共産主義的ユートピア思想

 マルクス主義者たちは、革命のために暴力を使うことを肯定し、一党独裁体制をつくって自分たちの理論どおりに政治をすれば、平等な社会ができ、理想的なユートピアができると考えた。だが、現実にはそうはならなかった。

 ユートピアは、「一人ひとりが、神の子、仏の子としての本質を持っている」と信じ、そのダイヤモンドのような神性、仏性を輝かせ、適材適所で発展・繁栄をし、全体としても大を成していくところにできるものである。

 共産主義的ユートピア思想の間違いの根本は、チャンス(機会)の平等でなく、結果平等を最終的に目指したというところにあります。

マルクスの政治思想は誤り

 幸福の科学大川隆法総裁は、『宗教立国の精神』で次のように説かれました。

「マルクス主義者たちは、革命のために暴力を使うことを肯定し、「銃口から革命が生まれる」などと言っています。つまり、彼らは、「反対する者は処刑したり殺したりすればよい。そうして一党独裁体制をつくり、自分たちの理論どおりに政治をすれば、結果的には平等な社会ができる。党のエリートだけで支配すれば、理想的な国ができるのだ。それがユートピアである」と考えたわけですが、現実は、そうはなりませんでした。ユートピアというのは、本当は、次のようなものなのです。「一人ひとりが、『神の子、仏の子としての本質を持っている』ということを信じ、そのダイヤモンドのような神性、仏性を輝かせていく。また、それぞれの人が、自分の才能に合ったところ(適材適所)で、見事に発展・繁栄をしていく。そして、個人として才能を伸ばすとともに、会社や社会、国家など、全体としても大を成していく」  実は、こうした繁栄のなかにこそ、神の栄光、仏の祝福が得られるのであり、このような世界こそが、本当の意味における、地上ユートピアであるのです。共産主義的ユートピア思想の間違いの根本は、やはり、「結果平等を最終的に目指した」というところにあります。もちろん、チャンス(機会)の平等は構いません。例えば、「選挙というものがあり、学歴や家柄、収入等に関係なく、誰もが一人一票を与えられている」ということは、政治参加におけるチャンスの平等でしょう。「どのような国をつくるか」ということが、国民に委ねられているわけであり、非常にありがたいことです。ゆえに、チャンスの平等がある国はよい国であると思います。ただ、「結果をすべて同じにする、すなわち、努力した者も努力しなかった者も同じように扱う」というのは困ります。この表れの一つが、「差をつけてはいけない」という考えです。例えば、最近では、運動会をすると、「一番から五番まで全員一等賞にする」とか、そういう幼稚園などもあるようです。 ういうことを始めたら、「努力をしても、しなくても、結局、同じだ」という世界になります。子供心にも、「一番から五番までいたのに、全員が一等賞というのは、おかしいな」と思うことでしょう。あるいは、会社であれば、企業努力をして発展し、黒字で税金を納めるような立派な会社もあれば、放漫経営をして倒産し、救済を受けるような会社もあります。この差はかなりあります。この結果を、平等に扱うわけにはいきません。社会的評価や名声等が、それなりに違うものにならなければいけないでしょう。やはり、結果平等を目指すのではなく、チャンスをできるだけ平等に与え、いろいろな人が自己実現していける国をつくることが大事です。」

 

社会主義とユートピア

 社会主義は、最終的には、無神論や唯物論を広め、「貧しさの平等」に行き着き、人間の自由を制限する政治体制につながるので、望ましいとは思えない。

 自由を制限すれば、信教の自由もなければ、良心の自由も、言論の自由も、出版の自由もすべてなくなっていくので、貧しい人たちに救いの手を差し伸べる騎士道精神を持ちつつ、「平等」より「自由」を大事にしたほうがよい。

 大川隆法総裁は、『宗教立国の精神』で次のように説かれました。

「私は、「社会主義は1990年を境にして滅びていくべきだった」と思います。それが復活してくるということは、やはり、よくないのです。社会主義というものは、最終的には、無神論や唯物論を広め、「貧しさの平等」に行き着き、人間の自由を制限して、言論の自由を行使する人を刑務所送りにしていきます。そうした政治体制につながっていくので、社会主義は望ましいとは思いません。自由を制限すれば、信教の自由もなければ、良心の自由も、言論の自由も、出版の自由も、すべて、なくなっていきます。したがって、「平等」より「自由」を大事にしたほうがよいのです。「真なる自由と、貧しい人たちに対して救いの手を差し伸べる騎士道精神を持つ」という考え方のほうが大事であり、「全員をすり潰して平等にすればよい」という考えであってはならないと私は思います。「幸福の科学は、そういう意味での社会主義、つまり、誰もが自由を抑圧され、囚人のような平等を持つことをもって、ユートピアとは断じて考えていない」ということを述べておきます。当会は、あくまでも、信教の自由や言論の自由、思想・信条の自由、出版の自由、政体を選ぶ自由、国の政治のあり方を選ぶ自由、そういう自由を保障し、護り続ける旗手でありたいと思いますし、「国民一人ひとりが自分自身の生き方について責任を持つ」という意味での、真なる保守でもありたいと考えています。  そして、その延長上に未来を構築しなければいけません。」

 理性でもって世の中をすべて動かせると思っているのが社会主義である。

 しかし、生身の人間は日々の精進によって変わっていくものであるし、相手の存在もあり、経済においても、感性の世界はまだ十分に生きていて、理性どおりにはいかない。

 旧ソ連の崩壊で、「敗れた経済」であるのが分かってきているのに、それがまた復活してこようとしているが、その先にあるものは「地獄」なのです。

 大川隆法総裁は、『『危機に立つ日本』で次のように説かれました。

「理性でもって、世の中をすべて動かせる」と思っているのが社会主義なのです。日本のエリートたちは、この思想にずいぶん惹かれたのです。「エリートである自分たちが、理性でもって世の中を動かせば、社会をより良くできる」と考えたわけです。頭の良いエリートたちからすると、アダム・スミス型の自由放任経済など、まったく原始的に見えるでしょう。彼らは、「『放っておいたほうがうまくいく』などということはありえない。やはり、一部の賢いエリートたちが、きちんとデザインを描いて、そのとおりにやらせれば、世の中はうまくいくのだ」と考えたのです。これが社会主義です。実際の「生身の人間」というのは、日々の精進によって変わっていくものですし、相手の存在というものもあります。例えば、商売というのは相手があって成り立つものです。貿易も相手があって成り立つものです。「自分としては、理性的に考えて、この値段以外にない」といくら言っても、相手が値切ってきたときには、交渉によって値段は変わってきます。メーカーの生産部から、「この値段以外で売ってはいけない」といくら言われても、第三次産業である商業の世界では、同業他社もあれば、顧客もいるので、どうしても売りたければ、五十パーセントオフや三十パーセントオフの値段を付けなければいけないときもあるのです。そのように、今の経済においても、感性の世界は、まだ十分に生きていて、理性どおりにはいかないのです。なぜアダム・スミスのレッセフェールが肯定されるのかというと、それは、「ただ放任する」ということではなかったからです。「各人の持っている、いろいろな智慧や才覚を、全身全霊で最大に発揮することを通して、経済は花開く」という思想であったのです。後追い型で経済を統計化することは可能ではありますが、事前に国家が計画し、十カ年計画、二十カ年計画、三十カ年計画というようなかたちで、線引きできるようなものではありません。それが、ある程度、成功したのは、旧ソ連が重化学工業化を推進し、国力を上げた時代です。計画どおりにいっていたときには、一時期、アメリカを抜いたように見えた時代もありました。しかし、その後、ソ連邦は崩壊し、実態はひどいものであったことがかなり分かってきました。旧ソ連では、完全に生産者サイドのものの考え方をしていて、需要者側、消費者側のニーズを考えていませんでした。食品などが不足し、店先にはいつも行列ができていました。必要なものが必要なだけつくられていないため、すぐに品物が売り切れてしまっていたのです。中央のほうで決めた数量だけをつくるので、需要と供給が合っていなかったわけです。これは「敗れた経済」なのですが、それがまた復活してこようとしています。しかし、その先にあるものは「地獄」です。」

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