ヤハウェのもとなる中心的存在は、地球の裏側のレプタリアン系のエンリルです

 一つの宗教が起きるときに、中心的な指導霊となる神格を持った魂が一人であるのはよくあることです。それは他の神がいないということではない。多くの神がいなければ人類のすべてを幸福にすることはできない。数多くが役割分担をしており、それを取りまとめている神たちがいる。

 『旧約聖書』には、ヤハウェ と エロヒム(エル・カンターレ)という2人の神が出てくる。イスラム教の『コーラン』にも、アッラーの自称に指導霊団がいることが現われています。一神教といっても、ほんとうの一神ではないのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『霊的世界のほんとうの話』で以下のように説かれておられます。

「神が唯一であるならば、「自分のところに降りた神が本物であれば、ほかのところに降りる神は本物ではない」ということになります。これは、歴史上、人類の大きな憎しみと闘争を生んだ考え方です。一つの宗教が起きるときに、そのなかで中心的な指導霊となる、神格を持った魂が一人であることは、確かによくあることです。特定の人が中心的に指導していることがあります。そのため、「私の教えに基づいて行動しなさい」と言うことはあります。しかし、それは、「その人以外に他の神がいない」ということを意味してはいません。ほかにもいるのです。人類がこれだけの人口を持っているところを見ても分かるように、多くの神がいなければ、大勢の人たちを幸福にすることはできません。数多くの方々がいて、役割分担をしているのです。そして、それを取りまとめている人たちもいます。そのようになっており、その時代において、その地域において、「誰が担当して、その宗教を起こすか」ということが決まる場合がありますが、それは、同時に、「他の地域、他の国、他の民族に出た神が偽物であった」ということではないのです。例えば、一神教で有名なのは、もちろん、ユダヤ教でしょう。ヤハウェの神の一神教です。このヤハウェは妬む神であって、「自分以外の神を崇拝することは許さない」と言っています。しかし、このユダヤの神がほんとうの一神か、神は一つなのかというと、『旧約聖書』を読んでみると、そうではないことがはっきりしています。旧約に出てくる神には、ヤハウェと、もう一つ、エロヒムという神がいます。これはヤハウェとは違った神なのです。ヤハウェというのは、エンリルと呼ばれている神です。一方、エロヒムとして旧約に出てくるのはエル・カンターレなのです。この両者が指導しているのです。したがって、『旧約聖書』に載っているだけでも、早くも二人の神が出てきていて、一神ではないのです。同じく一神教としては、イスラム教もそうでしょう。『コーラン』は、終始、アッラー神を讚えた内容で出来上がっていますが、マホメットは、このアッラーの言葉を霊のかたちで伝えているのです。そして、面白いことには、アッラーが自分のことを言うときに、「われは」と言うだけではなく、「われわれは」と複数形で言っているところが、何回も出てくるのです。「われは」と出たり、「われわれは」と出たりして、複数形が何度も何度も出てきます。それに対して、アラブの人たちは、よく分からないので、「われわれは」というのもアッラーの自称なのだと考えているのです。しかし、この「われわれは」というのは、指導霊団がいることを意味しているわけです。アッラーといっても、代表で出ているのがその霊人であり、それ以外にも指導霊がいて、交替でいろいろな指導をしていることを意味しているのです。それが真相です。したがって、一神教といっても、ほんとうの一神ではないのです。たとえ主たる担当者が一つの霊存在であるとしても、指導霊は、その霊だけではありません。」

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