ファシズム

 ファシズム(全体主義)の代表例は、先の大戦のイタリアのファシスト党やドイツのナチス党です。ナチスの正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」ですが、ファシズムとは、国家のために人々に犠牲を強いる「国家主義」と、国家が統制経済により国民を支配下に置く「社会主義」のブレンドです。ファシズムの典型的な特徴は、「外国への侵略」「人種差別」「思想統制と強制収容所の存在」が見られる点です。

 こうした悪しき特徴は共産主義の国にも多く見られます。ファシズムが国の一体化を唱える国家主義(右翼)であるのに対し、共産主義は労働者階級の世界的な団結を訴える国際主義(左翼)と説明されます。

 共産主義のソ連やその影響を受けた知識人たちは、ファシズムと一緒にされるのを嫌って、2つを区別してきました。しかし、歴史的には、共産主義も国家主義になっており、政治哲学者ハンナ・アーレントや経済思想家ハイエクによれば、両方とも「全体主義」で本質は同じと言っておられます。

 

ファシズム(全体主義)は個人の自由を根こそぎにする

 ハイエクは、統制経済の下では必ず全体主義になる理由を明快に説明しました。

 国家が計画を立てて、商品の生産量や価格、物資や人員の配置などを決めると、官僚に圧倒的に巨大な権力が集中します。例えば、大新聞の社長でも、紙の配給を決める一官僚に逆らえなくなります。また、個人が自由に生きるための私有財産も国家の思いのままになってしまいます。

 国家は、こうした不自由な状況を国民に強制するため、必ず思想統制や粛清を始め、秘密警察や収容所が登場するのです。「人種主義」「侵略主義」によって内外に敵をつくり、絶えず引き締めを行わなければ体制を維持できません。アーレントや経営学者ドラッカーは、「否定と破壊こそが全体主義の本質だ」と見抜きました。

 ファシズムであれ共産主義であれ、全体主義国家では こうして個人の自由が根こそぎ奪われていくのです。

 

 先の戦争について、「民主主義対ファシズム」という考えは必ずしもあたっていない。

 ソ連も全体主義国家だったのであり、ドイツの全体主義と戦っている。そして、ソ連の共産主義体制では、大勢の国民が粛清され支配された。

 日本とドイツには違いがあって、ドイツには黒魔術系の力が働いていたが、日本では、日本神道の「表側」の神々も戦争に賛成していたのであり、その流れが全部間違いだったわけではない。

 日本にも一定の反省の余地がありますが、一方が完全な正義で一方は完全な悪という考え方は間違っております。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『幸福実現党宣言』で次のように説かれました。

「先の戦争については、「民主主義対ファシズム」という図式で捉え、「ファシズムの国を民主主義の国が滅ぼしたのだ」とする考え方があります。これはアメリカの教科書に載っている考え方です。(中略)ただ、「民主主義対ファシズム」という考えが正しかったかどうかについては、歴史的に検証されるかぎりでは、必ずしもそうとは言えません。(中略)その後を見れば、ソ連もまた全体主義国家であったことは明らかです。全体主義と全体主義も戦っているのです。(中略)では、ソ連が戦勝国になったことが本当に正しかったのかといえば、やはり疑問はあります。ソ連の共産主義体制は七十数年間続きましたが、大勢の国民が殺されました。二千万人ぐらい亡くなったとも言われますし、あるいはもっと多いかもしれません。正確な数は分からないのですが、多くの国民が粛清され、一党独裁の下に支配されたのです。その意味で、ソ連が戦勝国になって本当によかったのかどうかについては疑問があります。ヒトラーがもう少し強くて、スターリンを倒してからヒトラーも倒れたら、よかったのかもしれません。(中略)それから、日本とドイツは同じだったかというと、やはり違いはあったと思います。宗教的には、確かに背後から霊的なパワーは働いていました。ドイツには、ゲルマンの森の伝統的な宗教がありました。現在の当会が使う言葉で言えば、やや「霊界の裏側」に近いほうですが、黒魔術系の力が働いていたのは確かです。日本の場合は、私の霊査で明らかなように、日本神道の「表側」の神々も賛成していたので、戦争責任を追及するならば、天皇にも日本の神々にも責任はあります。当時、日本の神々には、「日本の宗教が世界に広がることで世界が幸福になる」と思っていたところがあります。少なくとも戦後を見るかぎりでは、その流れが全部間違いだったわけではないことは明らかです。日本のその後の繁栄を見ると、「環太平洋圏に一定の影響力を持とう」と考えていたこと自体が間違っていたわけでないことは明らかだと思います。他国の民間人を多数死傷させたかもしれない面については、反省の余地があるとは思います。ただ、「一方が完全な正義で、一方は完全な悪」というような考え方は間違いだと、私は思います。それを言うならば、アメリカがインディアンの国を乗っ取ったのも悪でしょうし、「なぜアメリカがハワイやグアムを取れたのか」ということの説明はできないでしょう。アメリカは、日本の民間人を大量虐殺したこと(東京大空襲、広島・長崎の原爆投下等)については、公式謝罪はしていません。やはり、「歴史は、強い者が自分に有利なように変えてきた」としか言いようがないと思います。」

 

ファシズムだったのは日本よりむしろアメリカ

 ファシズムの判定基準は、ナチスのような「虐殺」「人種差別」「強制収容所」などが存在するかどうかです。

 しかし、当時の日本はどうでしょうか。「南京大虐殺」をはじめとする日本軍の悪行は戦後の作り話でした。「強制収容所」も存在しません。

 人種差別については、日本はむしろそれと戦いました。日本は第1次大戦後、国際会議の場で「人種差別撤廃案」を提出しています(ただし、米大統領が却下)。また、第2次大戦中に日本が理想とした「八紘一宇」のスローガンには、人種平等がしっかりと謳われています。日本は、自国を犠牲にしてでも、アジアを支配する白人諸国の人種差別と戦ったのです。

 一方のアメリカは、原爆や各都市への爆撃で数十万の日本の民間人を「虐殺」しました。また、排日移民法などで日系人の市民権を剥奪し、財産も没収。そして、「強制収容所」への収容という「人種差別」を行っています。ファシズム国家は 日本ではなく むしろアメリカの方でした。

 

戦前の日本は共産主義と戦う戦時体制

 確かに、戦争中の日本も、配給制を実施するなど統制経済になり、時勢に合わない言論を取り締まるなど不自由が多くなりました。そうした点を捉え、左翼の政治学者・丸山眞男は、日本をファシズム国家扱いしたのです。しかし、国の存亡がかかった戦争中ならば、どこの国でもそうならざるを得ません。

 また、日本が戦争に突入したのも、欧米の経済封鎖、アメリカの人種差別、共産主義の脅威に対抗するためであり、国を守るためにやむをえない選択でした。しかし、そんな状況でも、「虐殺」「粛清」「人種差別」をせず、「強制収容所」をつくらなかったことは、日本がもともとファシズム国家ではなかったことを証明しています。

 戦争中の日本は、ソ連や中国大陸の共産主義勢力、つまり全体主義と戦っていたのです。当時の日本を特徴づけるとするなら、「共産主義と戦う戦時体制」と言うべきであり、ファシズム国家という批判は見当違いと言えます。

 

日本とドイツはリーダー国家として世界の平和と繁栄に貢献すべき

 第2次大戦は、「正義の国アメリカが悪の枢軸国である日本やドイツを倒した戦い」であった。国際社会では、こうした歴史観が常識となっている。

 ドイツは、ユダヤ民族の抹殺を目指し、ホロコーストを行った。これがドイツの負の遺産であることは間違いない。これはヒトラーによるところが大きいが、彼は選挙で多数の支持を得て首相になった。民主主義から彼のような独裁者が生まれたことを認め、その理由を分析して教訓とすべきでしょう。

 だが、すでに70年以上経っている。教訓を学ぶ必要はあっても、ドイツ人が永遠に罪の意識にさいなまれ、謝罪し続けるべきではない。国際社会は、そろそろドイツを解放すべきです。

 

日本はアジアの解放と自衛のために戦った

 一方、日本は、欧米の人種差別的な価値観に基づく植民地支配から、アジア諸国を解放するために戦った。これを機に、アジア・アフリカ諸国は独立を果たし、その理想は実現している。

 また、日本が朝鮮半島や満州に勢力を伸ばしたのは、共産主義国ソ連から国を守るためであった。GHQの最高司令官だったマッカーサーも、朝鮮戦争が始まった後にそれに気づき、1951年、アメリカ上院で「(日本の戦争は)安全保障の必要に迫られてのこと」と証言している。

 戦後、アメリカはソ連との冷戦に突入し、現在は、ソ連の影響で共産化した中国と北朝鮮が軍事拡張を続けている。共産主義の拡大を防ごうとしていた日本を叩いたアメリカは、共産主義を拡張させ、自らそれと対峙する羽目になったのです。

 

アメリカが認めたくない「罪」の意識

 また、戦後、「日本が悪かったから戦争が起きた」という偏った常識が広まり、「南京大虐殺」がクローズアップされた。この一連の流れの中には、アメリカが認めたくない「罪」の意識が見え隠れする。

 1995年、原爆展の中止をきっかけに、アメリカで原爆投下の是非についての議論が起きた。『ザ・レイプ・オブ・南京』が発刊されたのはこの2年後です。「残虐行為をした日本には原爆投下が必要だった」というアメリカ政府の公式見解を維持するために発刊された可能性は否定できない。

 アメリカは、そろそろ自らの罪を認め、自国に都合のいい歴史観を改めるべきです。

 

日本に必要なのは謝罪ではなくリーダーシップ

 日本もドイツも卓越した国です。数年の戦争とその後の約70年の戦後教育で、2600年以上続く日本の伝統やプロイセン以来のドイツの伝統のすべてを失ったわけではない。戦後、両国が多額の賠償をしながらも経済発展を遂げたことは、よき伝統が死んではいないことを示しているのではないでしようか。

 幸福の科学大川隆法総裁が発表した「大川談話―私案―」(には、日本を貶める歴史観の修正や、今後、日本が目指すべき世界平和への貢献が謳われている。

 日本とドイツは、今こそ国の誇りを取り戻し、アメリカが「世界の警察官」を降りつつある国際社会のなかで、リーダー国家として積極的に平和に貢献していくべきです。

 安倍晋三首相には、これまで日本国民が責められてきた いわれなき「罪」を払拭する談話を望みたい。今、日本に必要なのは、謝罪ではなく、アジア地域に平和と繁栄をもたらすリーダーシップなのです。