カルマの清算

 人生の中で強いショックを受けるような出来事や深い葛藤のことを「カルマ」という。サンスクリット語で「行為」という意味で、「業」と訳される。これは仏教などでも説かれている。

 言葉の鋭い響きもあってか、このカルマを、前世に悪事を犯したことへの罰や、逃れられない宿命という意味にとらえることがあるが、必ずしもそうではない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『悟りの挑戦(上)』の中で以下のように説かれました。

「「業」(カルマ)という言葉は、聞くことがよくあると思います。結局、人間として生まれて、生きて、死んでいくまでの間につくってきた傾向性を「業」と言うのです。それは傾向性であるがゆえに、いったんできあがってしまうと、それに基づいて、新たな念いや新たな行動というものが起きてくるのです。みずからが生み出した魂の傾向性ではあるが、いったんできた以上、それに基づいて自分の念いや行動まで左右されていくようになります。そのようなもののことを「業」と言うのです。 は、「業」のところをあれこれと分析して、人間としての本当のあり方、生き方とはどういうものかを教えているのが宗教なのです。そして、宗教が道徳にとどまらないところは、来世との関わりにおいて今世の生き方を教えているところなのです。来世と今世との関係を説明しながら、人間の生き方を追究する、そこに宗教としての本来の姿があるわけです。これは、哲学や道徳、あるいは医学などでは教えてくれないところです。本来、宗教とは、そのような総合学であって、総合的な人間学であり、天地万物すべてのなかを生き抜いていく人間の生き方を教える学問でもあったわけなのです。「十二因縁(じゅうにいんねん)」という考え方は、仏教を学ぶ方は、必ずどこかで目にしたことがあるでしょうし、聞いたことがあるでしょう。十二個もあるので、たいていは覚えきれなくて四苦八苦するというのが普通のようです。確かに、覚えられないものだろうと思います。その理由は、もともと釈迦がつくったものではないからです。後世の研究熱心な弟子たちが、「もっと分析できないか、もっと分解できないか」と十二個まで増やしていったというのが真相なのです。」

 過去の行いや経験がその人の魂に刻まれたカルマとなり、心の傾向性、考え方や行動に枠をはめ、現在の幸・不幸を生み出しているという教えである。

 例えば、幼少時に親に愛されなかったり、日常的に暴力や叱責を受けていた場合、心の中に「自分は悪い子なんだ」「自分なんていないほうがいいんだ」という思いを何度も心に刻み込むことになる。逆に、誰かを傷つけた罪悪感が強く心に残っていると、「自分も傷つかねばならない」という気持ちを持つこともある。

 無意識にそうした自分に対する攻撃の心を持っていると、それが体に現れ、病気を作る原因となってしまう。人間の細胞は常に入れ替わっており、1年も経たないうちに全身の細胞はすべて新しい細胞になるが、それでも病気が続くということは、残念ながら無意識のうちに自分自身で病気の細胞をつくり続けているということになる。

 心の力で病気を治すためにもっとも大切なことは、「病気は自分で治せると信じる」ことです。そして、「人生は一冊の問題集である」ととらえることで、病気をきっかけに、自分の人生の意義や価値を見つけ、心の成長につなげることができます。

 病気を前向きにとらえた上で、過去の出来事やそのときの心境を振り返ります。「大きなショックを受けた出来事が病気の原因になりやすい」とも言われているので、例えば、暴力を振るわれたり、人に裏切られたり、受験で挫折したりといったショックだった出来事を順々に思い出してみるとよいでしょう。そこから自分の傾向性が見えてくることがあるはずです。もし、その中に自分を否定する思いがあれば、それが病気の原因となっている場合があります

 病気の原因となるカルマだが、実はそれを作ったのは今世の人生に限らない。私たちは「あの世」と「この世」を「転生輪廻」する存在であり、人間の本質は霊である。私たちは、生まれる前も死んだ後も、霊として生き続ける存在である。その転生輪廻の過程で、過去の人生で経験した大きな心の傷がカルマとなり、次に生まれる時に病気や困難として表れることがある。

 例えば、過去世で戦国時代に敵の足を刀で斬ったとする。相手がうめき苦しむところを見れば、敵だとはいえ心にショックを受けることでしょう。すると、あの世に還ってから自分を許せず、次の人生では自ら償いのために足の事故や障害を計画することがある。このように、相手を傷つけてしまった場合や自分が深く傷ついた経験がカルマとなることもあります。

 「自己反省」には想像以上にすごい力がある。大川隆法総裁は、著書『真実への目覚め』のなかで、「自分自身で自分の間違いに気づき、反省することによって、罪を消すことができます。心のなかの記録が変わっていくのです」と、反省の宗教的な意味について語られました。

 また、『心を癒す ストレス・フリーの幸福論』のなかでは、「『私が苦しんでいるのは、今世、私がこの世に命を享けた意味を教えるためのものです。私はそのことを受け入れます。主よ、御心にお任せします』という気持ちが大事なのです。受け入れたときに、浮力が湧いてきます。そのときに奇跡が訪れます」と、神仏の救いについても語られた。

 反省で自分の間違いを修正する「自力」と、神仏にすべてを委ねた時に臨む「他力」。この自力と他力の両方によって、医者には「治らない」と言われた病気が完治したり、飛躍的に症状が改善している。

 病気は偶然ではない。病気の「苦しみ」は、人生という一冊の問題集のなかで、本当に大切なものに気づくために、大きな意味を持っている。

 カルマが消滅する時期に差しかかると、長年苦しんできた憑依の苦しみから自動的に解放されるようになります。人によっては、本物のスピリチュアル・ヒーリングとの出会いが訪れるかもしれません。

 いかなる人も「因果応報」という神の摂理から逃れることはできません。すべてがカルマの法則の支配の中に存在しています。憑依によって精神病になるのも、スピリチュアル・ヒーリングによってその病気が治るのも、すべてこの「因果応報の摂理(カルマの法則)」のもとで展開していることなのです。

 過去世を変えることはできないし、生まれてから以降現在までの過去も変えることはできないが、現在から後は変えることができる。そして、それが来世以降の人生を決める。

 既に自分がなした悪や間違いに関しては、悔い改め、反省すること。そして、すでに播いた悪の種があったら、それが大きくならないように押しとどめること。さらには、善の種をいま播くこと。善きものをさらに育て、推し進めていくこと。これがカルマを清算するための、そして来世以降より良き人生を送っていくための秘訣である。

 大川隆法総裁は、著書『宗教選択の時代』の中で以下のように説かれました。

「昔話やおとぎ噺のように聞こえることもあるでしょうが、人間は実際に何度も何度も生まれ変わりをしています。そして、今回の人生の総決算が、結局は、来世でみなさんが、どういう立場でどういう人生を歩まれるか、ということのすべてにかかっているのです。今世、頭が悪いことを嘆いている方も大勢いると思います。それには二つの原因があります。一つは、前世で勉強しなかったことです。もう一つは、前世で頭が良すぎて、他人をばかにしすぎたことです。こういう原因によって、今世、頭が悪いことさえあります。それは、考えてみれば思いあたる方もいるかもしれません。このように、いろいろな経験が積み重なって、現在のみなさんがあるのです。それを知ってしまうと、次に、ではどうすればよいのかという問題になります。過去世そのものを変えることはできません。また、生まれてから現在までの何十年間の人生そのもの、すでに過ぎたものを変えることはできません。それは反省あるのみです。反省する以外に、もう手立てはありません。しかし、現在からのちは、まだ変えることができます。変更が可能なのです。残りの時間が長い人も短い人もいるでしょうが、しかし、現在からのちの時間は変えることができます。それが、来世以降のみなさんの人生を決めるのです。  来世、たとえば自分は、理想的なこういう環境のこういう人間になって、こういう幸福な生活を送りたいと思っても、今世持ち還った宿題がありますから、その宿題の部分は、来世の生まれ変わりのどこかに必ず出てくるのです。それから逃れることはできないのです。そこで、次の人生において、また同じような失敗をするというようなことが、くり返し起きてきます。その事実を知ったならば、みなさんにできることは、「現在ただいまの自分を変え、これからのちの人生を変えていくこと」、これしかないのです。そのためには、どうしたらよいのでしょうか。基本的には、すでに自分がなした悪、間違い、罪に関しては、やはり悔い改めること、反省することです。これしかありません。そして、すでに播いた悪の種があったら、これが大きくならないように押しとどめることが大事です。すでにそういう悪い種を播いた方がいるでしょう。しかし、その悪い種がまだ実ってはいない、ということもあるでしょう。すでに悪い習慣、悪い仕事、悪い考え方、悪い行動でもって、次なる悪の種を播いた方がいるはずですが、これが成長しないように押しとどめることは可能です。未来に生じないように、それを止めてしまうことです。さらには、善の種、善きことの種を、いま播くことが大事です。善きものが、自分や自分のまわりにすでに起きつつあるならば、これをさらに育てていくこと、推し進めていくことが大事なのです。ですから、すでに終わった過去の悪については、よく反省をすることです。そして、まだ現われてきてはいないけれども、悪い思いや行ないによって種を播いてしまい、将来的にそれが悪として出てくるようなことがあったら、それを押しとどめることです。そして、善なる種を播いたことによって、現在すでに現われてきつつある善は、さらにそれを推し進めることです。こうした努力が必要です。これが、みなさんのカルマといわれるものを清算するための、そして、より良き人生を、今世・来世・来々世と送っていくための秘訣なのです。」

 自分の環境や性格、肉体、能力の部分で、誰が見ても他の人と極端に違うときには、そこに人生の問題集を解く鍵がある。

 過去の転生でカルマをつくっていることもあるが、それを探ってもきりがない。過去世がどうであろうと、人間は、今回の人生を自分に与えられた問題集として捉え、その解答の努力をしなければならない。

 大川隆法総裁は、『心と体のほんとうの関係。』で次のように説かれました。

「自分の環境、あるいは性格的、肉体的、能力的な部分で、他の人と極端に違う部分があるときに、それを単に悩みの材料として見て、そこからの出口だけを探してはいけません。誰が見ても、明らかに悩みの材料と思われるもののなかに、実は、あなたの人生の問題集を解く鍵がある場合もあるのです。あなたの魂にとっては、「目が不自由である」ということが、何らかの進歩を促す材料なのです。足が動かない人、手のない人、目が見えない人、耳が聞こえない人など、現在、身体的な不自由を抱えている人はたくさんいます。そういう人たちのなかには、過去の転生において、何らかの肉体的なカルマをつくっている人もいます。私は、リーディング(霊査)をすれば、五千年でも一万年でも、それ以上でもさかのぼって、ある人の過去世を何代前まででも探れるのですが、それを一つひとつ探ったところで、きりがありません。過去世がどうであろうと、人間は、今回の人生を、自分に与えられた問題集として捉え、「その問題集に、どう答えていくか」ということを考えて、そのために努力しなくてはならないのですね。問題集は一人ひとり違います。ただ、その人にとって、魂の学習に合った問題集であることだけは事実です。問題から逃れることばかりを考え、「与えられた問題を解きたくない」と言うのではなく、その問題のなかに潜んでいる意味を発見してほしいのです。「目が不自由だ」というハンディがあっても、どれだけ、光った人生を生きられるか、それを工夫してほしいと思います。目の自由な人たちが見て、「あの人が、あんなに立派に生きられるのだったら、私も、もっと頑張らなくてはいけない」と思うようになれば、あなたの人生は成功です。体が不自由であっても、あの世に還ると、それは治ります。不自由なのは、この世にいる、ほんの何十年かのあいだだけです。地上では、そういう“配役”になっていても、そのなかに修行があるのです。他の人に迷惑をかけるかもしれませんが、お返しができることもあるはずです。「マイナスの面を考えずにプラスの面を見いだしていく」という努力をしてほしいのです。  肉の目は見えなくても、少なくとも“心の目”は見えるはずです。心の目でもって真理を見ていくことはできるはずです。そして、口が動くなら口で、耳が聞こえるなら耳で、何らかの「プラスの人生」を生み出せるはずです。それも、あなたに与えられた問題集なのです。どうか、今世において自力で解いてみてください。その問題集の模範解答は、あの世に還ったときに必ず示されます。なぜ、そういう修行をしたかということが必ず教えられますから、それまでのあいだは、とにかく、一生懸命、自分の問題集を解いていただきたいと思います。」

 

心には創造性があり心が病気をつくることもある

 人間は神仏と同じ性質を持っている存在です。その性質のひとつが「心の創造性」です。そのため、心に不調和な思いを持つと体調が悪くなったり、病巣を生んでしまうことがあります。逆に、心を正すことで病気を治すこともできるのです。

 

病気に過去世の影響も

 病気の原因をさらに深く探ると、過去世の影響がある場合もあります。例えば、過去世で他人を傷つけてしまった方が、今世(今回の人生)ではその償いのために、不自由な体で生きるという「人生計画」を自ら設定して生まれてくる場合もあります。また、過去世で煙に巻かれて亡くなった場合、今世、その苦しみが甦り、喘息や気管支炎など呼吸器系の病気が現れてしまうケースもあるのです。そのような霊的な原因をはっきりつかんだ時点で、病気が治る人も数多くいます。

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