マルクスの政治思想は誤り

マルクス主義の経済学

 マスコミが、すぐに「資本主義型の経済が失敗した」という方向に持っていきたがるのは、根本的に頭にマルクス主義が入っているからです。

 しかし、経済を一元管理できると考えるマルクス主義は間違っている。

 才覚のある人が、それぞれ一生懸命に智慧を絞ることによって、政治だろうが経済だろうが発展・繁栄する道が開けるのである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『政治の理想について 幸福実現党宣言②』で次のように説かれました。

「最後に述べておきたいのは、「マスコミは、経済に対する理解が低く、全部、『マルクス的なものの考え方が正しい』という方向に持っていきがちなので、気をつけていただきたい」ということです。私の上の世代ぐらいの人たちは、みな、マルクス主義の“洗礼”を受けており、頭のなかに“刷り込み”が入っていて抜けないのです。そのため、「資本主義型の経済が失敗した」「マルクスの予言が当たった」という方向にすぐ持っていきたがるのですが、それは、根本的に頭のなかにマルクス主義が入っているからです。資本主義、自由主義の世界においては、投機が行われるのは当然のことです。ただ、「投機のリスクを、どこで見限るか」ということが非常に大事なのです。例えば、「株式投資をする場合は、手元にあって自由になる資金のうち三分の一を限度としなさい」ということが、知恵として一般的に言われているわけです。株式投資においては、儲かることもあれば損をすることもあります。これがルールなのです。そういうことを「マル経」型の人は知らないので、何か問題が起きると、それをすべて資本主義の矛盾と捉え、マルクス主義へ戻そうとするのです。根本において、アダム・スミスのレッセフェールとは、「自由放任にしたらうまくいく」という考えではありません。それは、「それぞれの人が、自分たちの智慧、才覚を最大限に発揮して経済活動をするほうが、誰か特定の人が決めた“経済法則”で国家運営をするよりも、うまくいく」ということを言っているのです。つまり、「社会主義型の運営よりも、それぞれの人が企業家精神を発揮して自由に活動したほうが結果的にはうまくいく」という、非常に民主主義的な考え方なのです。したがって、「アダム・スミスの考え方は間違っている」と言うならば、それは、「民主主義は間違っている。民主主義より独裁制のほうが効率がよい」と言っているのと同じです。しかし、「経済を一元管理できる」と思うことは大きな間違いなのです。この間違いのもとはフランス革命にあります。民主主義のもとと思われるフランス革命においては、理性万能主義がかなり支配していました。そして、理性万能主義のもとにあるのは、ルソーやカント、デカルトの思想です。彼らの思想は、一部、間違いを含んでいたと思います。「理性でもって世の中の動きを全部コントロールできる」という考えが入っているのです。これは非常に傲慢なエリート主義であり、「一つの理論だけで世の中を動かせる」と思っていたところが間違いなのです。その後の歴史を見るかぎり、やはり、人間は捨てたものではないことが分かります。「才覚のある人が、それぞれ、一生懸命に智慧を絞ることによって、政治だろうが経済だろうが、発展・繁栄する道が開ける」ということは間違いありません。したがって、各人の力を出し切れるように、規制などは、なるべくかけないようにして、繁栄への道を開いていくことが大事なのです。「それは、弱者に厳しく、強者に優しい考え方である」と思う人もいるかもしれませんが、全体として国富を増やしていくには、この考え方しかないのです。」

 

マルクスの政治思想は誤り

 大川隆法総裁は、『政治の理想について──幸福実現党宣言②』で以下のように説かれました。

「マルクスの行ったことのなかで、“天才的”と言えることを一つ挙げるとすれば、「貧困を政治的権力として使った」ということです。彼は、「貧困が政治的権力に転化する」ということを見抜いた人、あるいは発見した人なのです。マルクスが生きていた当時、炭鉱の労働者など、使われる側の人たちには、満足に食べていけない貧しい人が多かったのですが、彼は、「数としては貧困者のほうが多いので、この『貧困』をキーワードにし、政治的に転化して利用すれば、大きな政治運動の力になる」ということを見抜いたわけです。そして、貧困を政治目的に利用するために、「搾取」という言葉を思いつきました。彼は、「あなたがたが貧しいのは、あなたがたのせいではなく、あなたがたの富を搾取している人がいるからなのだ。悪人たちが、本来あなたがたが手にすべき財産を搾取しているために、あなたがたは貧しいのだ。だから、搾取している悪人たちを追放し、搾取されている側が統治者となればよいのだ」と言ったわけです。これは、一見、民主主義のようにも見えますが、実は違います。なぜなら、ヨーロッパの政治的伝統において、自由という言葉のなかには、極めて深いところまで「財産の自由」が入っているからです。それは、「個人が、自分で働いて貯めた財産を守れる」ということです。「物を買ったり、家を建てたり、子供にあげたり、人にプレゼントしたりするなど、自分が働いてつくった財産を、どのように使おうと自由である」という、この自由権を守るために、ヨーロッパの人々は、実は、かなり長い間、政治的に戦ってきた事実があるのです。「貧困を救済する」という目的は是としても、ただ、その過程において、マルクスは「革命を成就させるためには、暴力も辞さない。手段は選ばない」ということを言っています。また、「銃口から革命が生まれる」とも言っています。中国の毛沢東やキューバ革命のカストロ、チェ・ゲバラなどもそうでしょう。そういう思想をつくったために、大量の人が死ぬ結果になりました。要するに、「悪人たちを銃で撃ち殺さなければ、あなたがたは幸福になれない」という思想を説いたわけですが、この思想は間違いです。たとえ結果が正しいものであったとしても、途中の過程、プロセス、手段についても、相当であり、社会的に合意されるようなものでなければいけないのです。革命の名の下に、単に暴力を使って、破壊したり、殺戮したりすることは、民主主義の持っている本来の使命ではないのです。民主主義のなかには、「自由を創設する」という意味があります。そして、その「自由」の意味のなかには、個人が汗を流して働いてつくった富、財産というものを尊重する考えが入っていることを知らなければいけないのです。したがって、大事なことは、政治参加における権利の「平等」と「自由」を保障することです。また、軍事政権にしないことも重要だと思います。あくまでも、選挙等で選ばれた文民による統治が行われることが大切です。誰であっても、銃口を向けられたら投票の自由はなくなるので、「軍人に政治をさせない」ということは大事です。この点はしっかり押さえたほうがよいでしょう」

 マルクスは、「貧困が政治的権力に転化する」ということを発見し、「搾取」という言葉を思いついた。

 これは、ヨーロッパの民主主義で大事にされる「財産の自由」に反する考え方である。

 また、貧困を救済するためとして、暴力革命を認めたのは、間違っている。それは、民主主義の持っている本来の使命ではない。

資本主義国にマルクスの呪い

 大川隆法総裁は、『マルクス・毛沢東のスピリチュアルメッセージ』で、マルクスの霊自身の言葉(「霊言」)を、C氏(質問者)との対話の形で、次のように伝えておられます。

「マルクス うーん。まあ、だから、君ねえ、「富の総量」って基本的に変わらないんだよ。君、勘違いしてるなあ。八時間労働とする。それで、労働人口が十万人なら、十万人で八時間労働した場合、生み出せる「富の総量」っていうのは、もう決まってるんだよ。

C 全員に同じように、必ず八時間の労働をさせるためには、誰かが監視をする必要が出てくると思います。つまり、監視社会になっていくとは思いませんか。

マルクス うーん。その監視するやつが、くさいよな。そいつは働かないで、同じ給料をもらおうとする傾向が出てくる。そうすると、そいつが働かない分だけ、ほかの人が、余分にノルマを課せられて、働かねばならんようになる。これでは、やはり、働かない者が発生して、人の上に立つ者が出てくる。要するに、十人の人が働いていたのに、一名が監視員に回ると、その一名分だけ余分に働かされるか、自分の取り分が減るか、どっちかになる。これは不平等な社会の始まりだな。うーん。富の偏在だ。

C 実際、共産主義を目指した国は、今、あなたが言ったように、「誰かが独裁者になって監視する」というエリート独裁の社会になっていったのですが、それについてはどう考えますか。

マルクス それは何かの間違いなんじゃないかなあ。うーん。そんなことがあっていいはずがない。わしの理論からいって、そんなことは起きるはずがない。

C 労働に関してお訊きします。あなたのような「本を書く」という仕事は、物をつくっていないので、ある意味で、「何も労働していない」ということにはならないでしょうか。  そうすると、あなたは、「働いていないので、食べてはいけない」ということにならないでしょうか。

マルクス うーん。まあ、ここは、ちょっと・・・。まあ、若干、違いがあるんだけども・・・。  まあ、ペンを走らせて原稿を書くのも労働といえば労働であって、やはり、「原稿用紙一枚当たりいくら」で働いてるわけだ。原稿用紙を一枚埋めるのにかかる時間っていうのはあるわけで、だいたい、書ける速度はあるわけであるからして、まあ、パンをつくったりする労働と種類は違うが、労働であることには変わりがない。まあ、こういう仕事をする人が少ないということではあるがな。労働者であることには変わりない。うん。

C そうすると、「書いた内容や思想にかかわらず、書いた文字数によって、その価値が量られる」ということになるわけですか。

マルクス まあ、そういうことだな。それが正しい考えなんじゃないかな。うん。一字、いや、「原稿一枚いくら」ということだな。うん。

C 人間の労働にそれほど差がないと考えると、やはり、「ヘーゲルもアダム・スミスも、あなたも、みな同じ」ということになりますね。

マルクス うーん。いや、わしのほうが量は書いたかもしらんから、わしのほうが金持ちになっても、おかしくはないんだが、金持ちになっとらんのだよな。おっかしいなあ」

 総裁が霊界のマルクスを呼び出して マルクスの理論の疑問点について質問してみると、本家本元のマルクス自身が答えられないことばかりだったというのには驚きです。特に、思想家としての自分の仕事の価値について、まったく矛盾した回答しかできないというのには呆れるばかりです。

 マルクスは、「富の総量」は基本的に変わらないと考えているわけですが、このマルクスの誤りについては、パレートの法則で簡単に説明することができそうです。つまり、「パレートの法則」を適用して考えてみれば、「10時間の仕事時間のうち2時間で、全体の80パーセントの仕事をすることができる」わけですから、最初の2時間の労働の価値というのは、残りの8時の部分間とは異なっていて、平等ではありません。 つまり、「富の総量」は智慧による時間の使い方如何でいくらでも変わってくるのであって、このあたりの考え方の足りなさに、マルクス思想の誤りの根源があるようです。 

 大川隆法総裁は、『幸福の科学言論②』で以下のように説かれました。

「マルクスは1800年代後半の社会を見て、独自の経済主義理論をつくったわけですが、その1800年代後半の世界というのは、一部ブルジョワジー・資本家と、下部の人・搾取されている人たちとの乖離がきわめて激しく、下部の人たちは鉱山の鉱夫などの労働者に象徴されるように、きわめて劣悪な労働条件下にあったのです。そして、この劣惑な労働条件下にある人びとを救いたいという彼の熱意が、その哲学理論を組み立てたところがありました。しかし、彼の思想におけるいちばんの欠落部分は何であったかというと、「生産性の向上」という概念、ここが欠けていたということです。マルクス的な考え方においては、ようするに単位時間に一人の人が生みだすもの、この価値というのはだいたい同一だとみているわけです。一人当たり、一時間当たりの生産性というものはきわめて違うものがあります。それは、事務労働をしても、人によって五倍、十倍のひらきがありますが、もっとそのなかに創造性が加わってくる仕事になると、生産性の差はさらに高まります。そして、一時間当たりの価値というのはきわめて違ってくるわけです。さらにいうならば、機械を使うことによる生産性の向上もあるわけです。機械文明の発達によって、一人当たりの生産性は飛躍的に増大しました。ですから、マルクスの『資本論』は、本来は資本主義社会において経済的没落、および階級闘争が起きるという予言であったにもかかわらず、実際マルクス理論が適合したのは農業国ばかりだったのです。社会主義革命はソ連であるとか、中国であるとか、東ヨーロッパであるとか、こうした農業国ばかりに起きました。それは彼の基本概念であるところの労働価値説、すなわち労働が生みだす価値、一時間の価値についての考え方が、まだ生産性の高まらない段階での人間の労働を前提にしていたからです。高度の資本主義社会、工業社会では適用できなかったということなのです。したがって、彼のユートピア建設という理想そのものは正しかったのですが、その学説の成り立ちの部分に、やはり根本的な違いがあったということで、彼も時代の子であるという限界は否めなかったということです」

 マルクスには、「生産性の向上」という概念が欠けていた。

 1人当たり1時間当たりの生産性は、人によって五倍十倍のひらきがあるし、創造性が加わってくる仕事では、1時間当たりの価値というのはきわめて違ってくる。

 だから、マルクス理論が適合したのは農業国ばかりで、高度の資本主義社会、工業社会には適用できなかったのです。

 大川隆法総裁は、『未来創造の経済学』で、ノーベル経済学賞を受賞した著名な経済学者・ハイエクの霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

「原点は「自己弁護」だと思うんですよ。自分が貧しくて事業に成功しなかったことなどを、全部、基本的には、外部に責任を押しつける考え方を持っていると思うんですね。それは、あなたがたの宗教でも教えている「自己責任」ではなくて、他の責任にする生き方ですよね。そういう自己弁護のためだけに、あの膨大な経済哲学をつくり上げた人だと思う。「自分が貧しいのは、なぜか。それは大資本家が悪いからだ」ということを理論化したわけですね。経済というものは、まあ、あなたがたも食べるでしょうが、一つのピザパイのようなものです。これに刻みを入れ、六等分や八等分にしてあると、「人が何人いたら一人に何切れ当たるか」ということが分かります。そして、マルクスの考え方は、「大資本家が、そのパイの大部分を取っている。例えば、八等分できるパイがあっても、大資本家が、八切れのうちの七切れを取って、労働者には一切れしかくれない。これは、けしからん。これが、労働者が貧しい理由である。大資本家から残りのパイを取り戻せ。一切れしかもらっていない労働者たちが集まって、労働組合による政治を行い、全員で、きちんと正しく配分しようじゃないか。大資本家には、八分の一以上は与)えないようにしようじゃないか」というものです。基本的には、そういう考えなんです。だから、マルクス主義には高度な累進課税があります。土地とか工場とか、こういう大きな生産手段が富の格差を生むからです。それから、マルクス主義では、相続をさせないようにするため、生産手段を国有化して個人には渡さないようにし、「国家が国民を公平に処遇する」という美名の下に政治体制が出来上がっています。 プロレタリアート独裁というかたちで、労働者が独裁する国家が生む平等な社会によって、最終ユートピアが出来上がる」と、まあ、こう考えるわけですね。ただ、「プロレタリアート独裁」という言葉はきれいだけれども、実際には、労働者は世界中にいるわけです。世界に何十億人もいる労働者たちに、どうやって独裁ができるんでしょうか。できるわけがありません。あるとしたら、そういう人たちが、不平不満を持っている相手をつるし上げるかたちでの独裁しかありえないですよね。「こいつが悪いことをした」と犯人を決めつけて、その人をギロチンにかける。絞首台に乗せる。電気椅子に座らせる。結局、共産党員という名のエリートが出てきて、それが支配する。中国に十三億人の国民がいたって、結局、七千万人ぐらいの共産党員が中国を支配している。しかも、七千万人もの人がいても、そのほとんどは下部の者であり、上位層にいるのは、ごく一部にすぎず、その一部の人たちが支配する。そこにあるのは、言論の統制、信教の自由の統制、思想・良心の自由の統制です。そして、反政府的な言論には、全部、統制をかけていきます。  そのように、実際には、マルクスが考えていたことと、ちょっと違うようになってきたのです。ただ、彼の思想自体には、要するに、「自分よりも成功した人は、みな悪人だ」と見る考えがあると思うんですね。真理の面において、やはり、間違っているところがあったと思うんです」

 マルクスの思想の原点は、自分が貧しくて事業に成功しなかったことの責任を、全部、外部に押しつける「自己弁護」であって、真理の面において、やはり間違っているところがあった。

 労働者が独裁する国家が生む平等な社会によって最終ユートピアが出来上がるとする、「プロレタリアート独裁」という言葉はきれいだけれども、実際には、労働者が不平不満を持っている相手をつるし上げるかたちでの独裁しかありえない。

 結局は、マルクスが考えていたことと違って、共産党員という名のごく一部のエリートが支配し、言論の統制、信教の自由の統制、思想・良心の自由の統制がなされる体制となってしまったのです。

「こういう人の思想を奉じる国が世界の半分にまで広がった」というのは大きなことだし、実際は、「奉じた」というよりは、「悪用した」ということでしょうね。マルクス主義の持っている弱点を悪用したわけです。どういう弱点であるか。マルクス主義では、今、言ったように、富を憎む思想を持っている人はたくさんいるから、大地主や貴族、大金持ちなどから金を巻き上げて、他の人たちに分配します。これは、ほとんど海賊や強盗のやり方ですよね。これを肯定したことがそうです。また、「革命の結果が正しければ、手段として暴力を使っても構わない。結果が良ければ、途中は構わない」という考え方も、銀行強盗の論理と同じですよね。例えば、「銀行強盗に入って人を殺しても、その金を教会に寄付したら、結果が良いので、それは良いことだ」と言うのと同じです。しかし、あなたがただって、そういう金は不浄な金と認めるでしょう? でも、マルクスは、手段としての暴力を肯定した。つまり、彼は、反対勢力を粛清したり、嫌な人たちを隔離し、強制収容所送りにしたりする理論の基礎をつくったわけです。これは、ソ連で現実に起きたことですよね。結局、多くの人々の歓心を買おうとすると、どうしても、本当は一部の人が操っているのに、その正体を隠して、多くの人々のためにやっているように見せながら、圧政を加えるようになります。そこには、「異質なものを排除していく」という思想が必ず出てくるんですね。そして、「それが、悪魔の道であり、地獄への道である」ということを分からない人が大勢いるわけです。だから、マルクスは、「今、繁栄しているつもりでいる民主主義の、いちばんの弱点を突いてきた」ということですね。マルクスの“発明”と言われているもののうち、その最大のものは、結局、「投票は一人一票だから、資本家対労働者なら、労働者のほうが投票数は多い。だから、民主主義制度があるかぎり、両者の力関係を引っ繰り返せる」ということです。マルクスは、ここに着目したんですね。そして、「プロレタリアートよ、団結せよ」と言ったわけです。その結果は何かというと、日本で言えば、今のJALですよ。労働組合が八つもあり、何兆円もの赤字をつくって、国の税金を投入しなくてはいけなくなりました。JALの社員たちは、そういう労働組合が会社を悪くしたなどとは思っていないだろうけれども、現実には、そうなっているわけですね。「多くの人にとって、いいことのように聞こえるものが、実はマイナスのことがある」ということですね」

 マルクスは、手段としての暴力を肯定したことで、反対勢力を粛清したり、嫌な人たちを隔離し、強制収容所送りにしたりする理論の基礎をつくってしまった。

 多くの人々の歓心を買おうとすると、本当は一部の人が操っているのに、その正体を隠して、多くの人々のためにやっているように見せながら圧政を加えるようになるのであり、これはソ連で現実に起きた。

 多くの人にとってよいことのように聞こえるものが、実はマイナスのことがあるのです。

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