ほんとうの死は心臓停止の後にやってくる
一方にはもうすぐ死ぬ人がいて、もう一方には臓器の移植を受ければまだ何年かは生きられるかもしれないという人がいるとき、「もうすぐ死ぬ人、数日以内で確実に死ぬ人の臓器を取って、まだ何年かは生きられるかもしれない人にそれを提供するのは、比較衡量からいっても、価値があるのではないか。長く生きられる人を優先するべきではないか」という考え方もあるだろうと思います。
もちろん、そうした考え方は充分ありうることですし、しかもそれが愛の思いから出たならば、一定の犠牲的行為として、評価できる面もないとは言えません。
しかし、脳死の状態においては、肉体と魂とはまだ分離していません。人間における死とは、「肉体からの魂の離脱」以外にはなく、これは、医学的死と宗教的死とに分けられるようなものではありません。肉体から魂が離脱することが死なのです。
なかには死後わずかの時間で離脱する人もいますが、たいていの人は、自分の肉体に執着しているため、肉体からなかなか離れようとはしません。
死後、2、3時間であれば、まだ肉体を出たり入ったりして、肉体に取りついている状態が普通です。
遺族が集まり、お通夜や葬式をして、本人に「あなたは死んだのだ」ということを自覚させ、肉体から魂を離脱させるという儀式が、古来から続いていることからも分かるように、通常、死後数時間から丸一日、魂は肉体の周辺に漂っていると言ってよいのです。
「シルバーコード」(霊子線)といって、魂と肉体をつなぐ、銀線のようなものがあります。これが切れたときが、正式な意味における死なのです。
これがつながっているかぎり、魂の意識と肉体の意識とは完全には切れていないため、ほんとうの意味においては、死を迎えていません。そのため、蘇生する可能性があります。しかし、シルバーコードが切れた段階で、再び生き返ることはできなくなります。
したがって、「肉体機能としての死においては、医者ではない素人にも認定できる心臓停止の段階が、医学的に死と認定されることが妥当ではないか」と考えていますが、ほんとうの意味における死は、心臓停止のしばらくあとにやってくるのです。
肉体における死の段階では、魂がまだ肉体から離脱しておらず、あの世から、先に亡くなった父母や祖父母、あるいは天使たちが迎えにきて、本人を説得するという状況がしばらく続いています。そのために、お通夜や葬式という儀式があるのだということです。
そうしたことを総合的に勘案すると、「臓器をもらえばまだ生きることができるという思いは分かるけれども、まだ死んでいない。
人の臓器を取ってまで生き延びようとするのは、やはり、生への執着ではないのか。それは一種の欲望、あるいは、この世的、唯物的な生存への執着ではないのか」と言わざるをえないと思います。
「この世でまだ生きたい」と思う人の執着と、「まだ死にたくない」という、脳死状態の人の執着とが重なるとき、ここで完全に憑依現象が起き、霊障の状態が発生するということを知っていただきたいと思います。
現在の日本のように、まだまだ唯物論がはびこっており、「霊もあの世もない。宗教はみな迷信で、でたらめである」というような論調が主流であるところにおいては、残念ながら、「愛の行為のようにも見える臓器提供であっても、ほんとうの意味において、救いにはなっていないことがある」ということを、知らなくてはならないのです。