避難路をまちづくりに埋め込む

 岩手県の釜石市は、東日本大震災に限らず過去何回も津波の被害に遭ってきました。明治29年、この地域を襲った大津波においては、多くの人が逃げる場所が分からず犠牲になりました。そこで、地域の方々は、海から山に向かって垂直に延びる道をつくり、住民がどこに逃げればよいのかを分かりやすくしました。昭和8年にも、再び大きな津波が来ました。その後の復興では、海から山に向かう道が広く整備され、避難経路としてのイメージが強くなりました。

 さらに、第二次世界大戦中の昭和20年には連合軍による艦砲射撃を受けました。その後の復興では、山への避難道の始点と終点に広場や官公庁が置かれ、市民が親しみや誇りを持てるシンボルロードになりました。

 これらの道は、市民の日々の暮らしの中で重要な避難路であることが認識されていて、防災看板などにも表記されています。また、道を山に向かって上り詰めると古い住宅地があり、そこでは被災して逃げてきた人々に部屋を提供し、次の住みかが見つかるまで助け合うという文化が継承されています。

 この地域の歴史を紐解くと、行政と市民に無意識に共有された「まちづくりに、分かりやすい避難路を組み込む」という大きな「普遍のテーマ」が浮かび上がってくるのです。

 例えば、こうしたテーマを無視してまちづくりをすれば、後世の人たちが価値ある物語を受け継ぎ、発展させることができなくなるわけです。

 

「安政の大地震」から紡ぎあげる広川町のストーリー

 和歌山県・広川町の場合、どのような「普遍のテーマ」と「地域コンテクスト」があるでしょうか。

 この地域は江戸時代に起きた「安政の大地震」の際、「安政南海地震津波」に襲われました。その時、地域を救った人物として、濱口梧陵という地元の名士がいます。彼は、海の水が引いていくのを高台の上から見ていて、津波が来ることを察知しました。しかし、村人たちはお祭りに夢中で、そのことに気づいていません。そこで、刈り取ったばかりの稲むら(稲の束)に火を放ち、高台の家で火事が起こったと見せかけました。それを見て、火事を消し止めようと大慌てで駆け付けた人々を津波から救ったのです。この話は「稲村の火」と呼ばれ、防災教育の教材としても取り上げられてきました。濱口は、津波が引いた後も、復興事業を先導しているのです。それが「広村堤防」の建設でした。彼はその建設事業に津波で全てを流され路頭に迷っている人たちを参加させ、自分の私財から給料を払いました。さらに、この堤防には独創的な維持方法があります。堤防は土でできているため、草が生えたり雨風にさらされると崩れてしまいます。そこで、先人たちは、櫨(ハゼ)の木を植えて、実から採れる木蝋でロウソクをつくり、それを売って修繕費用に当てました。また、行楽日和には花見を楽しみました。それによって土が押し固められて堤防が頑丈になるという工夫です。

 その後、この地域を津波が襲ったのは昭和南海地震の時。堤防の無いところで犠牲者は出てしまいましたが、この堤防のある村の中心部は津波の直撃を防ぐことができました。

 しかし、数十年以内に発生が予想されている南海トラフ地震では、この広村堤防の10メートル以上の高さの津波が越流すると予測されています。

 そうした中で、濱口梧陵の精神を受け継いで今進めているのが「井戸探し・井戸づくりワークショップ」というものです。かつてこの地域では各家や農地に井戸がありました。今は使われておらず、どこに井戸があるのか分からない人も増えています。しかし、震災が起きれば、ライフラインが全て断たれてしまします。そのような時に、この水脈の近くに避難できるようにしたり、そもそもこの水脈に沿って住宅や施設が並んでいたりすれば、多くの人の暮らしの復旧に役立てることができます。そこで、昔のことを覚えている地域の方々を集めて、「どこから水が出たか」「水質はどうだったか」「水の量は・・・」といった記憶を街の模型にプロットして、水脈を読み解きます。そして、水脈に基づいて「どこに防災井戸をつくろうか」「津波に備えて、街を移転するならどこがいいか」といったビジョンを話し合うのです。

 人々が事前に街を良くしたいというポジティブな気持ちやビジョンを共有しておくことで、「まちづくりに必要なら、快くうちの土地を使ってもらおう」という人が現れるなど、都市計画につきまとう「土地の所有と利用の分離」といった課題がスムーズに解決する可能性もあるのです。

 こうした「行政などが一方的に考えるのではなく、皆で知恵を出し合ってまちの姿を考える」というのは、濱口梧陵のまちづくりの考え方を発展させたものです。現代のまちづくりに過去のテーマを受け継ぐことで、地域コンテクストを紡いでいくことができるのです。

参考

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