イギリスを英国病から救う

 サッチャーの時代のイギリスも、国家の危機にあった。「ゆりかごから墓場まで」の標語のもとに、手厚い社会保障制度がつくられ、国民の社会保障負担は増加。働いて稼いでも税金として取られてしまうため勤労意欲は低下した。国有化された基幹産業では経営努力が行われず、国際競争力もがた落ちであった。

 これにサッチャーは立ち向かう。しかし当時、国民は彼女が途中で諦めるだろうと思っていた。一つ前の保守党政権では首相が富の再分配を掲げる左派に迎合したからだ。だが、サッチャーは違った。

「逆戻りしたい人は、すればいい。しかし、レディは、逆戻りはしない」

 政権初期は成果が出ず、支持率は23%まで下がった。そんな中、転機が訪れる。

 1982年、南大西洋上にイギリスが領有するフォークランド諸島に、アルゼンチン軍が上陸。占拠したのだ。サッチャーは迷わず応戦を決断。翌日には空母機動部隊に出撃命令を出し、3日後には実際に出撃させる。アルゼンチン軍の航空攻撃で艦船を失いながらも、英軍はフォークランド諸島を守り抜いた。

「敗北? 私はそんな言葉は知らない」

 サッチャーはこの勝利で指導力を一気に高め、国内の改革を断行する。不要な保護行政を一掃し、市場に自由競争の原理を導入。国営企業の民営化も進めた。

 サッチャー政権が発足した1979年から90年までに、実質GDPは1.3倍に増加。その後も自由競争が質の高い商品やサービスを生み、経済成長を続けた。現在でもロンドンの金融街「シティ」が栄えているのは、当時の大改革の賜物である。

 マーガレット・サッチャー

妥協を許さない「鉄の女」

 「お前が人々を導くことがあっても、決してお前が人に従って行く人にはならないように」

 「人生は快楽のためではなく、労働と前進のためにある」

 父にそう教えられたサッチャーは刻苦勉励の人生を歩んだ。1925年、イングランド中部の雑貨店に生まれ、熱心なキリスト教の一派メソジストである両親の感化を受ける。サッチャーは寸暇を惜しんで学び、日曜日は教会で礼拝と奉仕に励んだ。時間を無駄にしない早足は「サッチャーウォーク」と呼ばれたが、それは子供のころに身に付いた習慣だった。

 彼女はオックスフォード大学で化学を専攻し、卒業後に研究員として働きながら弁護士資格を取得。市長になった父を尊敬し、政治の道を志した。実業家のデニスと結婚して2人の子供を育てながら、33歳の若さで下院議員に初当選する。

「女性が外相になってはならない理由があるだろうか」

 そう語った彼女は、44歳で教育相になり、53歳で外相どころか首相になる。

 サッチャーは、国が国民の面倒を見る「福祉国家」となったイギリスを、国民が各自の人生に責任を持つ「自由主義国家」へと変えた。その妥協を許さない姿勢は、ロシア紙に「鉄の女」と評されるほどだった。

 

過去世は「鉄血宰相」

 幸福の科学の霊査によれば、サッチャーの過去世は、ドイツ統一を実現したプロイセン王国の首相、ビスマルクの可能性が高い(『サッチャーのスピリチュアル・メッセージ』)。ビスマルクは、1815年に貴族の子として生まれ、ゲッティンゲン大学とベルリン大学で法律を学ぶ。若き日には宴会と決闘に明け暮れたが、婚約者の死を契機に信仰に目覚めた。その後、婚約者の友人と結婚するが、交際中の手紙の中で、信仰でつかんだ境地について、自らの心を港に例えて語っている。

 「荒波の狂い立つことはあっても、主の十字架がこの港をお護りくださる限り、海面下の暖かい深部は水が澄んで穏やかに保たれるのです」

 ビスマルクは32歳で州議会議員となった。議員でありながら、議会主導の政治を求める世論に反対し、王政を擁護する。王室を中心に団結し、国防を強化すべきと考えたからだ。

 「陛下をお見捨てするよりも、むしろ陛下のお供をして討ち死にする道を選ぶつもりです」

 その忠誠心が評価され、ビスマルクは47歳で首相になる。議会が軍備拡張に反対した時の演説で、「鉄血宰相」の異名をとった。

 「諸問題を解決するのは、演説でも多数決でもない。血と鉄のみだ」

 当時のドイツは、ロシアとフランスという東西の大国に挟まれながら、35の君主国と4つの自由都市に分かれ、国家と呼べないほどバラバラだった。

 ビスマルクはこの現状を憂い、国家統一を志す。鉄道と電信を駆使する機動的な用兵術を編み出した名将モルトケを登用し、デンマークやオーストリア、フランスとの戦いで連戦連勝を続けた。

 こうして、プロイセンを中心にドイツ統一を成し遂げる。さらに統一後は、通貨の統一、司法組織の編成などの改革を次々と行い、近代国家を築いたのである。

 

社会主義との戦い

 二人が共通して戦ったものがある。それは社会主義である。

 ビスマルクは、社会主義の”教祖”であるマルクスと同時代に生きた。当時、プロイセンでも労働運動が盛り上がったため、ビスマルクは「社会主義者鎮圧法」を制定して活動を取り締まった。

 ただ同時に、社会主義の温床が貧困にあると見たビスマルクは、社会保障制度をつくり、「祖国に忠誠なる労働者階級を永続的に育成」しようと考えた。現代の社会保障制度のベースともいえる「疾病保険法」「災害保険法」「老療保険法」をつくったのは、ビスマルクだ。

 ところが、時代が下ると、人々の生活水準や医療レベルは上がり、寿命も延びた。多くの国で社会保障制度が取り入れられるようになったが、サッチャーの時代のイギリスでは、財政を圧迫し、労働者を甘やかして怠け者を生み出す制度になってしまっていた。

 サッチャー改革の最大の山場は、労働組合の牙城、国営企業との戦いだった。

 国営の製鉄所には5年で30億ポンド(約1.4兆円)の国費がつぎこまれたのに、生産効率は極めて悪く、同じ生産量を得るために必要な人員は他のヨーロッパ諸国の2倍だった。

 サッチャー政権は国営製鉄所に人員解雇を要求したが、鉄鋼業の労働組合は1980年の不景気の中で大ストライキを決行。長期間の生産停止によって関連企業の経営を圧迫し、政権に対抗した。

 しかし、彼女の信念は揺るがなかった。

「階級間の憎悪を煽ることによって兄弟愛を増すことはできない」

 全生産が止まっても製造業が1カ月半はもつと調べをつけると、サッチャー政権は改革を断行する。雇用法を改革し、人員を整理した。製鉄所に並ぶ不採算事業だった国営炭鉱の改革にも取り組み、多くを廃止もしくは民営化したのである。

 

魂に刻まれた決意

 刺し違えてでも改革を行おうとするほどのサッチャーの信念の奥には、前世でつくった制度の弊害を、絶対に食い止めるという魂に刻まれた決意があったのかもしれない。

 実は、ビスマルクは晩年、深く後悔していたことがあった。

「数十年の戦いの間、神から引き離されていた」

 彼の人生は、内政でも外交でも政治闘争の連続だった。時には汚い手も使っている。国王の電報をフランス側が怒るよう編集して届け、開戦を煽ったのだ(エムス電報事件)。信仰や信念が現実政治と乖離してしまうことが多く、その矛盾が心に陰を投げかけていた。

 この反省からだろうか、次の転生であるサッチャーは、自らの信念を政治家として実現する戦いを続けた。経済倫理と政策を両立させ、外交でも自由や民主主義などの「政治原則」を重んじた。

 

国際秩序をつくる

 国際社会における秩序をつくった功績も共通している。

 ビスマルクは、ドイツ統一後は勢力均衡を図った。最大の敵国であるフランスを抑止するために、オーストリアやロシアと三帝協約(1873年)を結び、クリミア戦争後にロシアとの関係が微妙になると、別の国と同盟を結んだ。仏露という東西の脅威に常に対策を講じたのだ。

 「政治とは歴史の中に残された神の足音に注意深く耳を傾け、その歩調に自らの歩みを合わせるものである」

 その正しさは後代と比べるとよくわかる。ビスマルクを退けたウィルヘルム2世は、海外の植民地獲得を狙って英仏露を敵に回し、第一次大戦を引き起こした。

 一方、サッチャーが生きた時代は、米ソ冷戦の真っ只中だ。彼女は、アメリカのレーガン政権と共にヨーロッパを共産主義のソ連から守り、冷戦を終わらせている。

 「社会主義の全誤謬を破壊することが、われわれの目的なのです」

 サッチャーは、イギリスの復活を通して世界の人々に自由の意義を知らしめた。また、もしイギリスがフォークランド紛争に敗れていたら、ソ連は勇んで西側諸国の侵略に踏み出していただろう。彼女の決断はソ連を止める力ともなったのだ。

 強い愛国心で自国を立て直し、国際秩序を築いたサッチャーとビスマルク。世界史の流れに責任を負う魂と言えそうだ。

 偉大な政治家は、常に新たな試練と戦いながら、その時代、その地域に、なくてはならない仕事を残していく。その歩みからは、地球に正義を実現しようとする神のマネジメントが垣間見える。

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