人間の肉体は魂にとっての「器」である

 西洋医学は、唯物論のほうに傾いていると言わざるを得ないところがあると思われます。哲学的には、デカルトやカントの流れがさらに純粋化してきて、肉体的なことと精神的なことを切り離してきた流れが科学として残って、そういうふうになってきているところがあります。

 ただ、「事実がどうであるか」ということは大事なことです。「魂と肉体を融合したもの」が人間なのです。

 人間は、魂と肉体が合体して存在する。たとえて言えば、いくら卵が自分に中身があることを信じていなくて、「私は殻だけであって、中身はないのです。外側の殻だけが卵です」と言っていたとしても、やはり中に入っているものがあってこそ卵なのです。殻を否定しているわけでもありませんし、中身だけで卵が存在できるわけでもありません。器がなくて魂だけではこの世で修行ができないし、肉体だけで中身の霊がなかったら修行になりません。そういう存在であるということが事実なので、唯物論は片方だけ見ているということです。

 もちろん、唯物論的に攻めていって成果を上げている医療もあることはある。この世的に研究して、薬なり、治療法なり、有効で成果を上げているものについては、それなりの神のご加護はある。ただ、それによって、霊的なるものを完全に否定する方向に物事が行ってはいけないのです。医学系の人は唯物論的になりがちではあるのですが、医学よりも科学として純粋な物理学系統、最先端の物理学になってくると、信仰の世界と変わらなくなってきています。神様を信じている人が多くなってくるのです。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『永遠の法』の中で以下のように説かれました。

「肉体から霊への移行は、せみが皮を脱いで羽化登仙するようなものです。何年ものあいだ地下で眠っていたせみの幼虫が、やがて木に登って幹の途中で止まり、殻を脱いで羽を出し、大空を飛びまわるこうしたものによく似ています。また、葉の上をはっていた醜い青虫が、いつのまにか蛹(さなぎ)になり、やがて紋白蝶や揚羽蝶になるのを見ることもあります。青虫が蛹になり、やがて蝶になっていく姿は、実は、人間の転生輪廻の姿を教えんがために、仏が創ったものなのです。そのように姿を変えながら人間は進化しているのです。なぜ青虫が蝶になるのか不思議でしょうが、仏がそのように創ったのは事実であって、誰も否定できません。何十本もの短い足を持ち、体をくねらせながら葉の上を歩きまわり、醜い顔をして葉を食んでいたものが、いつかしら羽を生やして大空を飛びまわる姿は、人間の霊的進化を暗示しているのです。そのような姿を、なぜ仏は創ったのでしょうか。結局、そこには仏の慈悲が働いているのです。蝶が蝶として、最初から大空を飛びまわってもいいのですが、それ以前の段階で、地の上をはうという不自由な生活をすることで、大空を飛ぶことがどれほど素晴らしいか、その生きがいというものを、仏は人間に教えているのです。同じように、肉体という不自由なものに宿って生活している人間も、やがてそれを脱ぎ捨てることによって、本来の霊的な姿が出てきます。そのときに、人間は自分の素晴らしさを数倍も数十倍も感じていくのです。地上においては、思ったことがなかなか実現しないために、人間は焦りや疲労、無力感を感じます。しかし、あの世は思ったことがすぐ実現する世界です。人間はその素晴らしさに気づき、「こんなことは地上ではなかった。これは何十倍も素晴らしいことだ」と感じるのです。こうした素晴らしい霊的進化への道こそ、仏が用意した、あの世とこの世のしくみなのです。なぜなら、こうした脱皮、次なる段階への昇華がなければ、ほんとうの意味での幸せを感じ取ることができないからです。霊的であるとは、仏の本質と同じ本質を持っているということです。仏の本質と同じ本質を持っていることを、各人が実体験として味わうことができるのです。これは素晴らしいことです。こうした素晴らしい世界のなかに、みなさんは生きているのです。」

霊肉の関係

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