自殺をしてはいけない

 今世、ようやく生まれてきた。また生まれ変わりたくても、すぐには生まれてこれない。この世の人生は、せいぜい数十年であり、死ぬ時期はいずれ必ず来る。

 だから、残された持ち時間のなかで、逆転の努力をしてみる価値はある。同じチャンスは二度とないので、できるだけがんばってみるべきである。

 あまりに潔癖すぎて、罪をあまりに追及しすぎると、新しい大きな罪をつくってしまうこともある。人間の持つ不完全な部分(動物的な部分)を受け入れよ。

 会社の経営における失敗などは、よくあること。名誉やプライドで戦うのではなく、冷静になって対応の仕方を考えること。知恵を尽くして考えること。

 知恵が尽きたら、勇気も必要。自分も他人も許すための勇気を持たねばならない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『大悟の法』で以下のように説かれました。

「罪を許す力について、いろいろな角度から述べてきましたが、私が言いたいことをまとめるならば、次のようになります。この世の人生は長く生きても百二十年であり、たいていの人は数十年しか生きられません。そして、「また生まれ変わってこよう」と思っても、すぐに生まれ変わってくることはできません。今世も、お願いにお願いを重ねて、せっかく、この世に生まれてきたのですから、そんなに死に急ぐことはないのです。いずれは死ななければいけない身であり、死ぬ時期は必ず来るのです。そうである以上、残された持ち時間のなかで、逆転できないかどうか、努力してみる価値はあると思います。同じチャンスは二度とないので、できるだけ、がんばってみるべきです。そのためには、あまり完全主義的な傾向は持つべきではありません。人間の持つ不完全な部分、ある意味における動物性、動物的な部分を受け入れることです。自分にも他人にも動物的なところがあり、だからこそ、感情のままに流されて、怒ったり、嘆いたり、わめいたり、失敗したり、被害者意識を持ったり、攻撃したりすることがあるのです。人間には、そういう不完全な部分があり、不完全な部分があるからこそ、まだ修行が残っているのだということを知らなければいけません。「不完全さをも受け入れなさい」ということです。そして、罪というものをあまり追及しすぎると、さらに、新しい大きな罪をつくってしまうこともあります。あまりに潔癖すぎて、また大きな罪を犯すこともあるのです。会社の経営における失敗などは、よくあることです。ただ、そのときに、プライドが許さないため、引くに引けず、強気一点張りで、さらに破滅に向かっていく場合があるのです。その結果、自分のみならず、妻子まで犠牲になってしまうこともあります。しかし、それを避けることはできたはずなのです。したがって、名誉やプライドだけで戦うのではなく、冷静になって対応の仕方を考えることです。この世的な知恵で対応できるものは、知恵を尽くして考えるべきです。さらに、知恵が尽きたら、次は勇気も必要です。自分を許すにも勇気が要りますし、他人を許すにも勇気が要ります。その勇気を持たなければいけません」

 自殺したくなったら、みずから生命を絶つ前に、病院に行って闘病している入院患者たちの姿を見てほしい。次には、墓地へ行って並んでいるお墓を眺めてほしい。

 死んだ人々の墓を見て、「自分にまだ生命がある」ということの尊さを感じ、「残された生命を、どのように使わなければいけないか」ということを考えてほしい。

 焦らなくても、いずれは必ず死ぬので、「それまでのあいだを、どう生きるか」ということを考えてほしい。

 大川隆法総裁は、『生命(いのち)の法』、で以下のように説かれました。

「自殺の原因は、いろいろあるでしょう。その理由には、それなりに、もっともなところがあるだろうと思います。ただ、自殺した人と同じような状況に置かれた人は、ほかにもたくさんいるのです。「現在もおり、過去にもいたのだ」ということを知ってください。自殺したくなったら、どうか、一度、大病院にでも行って、闘病している入院患者たちの姿を見てください。病気をしても、まだ生きようとして頑張っている人たちや、その人を助けようと努力している医者や看護師たちの姿を見てください。あなたはピンピンしているでしょうが、病院で闘病しながら生きようとしている人たちの姿を見ていただきたいのです。自殺する人は、悩みは持っていますが、たいていの場合、エネルギーが余っています。生命エネルギー、活動エネルギーをたくさん持っているのに、悩みの解決がつかないために死んでしまうのです。病院へ行って、病気の人を見てください。ガンで、あと一カ月の生命、三カ月の生命という人が、どれほど、「生きたい」と思って頑張っているかを見てください。みずから生命を絶とうとする前に、重病でもまだ頑張っている人の姿を見てください。そして、大病院の次は墓地へ行ってください。普段は行かないでしょうが、どこかの霊園にでも行き、散歩してみてください。お墓がたくさんあり、「××家の墓」というものが、ずらりと並んでいます。それを眺めてください。そこに眠っている人たちも、かつては生きていました。子供時代があり、青春時代があり、恋をし、仕事をし、出世競争をして、敗れたり、あるいは目標を達成したりし、老い、病に罹り、そして死んだのです。誰もが、夢を抱いて、さまざまな努力をし、死んでいったわけです。死んで、あの世へ行けば、この世の悩みはなくなります。したがって、「悩みがある」ということは、生きている証拠なのです。この世に生きているから悩みがあるのであり、死んで、あの世に行ったら、その時点で、この世の悩みはなくなるのです。死んだ人々の墓を見て、「自分にまだ生命がある」ということの尊さを感じてください。「残された生命を、どのように使わなければいけないか」ということを考え、その生命の尊さを感じてください。自殺したくなったら、闘病している人の姿や死んだ人のお墓を見てください。百パーセント、人は死ぬことになっています。焦らなくても、いずれは必ず死ぬので、「それまでのあいだを、どう生きるか」ということを考えてください」
 

 自殺で残されてしまった遺族に、まずなにができるのでしょうか。

 これは、先祖供養のためのお教えとまったく同じ、ということになりそうです。つまり、本人が目覚めるように祈りつつ、日々、光に満ちた信仰生活をすること。その上で、命日やお彼岸などの節目ふしめに、幸福の科学の精舎や支部で、祈願などの供養をして差し上げること。

 総裁は、『永遠の生命の世界』で以下のように説かれました。

「「自殺霊は、原則、天上界に上がれない」というのは、ほんとうのことです。使命を全うできずして命を絶った場合には、たいてい、「天上界に上がれない」というよりも、むしろ、「地獄まで行かない」ということの多いのが事実です。彼らは、地獄に行かずに、この地上の、ある特定の空間、たとえば、自分が自殺した場所などにとどまります。つまり、地縛霊になることが多いのです。地縛霊にならないとしたら、たいてい、家族や親類などのところにやってきます。要するに、あの世行きができないのです。ただ、自殺した人はすべて天国に入れないかというと、そうではなく、例外があることは事実です。それでは、どういう条件を満たせば、やがて天国に行けるかというと、通常、二通りあります。一つは、「本人が自覚する。目覚める」ということです。本人が、あの世の世界のことが分かり、自分の間違いを詫びれば、時が来て、成仏することもあります。もう一つは、非常に幸運に恵まれ、その人を諭す人が現れてくる場合です。そういう人は、生きている身内から出てくることもありますし、生きている友達のなかにいることもあります。あるいは、本人が、過去に、功徳を積むような生き方をしたことがあったならば、今回は、たまたま、そういう死に方をしても、縁のあった人が天上界にいて、救いに来てくれることもあります」

 

自殺者の死後

 自殺者は、地獄もしくは地獄以前の段階にいることが多い。例外もあるが、この世からの逃避で自殺するような場合は、天国に行くことはほとんどないのです。

 総裁は、『大悟の法』で以下のように説かれました。

「答えは、「百パーセント、地獄へ行く」ということはなく、「地獄、もしくは地獄以前の段階にいることが多い」ということです。なかには地獄まで行っている人もいますが、地獄以前の段階で、自分が死んだことが分からずに、地上に執着して、地上の人と同じように生活している人や、あるいは、地縛霊となって、自分が死んだ場所などに漂っている人が、数多くいるのです。では、自殺者は絶対に天国に行けないのかといえば、そうでもありません。たとえば、歴史上の人物では、西郷隆盛も、自刃しているので、自殺は自殺でしょう。あるいは、乃木大将のような殉死も、やはり自殺でしょう。しかし、彼らは地獄へ行っているわけではありません。死んだ当時は苦しみがあったでしょうが、その後はきちんと天上界に還っており、神々の一人になっています。彼らが地獄に堕ちなかったのは、「生きていたときに、澄みきった心を持っていた」ということもあるでしょうし、「数多くの人から敬愛されていた」ということも大きかったと思います。そういう別種の原理が働く場合も、ないわけではないのです。しかし、たいていの場合、すなわち、この世からの逃避として自殺するような場合は、天国に行くことはまれであり、ほとんどないと考えてよいでしょう」

 あの世でも私たちは生きており、この世で苦しんでいた人は、死んだあとは、その苦しみが十倍、百倍になる。あの世で苦しみの世界へ行ったら、すべての時間が苦しみだけになる。

 この世に生まれてきたときには何も持っていなかったし、死んだあと、あの世に持って還れるものは心しかない。残りの人生において立て直しのできるところは立て直してから、あの世に還ろうと思わなくてはならない。

 どんなに経済的に苦しくても、名誉がなくても、プライドが潰れても、人生の出直しは可能である。この世での修行は、あの世での修行の十倍ぐらいの効果はあるから、この世で1年しっかり反省すれば、あの世で10年反省するぐらいの値打ちはある。

 総裁は、『神秘の法』で以下のように説かれました。

「死んでも死なない、生き通しの人生なのですから、あの世で天国に還りたかったら、この世にいるときから、天国にいる人たちと一緒に生活ができるような心境を持たなければいけません。それが天国に還るための条件です。天国に還れるかどうかは、「天国にいる人たちと同じような心境かどうか」ということをよく考えてみたら分かります。「追い詰められ、苦しんで死んだ人が、天国へ還れるかどうか」と、よく自問自答したほうがよいのです。自殺しようとする人たちに対して言わなくてはいけないのは、「とにかく、見栄やプライドの部分は、いったん脇に置きなさい。死んで、あの世に持って還れるものは、ほんとうに心しかないのだ」ということです。経済的に、どんなに苦しくても、名誉がなくても、プライドが潰れても、人生の出直しは可能です。いまは、ほんとうに食べ物がなくて飢え死にする人は、ほとんどいません。公園の浮浪者でさえ糖尿病になったりする時代です。「人生は、この世限り」と考えれば、「自分の人生は先がない」ということで、死にたくなることもあると思いますが、「生き通しの人生である」と知れば、そうはなりません。この世で苦しんでいた人は、死んだあとは、その苦しみが、十倍、百倍になります。逆に、この世で生きるなかで、天国的な楽しみを得ていた人は、あの世に還ると、十倍、百倍の喜びが湧いてきます。この世での思いが、あの世では増幅されるのです。あの世で苦しみの世界へ行ったら、この世で味わった苦しみは、もっともっと増幅され、そればかりになります。この世では、苦しみといっても、一日のうちに、苦しみの時間もあれば、それ以外の時間もあったでしょうが、あの世における、苦しみの世界では、すべての時間が苦しみだけになるのです。これは割が合いません。「この世に生まれてきたときには、何も持っていなかった。裸の赤ちゃんで生まれ、現在まで何十年か生きてきた」ということを考えたら、そして、「死んだあと、あの世に持って還れるものは心しかないのだ」という前提から考えたら、執着を捨て、よく自己反省をして、「残りの人生において、全部は無理かもしれないが、立て直しのできるところは立て直してから、あの世に還ろう」と思わなくてはなりません。この世は物質界なので、この世での修行は非常に重い修行であり、あの世での修行の十倍ぐらいの効果はあります。したがって、この世で、一年、しっかり反省すれば、あの世で、十年、反省するぐらいの値打ちはあるのです。苦しみの原因は、ほとんど、自我我欲というか、「自分中心」の世界観であり、また、おそらくは、「この世中心」の世界観です。要するに、「この世しかなく、自分しかない」という世界観です。そして、自分が生き難いがために、他の人を苦しめたり、自分の命を縮めたりするようになっているのでしょう。  したがって、この考え方を変えなくてはいけません」

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