マーガレット・サッチャー

 「鉄の女」の別名を持つイギリス初の女性首相、マーガレット・サッチャー。1925年にイギリスの中産階級家庭・ロバーツ家に生まれ、市議会議員や市長経験もある父の影響を受けて育ちます。 食料雑貨商を営む父は、キリスト教の一派であるメソジストの敬虔な信徒でした。ロバーツ家の家訓は、メソジストの教えでもある“質素倹約・自己責任・自助努力”。マーガレットは後に「人間として必要なことはすべて父から学んだ」と語っています。マーガレットには、父から学んだふたつの生活信条がありました。

1、何ごとも自分の意思で決めよ。

2、皆のあとについていくような 行動を取るな。  

 この信条はマーガレットの後の政治人生における柱となります。 幼いころから優秀だったマーガレットは、名門オックスフォード大学で化学を学び、同時期にハイエクの経済学に傾倒。卒業後は研究者として就職し、アイスクリームなどに空気を混ぜる研究を行っていました。  大学卒業から3年後の50年、保守党から下院議会議員に立候補しますが落選。51年にデニズ・サッチャーと結婚し、マーガレット・サッチャーとなります。息子と娘の双子を授かったサッチャーは、家事をこなすかたわら法律の勉強を始め、53年には弁護士資格を取得しますが、家族を第一に考え、勤める弁護士事務所は自宅から通える圏内に絞っていたそうです。その家族愛は政治家になってからも変わらず、家族と離れずにすむ距離の選挙区からしか立候補しませんでした。1959年、ついに下院で初当選。政治家としてキャリアを積み、70年には教育科学大臣となります。このとき、学校の牛乳無償配給の廃止を決定し、イギリス中から「ミルク泥棒」と猛烈な批判を受けました。1974年には保守党が労働党に破れ、野党に転落。党首が辞任し、初の女性党首に就任します。同年、ヘルシンキ宣言を批判し、ソ連(当時)の国防省機関紙に「鉄の女」と非難されまました。ところがサッチャーはその皮肉たっぷりの呼び名を気に入り、以後サッチャーの代名詞として定着したのです。1979年、保守党は選挙で大勝。サッチャーは女性初のイギリス首相の座につきます。のちにサッチャーは、野党に甘んじた4年間を「何ごとにも変えがたい時間だった」と話しています。サッチャーは4年間、来るべきときに備えて自分が政権を動かしている姿を想定し、具体的なイメージングを積み重ね、準備をしていたのです。政権に就いたとき、メソジストの信徒であるサッチャーは神に祈りました。「誤りがあるところには真理をもたらすことができますように。疑いがあるところには信頼をもたらすことができますように。絶望があるところには希望をもたらすことができますように」  就任後のサッチャーの活躍は、“サッチャリズム”という言葉がつくられるほどでした。当時、イギリスのスローガンは「ゆりかごから墓場まで」。高福祉政策を貫き、電気・航空・運輸などの基幹産業はぼほ国有化されており、事実上の社会主義国家でした。結果、国民は堕落して失業者であふれ、国際競争力を失っていました。  そこで、サッチャーは「小さな政府」をめざし、公共支出と政府の借り入れを厳しく抑制。金融を自由化して減税を行い、最高所得税を83%から40%にまで引き下げます。 そして労働組合と猛烈な政治闘争を行い、労働法を改正して労働組合の活動を制限。国有企業を民営化して国際競争力を上げ、労働者階級に仕事を与えました。さらに労働者に株主になってもらい、企業の業績に関心を持たせようと、民営化の際に株式を払い下げ、9百万人におよぶ株主をつくります。結果、労働者たちの労働意欲は向上し、ストライキも起こらなくなりました。教育改革にも着手し、まずは当時教えられていた自虐史観を全廃。さらに全国共通テストを実施し、キリスト教の授業や宗教教育を必須化します。  サッチャーは党首として合計3度の総選挙に勝利しました。一線を退いて2年後の92年には一代貴族として男爵位を授爵し、バロンとして貴族院議員に選ばれます。社会主義を打ち砕き、自由主義の正統性を証明したサッチャーの口癖は「ポジティブ」。メソジストの教えである積極的な考え方を体現していました。07年には、在世中の元首相で初めて、国会議事堂内の歴代首相の銅像に並んでサッチャーの銅像が建立されます。その像を見てサッチャーはこう言いました。「鉄の像になるかと思ったら、銅像ね。銅もいいですね。錆びないから」。

サッチャー首相は「心と魂の変革」と訴え、マルクス思想に染まった国民の意識を変えることを目指した。

 マルクス思想の特徴は、(1)「自分は搾取されている」という被害妄想、(2)「だからお金持ちから奪い取っていい」という嫉妬心の正当化、(3)この世で報われることを絶対視する唯物論の3つでしょう。

 サッチャー氏はこの考え方に染まったイギリス国民に対し、自助努力の道を訴えるとともに、宗教心の大切さを教えた。

「お金持ちを貧乏にしても、それで貧乏な人がお金持ちになれるわけではありません(The poor will not become rich, even if The rich are made poor.)」

「お金は天から降ってきません。自分でこの世で稼がなければなりません(Pennies don’t fall from heaven, they have to be earned here on earth.)」

「経済は手段にすぎません。目的は心と魂を変革することです(Economics are the method; the object is to change the heart and soul.)」

 サッチャー改革は、本来の「第3の矢」に極めて近い。

 ただ、それが実を結び、イギリス経済が本格的に復活したのは首相を退任した90年から数年経ってからだった。国民がやる気になり、会社を立ち上げ、十分稼げるようになるまで、10年以上はかかったためだ。

 首相在任中は、福祉予算削減や民営化のために直接的に不利益を受けた人たちの反発が強く、常に批判の嵐の中にあった。政治家としては、労多く、報われるところが少なかった仕事かもしれない。

 

地球規模での啓蒙・教育

 幸福の科学が政党を立ち上げ、中学・高校、さらには大学(2015年予定)を開校し、世界にも教勢を広げている。サッチャー氏以上の、地球規模の「啓蒙・教育活動」を展開しようとしているためだ。

 この仕事は、マスコミや国民の一部の反発も強く、すぐに報われることのないものかもしれない。

 しかし、日本に十数年遅れてバブル経済が崩壊したアメリカやEUでも、遠からず、本来の「第3の矢」が必要になる。その時、日本人の多くが「心と魂を変革」し、自助努力の道を実践しているならば、日本が世界を引っ張るリーダーとなっているはずです。

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