主義国家が誕生した。

 「人のものは盗ってはいけない」「働かざる者、食うべからず」という人類的な倫理を踏み外してよい という異常な時代がこの150年余りであった。

 「お金持ちから強盗し続けたらどうなるか」の社会主義の実験は、1989年のベルリンの壁の崩壊、1991年のソ連崩壊で終わった。

 とはいえ、西側と呼ばれた資本主義国で、その実験は生き残っている。もともとは1880年代、ドイツの宰相ビスマルクが社会主義の侵入を防ごうとして、逆に老齢年金や健康保険といった社会主義的政策を採り入れたことによる。イギリスやアメリカも順次採り入れたが、戦前は国民の負担は所得の5%程度。今はヨーロッパで50~70%に跳ね上がり、日本やアメリカでも40~30%ある。濃淡はあっても福祉国家は当たり前になり、巨額の財政赤字で苦しんでいる。

 資本主義もマルクスの呪いにかかって終わりを迎えるのでしょうか。

 

みんなが資本家、経営者の社会

 ピーター・ドラッカーは、社会主義も資本主義も終わり、「みんなが資本家や経営者の役割を果たす社会」の到来を予言した。

 今の時代は数百年に一度の大転換期で、それは1965年ごろに始まり、2030年ごろ「新しい世界が生まれる」と予測した。

 一つ前の大転換期は、18世紀終わりから40年ほどの期間という。ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明し、アダム・スミスが『国富論』を書き、少し遅れてマルクスが『共産党宣言』を発表した。産業革命が起こり、資本主義と共産主義が現れた時期です。

 ドラッカーは以下のように語っておられました。

 「今、資本主義とマルクス主義のいずれもが、急速に、極めて異質な社会にとって代わられつつある。その新しい社会、すでに到来している社会が、ポスト資本主義社会である」

 そして、その新しい社会を「知識社会」と呼んだ。まだそれははっきりと姿を現しているわけではないが、ドラッカーは以下のように説明していた。

 第二次大戦をはさんだ工場労働者の飛躍的な生産性の向上は、先進国で20年弱で給料が倍増する「革命」をもたらし、マルクスが告発した「搾取」の構造は吹き飛んでしまった。戦後は肉体労働から頭脳労働が主流となり、それまで「資本」だった土地や工場や機械が、頭脳労働者の「知識」に取って代わった。

 読み書き、コンピュータ技能、外国語、コミュニケーション技術、マネジメントの力量。これらが新しい「資本」となった。

 これは、一人の働き手が「資本家」となることを意味する。また、一人ひとりが組織の中で意思決定し、イノベーションを起こし、新しい価値を生むという点で、「経営者」や「経営幹部」になることを意味する。

 ドラッカーの見通した「ポスト資本主義社会」は、「みんなが資本家や経営者の役割を果たす社会」。労働者の搾取も階級対立も解消されていくということになる。

 

「人から奪う社会」から「人に与える社会」へ

 マルクスとドラッカーの違いは、「人間をどう見るか」の違いかもしれない。

 マルクスは、資本主義を理論づけた経済学者たちが「人は物欲をめぐる満足を最大化する」と定義したのに応じる形で、「人(労働者)は搾取されるので、奪い返さなければならない」と見た。

 一方、ドラッカーは「人は社会に貢献する存在である」と見ていた。

 過去200年余りが自分の物欲を満たしたり、人から奪ったりする社会だったとするならば、これからは「他の人や世の中に何かしら与えようとする」社会になると言ってよいでしょう。

 近代資本主義の精神としてプロテスタンティズムがあると言われている。「勤勉に働いて豊かになること(世俗内禁欲)は、神が祝福するものである」という信仰をベースとする自助努力の考え方です。これからの時代、「世の中への貢献」ということを考えれば、これだけでは十分ではない。

 大川隆法総裁は以下のように語られました。

「セルフ・ヘルプで止まってはいけないのです。そこから、公共心を持って、他の人たちを発展させ、押し上げていく努力をするように、自己成長を目指さないといけません。『セルフ・ヘルプから、さらにもう一段偉大な自己となって、周りの人たちを助けられる自分になりましょう』というところまで押していかないといけないのです」

 これまでの時代の「物欲を満たす資本家や経営者」「搾取される労働者」という対立を越え、新しい時代はみんなが「自ら成功し、他の人の成功も助ける神仏の子」であるという社会になる。

 ポスト資本主義には、新しい宗教的バックボーンが不可欠です。

 

政府の仕事も大転換

 ポスト資本主義の時代には政府の仕事もまったく違ったものになる。公的年金のようにお金を強制的に配分する仕事はなくなっていく。「社会に貢献」できる仕事や機会を国民一人ひとりに提供できるかが、政府の仕事の中心になる。

 具体的には、「今の公的年金の仕組みは『国営ネズミ講』なのでやめる」「いくつになっても働き続け、世の中の役に立てる社会を築く」「子供が親の老後の面倒を見ることをサポートする」「身寄りのない高齢者は、政府が責任を持って助ける」などです。

 そして、「130兆円ある公的年金の積立金に加え、富裕層や企業から資金を集め、新しい基幹産業を創るために投資する」ことも掲げる。

 産業革命以降、イギリスで蒸気機関や鉄鋼、ドイツで電気機械、アメリカで自動車などの新産業が生み出された。これらの産業が何十億人という単位の仕事を創り出してきた。

 現代に生きる人間には、これから数百年にわたって人類の「メシ」の種となる基幹産業を創るミッションがある。

 こうした大イノベーションに一企業だけでチャレンジするのは難しい。政府として、明治時代のような「殖産興業」を世界規模でやり遂げようという企業家精神が求められている。

 ネズミ講を運営する詐欺師の仕事を延々と続ける選択はもはやない。明治期に500社以上の企業群を創り出した渋沢栄一のような銀行家・実業家の仕事へと大転換するしかない。

 

夢のある国、徳ある国へ

 ドラッカーは、代表的な著書『マネジメント』で、渋沢栄一についてこう記しました。

 「率直に言って私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出る者を知らない」

 「社会的責任」は「社会への貢献」と言い換えてよいでしょう。

 大川隆法総裁は、法話「未来創造の帝王学」で、資本主義経済が終わりを迎えようとしていると指摘したうえで、未来の経済のあり方について以下のように述べられました。

「『未来人類から感謝されるような仕事とは何であるか』ということを考えることです。それがこれからの経済を大きくしていくための道なのです」

 「人から奪う社会」から「人に与え貢献する社会」へ。マルクスの『共産党宣言』を葬り去る反マルクス革命が成就した時、日本は世界の人にとっても、夢のある国、徳ある国になる。

 

発展した国家の人々は「自助努力の力」を信じていた

 「自助の精神」を持った国家は必ずといってよいほど繁栄を享受している。

 イギリスの全盛期は18~19世紀にかけて起こった産業革命の頃だが、当時は国中に「自助の精神」があふれていた。

 この時代のイギリスには、蒸気機関の改良発明を行ったジェームズ・ワットや、ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破ったウェリントン将軍、詩人のウォルター・スコットなど、あらゆる分野に数多くの成功者が現れた。

 彼らの生き方を克明に紹介したのが、世界的なベストセラーとなったサミュエル・スマイルズの『セルフ・ヘルプ(自助論)』です。その冒頭には、「国家の発展は、人民各自の勤勉の力と真面目な行いとが総合して現れる」と記されている。まさに国民の自助努力の集積として国が栄えたのです。

 さらに、明治初年、中村正直によって『自助論』が『西国立志編』として和訳されると、100万部を超えるベストセラーになった。これにより、自助努力の精神が日本人の間に広く浸透し、今度は日本が急速に発展して隆盛を極める。維新後の日本が新興国ながら、短期間で欧米の列強諸国と肩を並べるまでに急成長したのは、まさにこの「自助の精神」の力によるものです。

 アメリカが黄金の60年代と呼ばれる繁栄を謳歌した時代も自助の精神があふれていた。1961年、米大統領に就任したケネディが、就任演説で「国家があなたに何をしてくれるかを問うのでなく、あなたが国家に何ができるかを考えよ」と訴えたのは有名です。

 

「嫉妬の文化」で左傾化する日本

 ところが、こうした歴史の教訓が現代の日本に生かされているとは言い難い。

 戦後の日本は、「世界でもっとも成功した社会主義国」と言われるように、「自由」よりも「平等」に価値を置いた社会に傾いていった。

 高度成長で国民が豊かになるにつれて、年金や健康保険などの社会保障制度が充実し、やがてそれは「結果の平等」に向けた過度の要求を生んでいく。

 大手銀行の護送船団方式に代表される横並び体質、徒競走で手をつないでゴールさせるような学校現場に蔓延した平等主義。こうした左翼的な思想が、政治経済や行政、教育など幅広い分野に広がり、気がつけば成功者の足を引っ張る文化、「嫉妬の文化」ができあがっていった。

 1990年代初頭のバブル潰し政策や2006年のヒルズ族叩きなどはその典型でしょう。

 むろん、1996年の金融ビッグバンや21世紀に入ってからの小泉改革など、自由主義的な考え方の下で規制緩和や構造改革が進んでいった時期もあった。

 しかし、日本人の潜在意識に染み付いた左翼思想は払拭されず、「格差」や「アメリカ型の資本主義」への批判が沸き起こる。それが2007年の参院選での自民党惨敗という形で顕在化して以降、左傾化の流れは止まらなくなった。

 そこにサブプライム危機に端を発する世界同時不況が広がり、国民の政府への依存心がますます高まった。それが先の民主党政権の誕生へとつながっていったと言える。

 

今の日本に必要なのは「自助の精神」

 しかし、「大きな政府」とは、社会主義政府にほかならない。国民が国の手厚い保護に頼ることは体に薬物を打ち続けることに等しく、次第に人々の志や理想、倫理、そしてその国の国力までも弱らせてしまう。

 もちろん、急激な経済危機に見舞われた時の緊急措置や、生命にかかわるケースへの政府や自治体の公的なセーフティーネットは必要です。しかし、それが慢性的なものになって、多くの国民が政府からばらまかれた金で生活を成り立たせるような社会は、「福祉国家」と言えば聞こえはよいが、その実情はもはや「怠け者国家」である。

 「救済措置が、十年、二十年、三十年、あるいは、それ以上という長いスパンになり、誰もが怠け者になっていくのであれば、これは、やはり許せません。基本的には、『自助努力の精神』『自助論の精神』を失ったら終わり」(『幸福実現党宣言』)と、大川隆法総裁が指摘するように、日本は今こそ自助努力型の「小さな政府」を目指すべきです。国防や警察は別としても、原則、国が国民の日々の生活の面倒を見なければならない理由などない。

 このままいくと、福祉や社会保障の大義名分の下で、日本は大重税国家への道を突き進むことになる。それは「怠け者大国」への道であり、かつてイギリスが衰退し、ソ連が崩壊したのと同じ道である。

 そのような事態を避けるためにも、私たち日本人一人ひとりが「自助の精神」を取り戻さなければならない。

 

福祉への過度の期待がもたらすもの

 世界的な不況の中で、生活に不安が生じ、失業対策などの社会保障に対する政府への期待が高まる時には、一つの危険がある。全体主義的な「国家社会主義」を呼び込みやすいということです。

 国民が将来への不安を感じ、世相が閉塞感に満ちてきた時に、大胆な財政政策や思い切った社会保障政策などを打ち出すと、当面の失業問題が解決し、不安が一掃されることがある。そうして登場したのが ヒトラー や ムッソリーニ である。彼らは大衆の不満を見事に解消することで、人びとの幅広い支持を集め、やがて独裁者となっていった。共産主義も似たような背景で人々の支持を集めて、勢力を拡大してきた歴史を持つ。

 政府の福祉政策への過度の要求や、国に何でも面倒を見てもらおうという「大きな政府」への期待は、時としてこうした全体主義を呼び込むことがある。同種の不幸を繰り返さないためにも、歴史の教訓に学ぶことが必要です。

 

なぜサッチャー改革を見直すべきか

 日本が左傾化していく中で、改めて見直したいのはイギリスのサッチャー改革です。

 第2次大戦後のイギリスは、過度に福祉国家を目指す中で経済が停滞していたが、1979年に就任したサッチャー首相が抜本的な改革に取り組む。産業革命時の精神を取り戻すべく、「自助の精神」をモットーに「政府の介入を減らし、個人が自分の人生に責任をとれる環境」を作り出そうと国家の再建に乗り出したのです。

 サッチャーは、直接税の減税や公的支出の大幅削減、国有企業の民営化などの改革を次々に断行。小学校のミルクの無料配給を廃止したため、国民から「ミルク泥棒」と批判を浴びたが、その信念は揺るがず、その後イギリスは復活を果たす。

 「経済という方法を通じ、目的は人心を変えることです」と語ったサッチャーは、政治家という立場から、国民に「自助の精神の大切さ」を広めていったのです。

 サッチャー首相が力説したように、「働かざる者、食うべからず」という人生の基本に立ち返るしかない。政府が貧しい人にどれだけ金銭を与えても、貧困から抜け出せるわけではない。必要なのは自己責任の考え方や勤勉の精神です。

 国民としては自衛に入るしかない。若い世代は人生設計を立て、勤勉に働き、財産をつくる。あるいは、子育てに励んで、将来面倒を見てくれる孝行な子供をつくるのも一つの道です。高齢の方は、可能なら今からでも奮起して安心できるところまで稼ぐ手立てを考えるべきです。

 もちろん、どうしても働けない人、家族の助けが得られない人を救うセーフティー・ネットを用意するのは政治の仕事になる。「飢えず、凍えず、雨露がかからない生活、病気の際に痛みを取り除く医療」は誰にも不可欠です。

 こうした「資本主義的ユートピア」を目指す中にこそ、日本もアメリカもその他の先進国も新たな「姥捨て山地獄」を阻止することができる。