心臓移植は古代の宗教儀式の「復活」 

幸福の科学大川隆法総裁『永遠の生命の世界』より

 現代では医学が宗教にとってかわるようになり、「人の生死を判定するのが医学である。医学は万能であり、最高の知性が集まっていて、科学の最先端である」といううぬぼれが蔓延しているように、私には見えます。

 しかしながら、宗教家としての目から見たとき、現代の医学はそれほど進んだものであるようには思えません。

 これまで死の問題について述べてきましたが、その反対である人間の誕生を考えてみても、医学は魂と肉体の関係がまだ理解できていません。

 霊的に見ると、「妊娠後、満九週目に入ったとき、母親のお腹のなかに胎児の魂が入る」ということを、私は何度も目撃しました。満九週目になると、確実に魂が胎内に宿ります。その日時も特定できます。それからあとは魂と肉体の共存であって、それ以後の胎児を人工流産することが、一種の生命を奪う行為であることは間違いありません。

 しかし、現代の日本は”堕胎天国“であり、毎年、百万人もの胎児が人工流産されていますし、実態はその倍もあるのではないかとも言われています。これが、あの世からこの世への生まれ変わりを非常に阻害しており、霊界の混乱を引き起こしています。

 また、人工流産はこの世での人生計画にも大きなダメージを与えています。明確な人生計画を持って生まれてこようとしている者が、人工流産をされることによって、結婚を予定していた相手と結びつくことができなくなったり、予定していた職業での目的を断たれたりすることが数多く起きています。

 このように、いまの日本では、胎児に関して、百万人近い人工死が合法的に行なわれているのです。人間が生まれる段階において、平気で死を与えるのが日本の医療なのですから、「脳死体」と称し、まだ死んでいない人が死体扱いされることが、年に数千件ほど出たとしても、人口流産に比べるとまだ数は少なく、不思議なことではないのかもしれません。

 しかし、心臓移植に熱心な心臓外科医たちの姿を見ると、私にはあることが思い浮かびます。それは古代のマヤ文明の姿です。

 古代マヤには、「生きている人間の心臓をくり抜いて、神に捧げる」という儀式がありました。「数万人、あるいは数十万人もの人が、生きたまま心臓をくり抜かれ、その心臓が生贄として神に捧げられた」と聞いています。

 私には、「現代の心臓外科医の多くは、この古代マヤ文明の時代に、ナイフで人の心臓を何万もくり抜いたような人、そうした職業をしていた人が、生まれ変わってきているのではないか」という考えが浮かんできます。

 そして、「心臓移植は、最先端の科学というより、古代の宗教儀式に返っているのではないか。医学はまだまだ未開の状態にあるのではないか。肉体と魂との関係を解き明かせないかぎり、五割医療を超えることはまだできないのではないか」と思われるのです。

 人間は霊体においても痛みを感じることができます。病気の末期において点滴を受けつづけた人は、死んで霊体になってからも、その腕が注射針の痛さに苦しんでいるということを、多くの医者は知らないでしょう。ましてや、脳死状態で臓器を取り除くと、どれほどの痛みが霊体に宿るかということは、想像もつかないでしょう。

 みなさんは「現代の医学がまだまだ未開の状態にある」ということを知らなくてはなりません。

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