人間機械論は間違い

 幸福の科学大川隆法総裁は、『仏の教えと時代性』で改正臓器移植法に関して次のように指摘しておられます。

「私も、幼い子供たちが新しい命を得て生き長らえ、社会で活躍できるようになること自体は、よいことであると思っています。ただ、人間機械論的な思想が定着したり、『どうせ死ぬのだから、臓器を取ってもよい』という安易な思想が流行ったりすることに対しては、強く反対しておきたいのです」

 私たち自身や家族が、移植でしか助からない病気になったら、あるいは脳死状態になったらどうするか。後悔しない判断をするためには、霊的真実を知ることが不可欠である。今、正しい霊的知識の普及と、霊界の存在を前提とした医学の進歩とが急がれている。

 大川隆法総裁は、『帰依の心』で不幸にも幼くして亡くなる子供やその家族の人生について以下のように説かれておられます。

「すべての人が自分の天命を読むことはできないから酷だとは思うが、その人の天命、使命があると思う」「合理的な範囲内で努力して変えられるものもあるが、大きな意味の天意があって、降りかかったものの中から、この世の修行課題を見抜いていかないといけない」

 霊的真実から言えば「脳死は人の死ではない」。この段階で臓器を取り出せば、あの世への旅立ちが妨げられてしまう。

 また、脳死臓器移植が許される条件があるとして、以下のように説かれました。

「最低限、あの世があり、人間の本質は霊的存在であるという仏教的な悟りを受け入れ、自己犠牲の観点から『私の寿命は尽きたので、移植される人を生かしたい』という場合だ。相手も感謝して受け入れれば、その人の病気がよくなることはある」

 改正臓器移植法のもと、家族の同意のみで脳死臓器移植への道が開かれたが、家族も医療者も、ともに脳死者の霊的真相を謙虚に受け止め、宗教的理解を深めることは大切です。

 脳死臓器移植を考えるにあたっては、臓器移植を待つ患者や家族はもちろん、亡くなった臓器提供者のあの世への旅立ちという点も考慮する必要がある。

 霊的に見て、人間の「死」とは魂と体をつなぐ「霊子線」が切れる時だが、脳死の段階では霊子線はつながっている。メスで切られると痛みを感じるし、臓器を取られる恐怖も感じる状態です。自分が死んだことが分からなければ、その苦しみであの世へと安らかに旅立てなくなり、臓器移植を受けた患者に取り憑いてしまうこともある。これが拒絶反応の霊的真相でもある。

 もちろん、本人が霊的な現実、を覚悟した上で、他の人を助けたいという動機で行う臓器移植は、愛の行為として成り立つ可能性もある。だが、霊的知識がなく、15歳未満で両親の承諾によって移植させられた場合、その驚愕と苦しみは想像を絶する。

 臓器を「物質」とだけ見て入れ替えるだけでは、患者の魂までは救うことができない。医療技術の進歩に合わせて、人間が死後どうなるのかについてもさらなる探究が必要です。

 現代医療は、脳死を人間の「死」と決めつけ、脳死状態の人間から臓器を摘出している。しかし、霊的に見た正しい人間の死とは、通常、呼吸が止まってから24時間後に魂と肉体をつないでいる「霊子線」が切れる時であり、脳死の段階では この霊子線はつながったままです。したがって、脳死の時点では魂と肉体は分離しておらず、本人の意識は、メスで切られる痛みや、臓器を取られる恐怖を感じている。

 このような霊的真実を考慮すれば、脳死の段階で臓器を摘出することは、まさしく「生きたまま」臓器を取っているのと同じことと言える。中国政府が行っているような残虐行為を、世界各国も「合法的」に行っているということです。

移植後の拒絶反応の真相

 もちろん、そのような霊的真実を知った上で、他の人を助けたいという思いで臓器移植に同意するのであれば、愛の行為として成立することもある。

 だが、そのような知識がないまま臓器移植が行われれば、臓器を摘出される痛みと恐怖によって、あの世への安らかな旅立ちが妨げられてしまう。

 臓器移植後、拒絶反応なども多数報告されているが、これは、臓器提供者の霊が臓器移植を受けた患者に取り憑いて起こっている面もある。

 中国政府による残虐行為に異を唱えるとともに、脳死状態での臓器移植が、実は生きたまま臓器を摘出する行為と変わりないという霊的真実を知る必要がある。

 臓器提供を望む人は、他の人の死によって初めて臓器を得ることができます。医療技術の発達が、そうした欲望を大きくしていることに問題があります。この点に関する日本の議論は、西洋の生命倫理学者が気づかない、多くの大事な視点を与えてくれており、注目に値します。

 「この世は仮の世である」という仏教的観点から、臓器の提供を受ける人の“執着”が問題ということでしょうか。

 問題は、デカルト以降の近代社会が、死はすべての消滅であるという幻想に支配されていることです。東洋の仏教は西洋の宗教に比べ、生と死に関する智慧をよりよく保ってきましたが、その智慧を拒絶したところに、生命への強い執着が起こってきます。現代人は、他人の臓器を取ったり、遺伝子を操作したりして、生命を引き延ばすことができますが、その結果、「死は医学の敗北」と考えられているのです。

 繰り返し手術を受けて臓器や組織を取り替えても構わないと考えるなら、人工的に作られた臓器は、確かに長い生命を与えてくれます。しかし、それが本当によい人生であったかどうかは、まったく別問題です。人間の幸福は、「この世の人生が永遠に続くものではない」と知ることで高められるものだと思います。

 大川隆法総裁は脳死臓器移植が許される条件があるとして、以下のように説かれました。

「最低限、あの世があり、人間の本質は霊的存在であるという仏教的な悟りを受け入れ、自己犠牲の観点から『私の寿命は尽きたので、移植される人を生かしたい』という場合だ。相手も感謝して受け入れれば、その人の病気がよくなることはある」

 改正臓器移植法のもと、家族の同意のみで脳死臓器移植への道が開かれたが、家族も医療者も、ともに脳死者の霊的真相を謙虚に受け止め、宗教的理解を深めることはとても大切です。

 心臓移植は脳死患者がドナーとなるが、幸福の科学の霊査では、脳死状態ではまだ人間は死んでいないことが明らかになっている。人間の魂は心臓が停止してから約24時間は肉体とつながっており、その間に臓器を取り出すと、本人の魂は非常な痛みと恐怖を感じ、あの世への穏やかな旅立ちを妨げられてしまう。また、心臓移植を受けた人の中には、手術の前後で人格が変わるケースが多く報告されているが、それはドナーの魂が移植を受けた人に憑依してしまったからである。人工心臓ならば こうした問題は起きなくなる。

 脳死移植をしなくても助かるようにするためには、iPS細胞を使った再生医療のように、自分の細胞から心臓をつくりだせるようになることも望ましい。それと並行して、この人工心臓が早期に実用化されることも大いに期待したい。

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