知の原理

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 二番目の「知」とは、仏の心、仏法真理を知るということです。  

 「知の原理」とは、「霊的実相、仏法真理を知る」ということです。物事を知るためには、まず、学ぶことが必要です。仏法真理は、真理の書籍や法話のCDなどから学ばなければ、その内容を手に入れることはできません。この世的な書籍などから仏法真理の知識を得ることはできないのです。なぜなら、仏法真理は、仏神からストレートに出てきているものだからです。  仏法真理を学ぶことによって、みなさんは心の栄養を得ることができるのです。活字や音声を通じてではありますが、そこに、仏神の存在、仏神の臨在を感じることでしょう。幸福の科学の信者であれば、当会の精舎や支部で、研修を受けたり法話を聴いたりしているときに、体のなかに暖かいものが入ってくる経験をすることがあるでしょう。それが一つの実証です。それまで、寒く、辛く、苦しい人生を生きてきたけれども、真理を悟って信仰に目覚め、そして、反省や祈りをしたり、教学をしたりしているときなどに、暖かいものが胸のなかにサーッと入ってきて体が温かくなり、顔に赤みが差す経験をした人は数多くいるはずです。それが、仏の光、神の光であり、光の天使の世界からくる光なのです。こういう実証の機会は各人に与えられています。暖かい光を感じるようになれば、みなさんは、みずからの守護・指導霊と同通する入り口に立ったと言ってよいのです。その入り口に立つためには、やはり、真理を知り、迷妄を打ち破り、目から鱗を落として、脱皮しなければいけません。「知る」ということは力です。知ることによって人生を変えることができるのです。これが知の原理です。

(生命の法より)

 もちろん、それ以外の、いわゆる一般的な知の世界の原理、限りなく広がっていく学問の世界、情報の世界をも見据えた原理も含んでいます。しかし、本当の「智慧」とは、この世もあの世も貫く「智」、すなわち「叡智」であり、「宇宙と一体となる」「仏や神と一体となる」という、崇高な存在と交流する部分を含んだ「知」なのです。そして、この「知」は、古来より人類が求めてきた「悟り」と呼ばれるものでもあるのです。この「知」は、自己満足するための知ではなく、より多くの人びとを愛するための知であります。仏の心を知り、真理を学び、認識力を高め、そしてより多くの人びとの幸福に貢献していくことこそ、人間としてまた幸福なことであるのです。

 真理の知識を学ぶことによって、仏の心、仏の創られた法則を知るということです。この世とあの世を貫く深遠なる真理を知るということです。仏の教えを学び高度な認識力を得るということなのです。そして、人間の本質を知るということです。しかし、これだけは知っていてほしい「知=悟り」があります。勿論、「悟り」というものは限りない高みがありますが、まず最初に知っていただいきたいことは、人間が仏によって創造された仏子(仏の子)である霊的な存在という悟りであります。  悟りとは、自分の仏性を発見することであり、仏性を顕現することであるのです。 それは、人間は仏子(仏の子)であり、永遠の魂を与えられた霊的な存在であり、肉体はあくまで魂の乗り物で、この世とあの世を転生輪廻しながら、仏性を磨くために魂修行をしている存在であるということ、そして、この世での思いと行いの総決算によって、あの世での天国と地獄が分かれるとうことです。肉体は魂の乗り物であって、仏性(仏の子としての性質)を輝かすために、あの世とこの世を転生輪廻している存在であって、あの世こそ魂の本来の住処であるのです。  最低限の悟りとしてこの「霊的人生観」を悟っていただきたいと思います。次に知っていただきたいことは、霊的な生き方にも善なる生き方、悪なる生き方の二つがあり、その結果、死後の天国地獄を分けるということです。  

 そして、天国的な生き方をするには、「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」の心の三毒に沿って心をよくコントロールすることが大事であり、これによって初級レベルの悟りが得られるのです。善悪のチェック基準は心の三毒「貪瞋癡」であり、「貪」とは、分不相応な欲望を持っていないかということ、「瞋」とは動物的、本能的に怒っていないか、「癡」とは、仏法真理に則って生きているかということです。  分不相応な欲望、怒り、それから無知(愚かさ)、この三つと闘って克服することで悟りの第一歩を掴むことができるのです。真理を学び、自らの欲望をコントロールすることによって、人生の荒波を乗り越えるための不動心を養うことができます。そして信仰心を持って更なる精進を進めていくことができるのです。人生は縁起の理法、原因結果の法則で出来上がっていることを知ることができます。

 また、「知は力なり」と言われるように、「霊的人生観」「与える愛」「苦難・困難は魂を磨く砥石である」という真理を知るだけでも、悩みや苦しみに対する考え方が変わり、自分の悩みや問題も自分で解決することができるのです。さらに、知識として学んだ仏法真理を、家庭や職場で実践し、経験を通した「智慧」に変えていくことで、人生の悩みを解決し、さらには他の人の悩みや問題も解決の手助けをできるようにもなり、ユートピアへの貢献もできるようになってくるのです。

 現代は偉大な情報社会で、人々の知的レベルも最高度に高くなっている時代であって、魂の転生輪廻の過程においては、今回ほどほんとうの意味の真理を徹底的に学べるチャンスはない。 

 「知の原理」の出発点としては、「仏法真理の知識を学ぶ」ということである。同時に、それを単に知識として得るだけではなく、その知識を、悟り・伝道・職場や生活の実体験などを踏まえて「智慧」に変えていくということである。

 仏法真理は広大なものであるが、各人の「人生の問題集」を解く場合に必要な真理知識があるので、それを実践に生かしながら体得し、「智慧」に変え積み重ねていくことが大切です。

 幸福の科学大川隆法総裁は、著書『幸福の法』の中で以下のように説かれました。

「現代は偉大な情報社会でもあるので、みなさんの魂の転生輪廻の過程においては、今回ほど、よく勉強できる時期は、おそらくないだろうと思います。今回ほど勉強できるチャンスはないでしょう。本も数多く出ていますし、学習教材も非常に発達していて、人々の知的レベルも最高度に高くなっています。これほどまでに、マスインテリというか、秀才が集団で大量に出てくるような時代はなかったはずです。そういう意味では、「現代人は、昔の時代で言えば、神のような知識を持っている。あるいは、持つチャンスが与えられている」と言えます。こういう時期なので、ほんとうの意味での真理というものを徹底的に学んでいただきたいと思います。そこで、知の原理をあえて挙げたのです。

 この知の原理の内容は、出発点としては、もちろん、「仏法真理の知識を学ぶ」ということなのですが、同時に、「それを単に知識として得るだけではなく、その知識を、悟りの実体験や伝道の実体験、あるいは、職場での実体験、生活の実体験などを踏まえて、智慧に変えていく」ということなのです。仏法真理は、知識としては幾らでも得ることは可能であり、私は、いろいろな人に通用するように、いろいろな知識を出してありますが、そのなかで、みなさんの人生の問題集を解くための知識には、やはり一定の偏りがあるだろうと思います。何らかの偏りがあり、特に愛のところに問題がある人もいれば、ほかのところに問題がある人もいるだろうと思います。各人の人生の問題集を解く場合には、一定の方向性があり、その中心に、必要な真理知識があると思うのです。それを、実践に生かしながら体得していくことが大切です。自分自身で、「なるほど、こうすればよかったのか。これで迷いは吹っ切れるのだ。これで悩みは切れるのだ。これで解脱することができるのだ」という、小さな悟り、いわゆる「小悟」を得ることです。「小悟、限りなし」であり、毎日毎日、あるいは、一週間に一回か、一カ月に一回ぐらいは、何らかの悟りはあると思うので、そういう悟りを積み重ねていくことが大事です。そのように、真理知識、仏法知識というもの、教学というものをベースにしながら、それを自分の実体験に生かし、智慧に変えていくことです。そして、自分自身の智慧になったものは、それでもって人を導くことができます。同じような問題で悩んでいる人に対して、悟りの言葉を述べ、一転語を与え、立ち直らせることができるようになるのです。

 自分が苦しんだことであっても、その体験が、真理の知識を手に入れた上で自分自身の光となっていれば、そういう智慧の言葉で人を導くことができます。その意味での学びを勧めているのです。  そのように、真理知識を智慧に変えていくことが大事なのです。」

情報・知識・智慧

仏法真理の言葉のなかに新しい発見

智慧

 「般若の智慧」という言葉があるように、ここで言う「智慧」とは、単なる知恵とは異なり、もっともっと奥深い叡知のこと。ここでは、「悟り」という言葉に極めて近いものとして説かれていると理解すると、その教えがよりよく分かってきます。

 智慧を獲得こそが人生の目的。一定の智慧を得れば、あの世に帰って、神格を持った高級霊になれる。その意味で、神にさえなれる。

 大川隆法総裁は、『感化力』で以下のように説かれました。

「人生の目的は、いろいろありますが、その一つとして挙げてよいことは智慧の獲得です。この世で何十年か生きたあと、あの世へ持って還れるものは智慧なのです。人間は、智慧を得るために、この世に出てきて、修行をしています。いろいろな勉強をしたり、いろいろな経験を積んだりしながら、苦労して智慧を身につけているのです。そういう人生修行を実際にやってみないと、智慧というものは身についてきません。紙の上の知識だけでは、あまり身についてこないところがあるのです。人間は、学問などで吸収した知識を実際に行い、いろいろな試行錯誤を経ることによって初めて、「こういう生き方が、ほんとうの生き方、優れた生き方なのだ」ということを知るのです。智慧を得ることは人生の一つの目標です。智慧という言葉には非常に奥深いものがあります。はっきり言うと、一定の智慧を得たならば、あの世で神になるのです。すなわち、神格を持った霊、高級霊になるわけです。智慧を得ることは、それほどのことなのです。智慧のある人は、いろいろな人を教えられるので、神になるのです。智慧を得るために、人間は、みな、営々と努力しているのですが、努力はしていても、なかなかうまくいかないものです。そのため、人生のなかで試行錯誤をします。そして、多くの人の導きになるような考え方、生き方を示し、人々を教えられるようになると、その人は指導者になっていきます。みずからの智慧が大きな塊になってくると、その人は、神といわれる人たちのいる世界に入っていくのです。智慧を得るのは非常に大事なことです。この世で得たもので、肉体に付随するものは、何もあの世へ持っていけません。食べ物も、お金も、肩書も、会社も、建物も、土地も、あの世へ持っていけません。しかし、智慧は持って還れるのです。  私は、「あの世に持って還れるものは心だけである」という話をすることもあります。しかし、心は誰でも持って還れますが、そのなかの智慧の部分が大事であり、今世の人生が勝利したかどうかは、この智慧の部分と関係があるのです。  その意味で、智慧の獲得は人生の大きな目的なのです。」

般若の智慧

知の発展段階説

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