教育者のあるべき姿

 幸福の科学の大川隆法先生は、『教育の使命」で以下のように説かれました。

「教育を通して、この国を発展させたり、各人の人生を成功に持っていったりしようとするならば、やはり、「二宮尊徳的な精神」が要ると思います。それは、「努力を通して、人格や人徳が磨かれなければいけない」ということです。勉強において精進することで、人は立派になっていきます。そして、その立派な人が、よい仕事をなすような社会をつくらなければいけないわけです。したがって、人物として立派になると同時に、よい仕事をする人になるような教育をしなければいけません。そのモデルの一人が、二宮尊徳だと思うのです。しかし、今、学校の先生たちは、上の人に管理されたくないために、「自分たちを管理するな。勤務評定をするな」と言って抵抗運動をしています。そういう先生が、生徒を正しく管理できるかというと、できるわけがありません。  生徒のほうも、先生がやっているように、「私たちを管理するな」と言うはずです。「先生が上の人の言うことをきかないで『楽をしよう』としているのなら、私たちだって同じだ」ということで、学級崩壊も学力の低下も、当然、起きてくるでしょう。  やはり、生徒は、上にいる先生を見習い、だんだん似てくるものなので、そのあたりが問題なのではないかと思うのです。(中略)生徒によく勉強させようとするならば、まず、先生が、自ら「勉強する姿勢」や「学問を愛する姿勢」を見せなければいけないし、その「学徳」が、人格を高め、世の中への貢献につながっていくところを見せなければいけないと思います。  そのような先生は、自然に慕われるようになるでしょうが、一生懸命に「労働者の権利」を主張しているような先生には「尊さ」がありません。そういう先生を見ていると、少し悲しい気持ちになるものです。やはり、教師には、「聖職者としての使命」というものがあるのではないでしょうか学校の先生が、自分たちを「一労働者」と規定して、「生徒たちに感化力を及ぼしたくない」という方向を向いているのなら、それは大きな問題です。そういう教育が日本全国で主流となっておりながら、しかも、教育費をタダにしていく方向に進んでおりながら、先生のほうが「教員免許の更新はあまり行われないし、教育の質も問われない」ということであれば、やはり「堕落するな」と言っても無理ではないかと感じます。(中略)基本的に、「自分自身で目標を設定し、努力していこう」という気持ちのない人には、指導者としての資格はないでしょう。向上心のない人を指導者にすることはできません。向上心なき者に、人を指導する資格はないのです。「ただただ下がっていく」という感じで、楽をしていく方向に流れていき始めたら、その人は、生徒が手本にするには足りないと思います。したがって、「常に、一歩でも二歩でも自分に磨きをかけようと努力している先生の下には、優秀な生徒が育ってくる」と考えてよいのです」

 教育には、努力を通して人格や人徳が磨かれなければいけないという、二宮尊徳の精神が必要である。

 勉強において精進することで立派になった人が、よい仕事をする社会をつくらなければならず、人物として立派になると同時に、よい仕事をする人になる教育をしなければいけない。

 生徒によく勉強させようとするならば、先生が自ら、勉強する姿勢や学問を愛する姿勢を見せなければいけないし、その学徳が人格を高め、世の中への貢献につながっていくところを見せなければいけないから、教師には「聖職者としての使命」がある。

 幸福の科学の大川隆法総裁は、『大隈重信が語る「政治の心 学問の心』(幸福の科学出版)で、早稲田大学を創立者し、総理大臣まで務めた大隈重信の言葉(霊言)を、次のように伝えておられます。

「うーん・・・。それはまあ、何がいいって、「文部科学省をなくすのが、いちばんいいだろう」とは思うがなあ。こんなことを言ったら、怒られるかな。でも、ほんとは、あそこが問題だろう。  明治になる前の江戸時代までは、九割もいたかどうか知らないけど、大部分が農民だったし、商人も「読み書きそろばん」ぐらいができりゃ、いいレベルだったし、まともな勉強をしてるのは、学者と武士階級の者ぐらいだったわけだな。  そういう時代から見りゃあ、明治の時代に移行していくあたりでは、「護送船団方式で国民のレベルを上げる」っちゅうのが非常に大事なことだったと思う。けれども、日本が、これから、一流国から二流国に落ちず、さらに超一流国に進化していくためには、もうちょっと教育の自由性が必要だな。  そういう意味で、「護送船団をつくっていくタイプの役所」っていうのは、やっぱり引っ掛かるよ。まあ、「文部科学省は要らない」っちゅうたら、抵抗されるかなあ。抵抗勢力になると困るけどな。今、文部科学省は、助成金で、学校を全部縛っとるからさあ。やつらは「財政赤字」と言いつつ、自分たちの権力のために助成金をばら撒いていて、学校のほうは、それによって縛られているところがあるわけだな。自由競争をやらせりゃ、いい学校が残って、悪い学校は潰れるんだよ。それは分かってるんだけど、学校を潰さないようにしてるんだろう?(中略)とにかく、諸悪の根源は文部科学省だ。まあ、日教組の問題もあるんだろうけどね。あれは、教員の労働組合だよね。ああいう、身内をかばい合うようなものは、小さい団体のうちには機能する場合があるんだよ。だから、「零細のものが、自分たちの職業や生活を守るために、組合をつくって身を守る」っていうことに、私は反対じゃない。「商店街が潰れないように守ろうとしてる」とか、こういうのに反対はしてないよ。  ただ、全部を一律の命令で動かすような、全体主義的な組合を全国規模でつくったならば、教育の自由化や、まじめに努力して一生懸命成果を出す人を潰しにかかる傾向が必ず出てくる。彼らに言わせれば、「そういう人が出てくると、自分たちの怠ける自由がなくなる」というわけだ。要するに、「教員にも、『教育する自由』と『教育を怠ける自由』がある」ということなんだよ。(中略)そして、この「手を抜く自由も大事だ」とおっしゃる人たちによって大きな組織がつくられると、まともに努力している人が、ばかを見ちゃうことがあるんだよ。まあ、善意を信じたいけど、組織が大きくなると、人間はどうしても易きにつくんだよな。ここにも、やはり、手を入れなければいかんでしょうね。(中略)官僚制も労働組合も、巨大化すると必ず凡庸性と全体主義性が出てくるんです。そうすると、付加価値の高い教育をし、個性的で将来性のある人を育てることができなくなってくるんだよね。だから、これを打破しなきゃいけない」

 教育政策としては、文部科学省をなくすのがいちばんよい。

 また、日教組の問題もある。全国規模の組合は、まじめに努力して一生懸命成果を出す人を潰しにかかる傾向が必ず出てくる。

 官僚制も労働組合も、巨大化すると必ず凡庸性と全体主義性が出てきて、付加価値の高い教育をして、個性的で将来性のある人を育てることができなくなってくるので、これを打破しなくてはならない。

 幸福の科学の大川隆法総裁は、『教育の使命』(幸福の科学出版)で以下のように説かれました。

「とにかく、この国の未来を明るくしたかったら、自分たちよりも後に来る人たちが、自分たちを乗り越えていけるような状況をつくらなければなりません。先生というのは、生徒が自分を追い抜いていくことを喜びとしなければいけないのです。そのためには、「後ろ姿」を見せなければいけません。自分が努力している後ろ姿、背中を見せながら、「後から来る君たちは、私を乗り越えて先へ進みなさい。それが、この国の発展につながるし、世界のためにもなるのだよ」と教えなければいけないのです。これは、「自分たちだけの権益を守ろう」などという堕落したスタイルの先生にはできないことです。しかも、「ゆとり教育が大切だ」と言って楽をしてきたツケが、日本の国際競争力の低下となって表れています。それだけ、日本の学力水準が下がってきているのです。  これから復活させようとしているところですが、ゆとり教育では、教育内容が三割ぐらい削減されました。  例えば、昔は、中学三年間で習う必修単語が千語ぐらいあったと思いますが、それがだんだん減らされていきました。特に、ゆとり教育下の指導要領では、そのうちの基本語が百語にまで減っていったのです(説法当時。二〇一二年より必修単語は千二百語に増加)。英語圏では、「乞食になるのにも三百語は必要だ」というように言われているので、この程度では使いものになりません。世界に出せる人材など、育ちようがないでしょう。(中略)高校の参考書を見ると、「これは中学校の参考書かな」と思うほど易しい内容が載っていたりするので、このようなことでは駄目だと思います。  幸福の科学は、今、教育事業も行っていますが、「最終的に実社会に出て使えるレベル」を考えると、やはり、その途中において埋めていかなければいけないものがあります。先生は、「自分が担当しているときに楽だったらよい」とか、「生徒が文句を言わなければよい」とか、そのように考えるのではなく、生徒が実社会に出て使えることを教えなければいけません。そういう意味では、社会で実際に仕事をした人などに教員資格を与えてもよいと思うのです。(中略)教員にも、「教育学部系の人でなければならない」という必然性はなく、ほかの学部を出た人のなかにも、学力があり、教え方がうまい人はたくさんいます。さらに、例えば、営業系やサービス系で仕事をした人だったら、学級崩壊を起こさないような授業が、わりに簡単にできてしまうかもしれませんし、あるいは、マネジメントや経営を経験した人だったら、学校をうまく運営できるかもしれません」

 教育内容が3割も削減されたゆとり教育のツケが、日本の国際競争力の低下となって表れている。高校の参考書が中学校の参考書かと思うほど易しい内容だったりするのでは、世界に出せる人材など育ちようがない。

 学校の教師は、自分が担当しているときに楽だったらよいとか、生徒が文句を言わなければよいとかではなく、生徒が実社会に出て使えることを教えなければいけない。

 最終的に実社会に出て使えるレベルを考えると、教育学部系の人でなければならない必然性はなく、他の学部を出た人のなかにも学力があり教え方がうまい人はたくさんいるから、社会で実際に仕事をした人に教員資格を与えてもよいでしょう。