明治維新は、江戸時代の教育システムを土台にした「多様な人材」が起こした

 明治の人材について、作家の司馬遼太郎は著書『「明治」という国家』の中で以下のように語られておられます。

 「薩摩の藩風は、物事の本質をおさえておおづかみに事をおこなう政治家や総司令官タイプを多く出しました。長州は、権力の操作が上手なのです。ですから官僚機構をつくり、動かしました。土佐は、官にながくはおらず、野にくだって自由民権運動をひろげました。佐賀は、そのなかにあって、着実に物事をやっていく人材を新政府に提供します。この多様さは、明治初期国家が、江戸日本からひきついだ最大の財産だったといえるでしょう」

 明治維新が起きた要因には、各藩が「独自の人材」を生み出したことにあるという。背景には、それぞれの藩が定めた方針に基づいた藩校を運営し、教育内容もバラバラだったことにある。その結果、百花繚乱のごとく、個性ある人材が輩出された。

 江戸時代の教育システムは、文科省の形式的で画一的な教育行政とは一線を画している。文教政策の自由化を進まないと、国家繁栄の礎となる人材を輩出するのは困難でしょう。

 

 自分が一日怠ければ、日本の進歩が一日遅れる

 さらに、明治時代のエリートの意識も、現代人とは異なるものであった。当時、海外に留学した人たちの日記を見ると、皆一様に、「自分が一日怠ければ、日本の進歩が一日遅れる」(日露戦争の英雄、秋山真之)というような言葉を綴っている。

 明治のエリートは、自分よりも、他者のために尽くすことを第一に考えていた。

 こうした自助努力や利他の思い、公共心を持った人々が、国家の中枢を支えたために、明治の近代化政策が成功したのです。教育に税金を投入すれば、すべてがうまくいくわけではない。現代の教育政策も、江戸時代や明治の時代の知恵から学ぶべきです。

 まさに、この点で、今の公立学校の児童生徒や保護者は、教師を選ぶ「選択の自由」を事実上奪われている(一部で学校選択制は始まっているが)。どんな教師に当たるかは子供の学校生活を左右する最大のファクターである。問題ある教師が担任になったら1年間逃げられないことの災難を知らない親はいない。

 ゆえに、国民は、自分や我が子が通いたい公立学校や教わりたい教師を選ぶことができ、場合によっては学校に行かないという選択も堂々とできる「教育選択の自由と権利」を、もっと保障されねばならない。教員の側にしても、近隣の公立や塾とのフェアな自由競争の中に身を置き、生徒に選ばれたり選ばれなかったりする厳しさのなかで、己れの実力を磨いてこそ、教師の本懐を遂げられるというものでしょう。

 民営化によって、教育に真の自由主義をもたらし、人材輩出面においても「自由からの繁栄」を実現すること時代の要請なのです。

参考

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