粒子と波の二重性の謎

参考 『死後の世界を突きしめた量子力学』(コンノケンイチ著・徳間書店)

人の意識がこの世の現実を創造する

 我々の世界は外見通りではない。人それぞれの意識エネルギーが、この世の基本的な構造や仕組みに大きな作用を及ぼしていると、量子力学は言っているのである。

 量子力学の基本となる「シュレディンガー波動方程式」によれば、自然界は観察するという行為によって、無限の可能性を生み出し続けている。いったん現実として知覚されると、効果は直接かつ劇的である。観察するという行為によって、物質の持つ波動関数のすべてが収縮されて、一つだけが残り、それが現実の世界となるのである。しかし、なぜ他の可能性が消滅してしまうのかはわからない。近代量子力学が到達した結論は、個々人が客観的に存在すると認識している自然界の事象は、人が観察するという行為によって千変万化し、「誰も見ていないときは実在しない」というものである。

 我々が見ている自然には山や川があり、我々が見ていようが見ていまいが、何も変化せずに、存在すると考えるのが普通である。ところが、量子力学によれば、これは完全な錯覚だという。山や川という存在は、あの世とこの世の存在状態の重ね合わせで、我々がそれを見た瞬間にパッと位置が決まることになる。

 ほんとうは自然を究明しているのではなく、想念によって客観的な存在を造り出しているというわけである。

 たとえば、あなたが東京に居なくても、日本に東京が実在することは当たり前の常識でしょう。しかし、量子力学では、個々人の意識が東京と言う街を現実化させ、人々の意識に東京が存在しなくなったら、東京という街は実在しなくなるというのである。つまり、あなたの意識が東京という街を創造しているというのである。

 さらに、あなたは東京と大阪に同時に存在できない。これもこの世の存在の鉄則である。だが、素粒子は、時間的にも空間的にも、2つの場所を同時に占めることができる。素粒子が観測されているときは個々の粒子だが、観測されるまでの間には、存在するという可能性だけが波のようになって広がっているわけである。

 ところで、人が長年住んでいる場所と住まなくなった場所では、傷みに差があると思いませんか。長年住んでいると手入れがよいかもしれませんが。ある方の話では、家を捨てて、ずっと忘れていたところを何十年か経っていったところ、傷みや腐食がすごいと言っておられました。人が見るとか意識があるとか、ないとかに作用されるのだろうかと、不思議に思うことがあります。

人が見るという行為によって、物質が創造されたり消滅したりするわけで、すなわち、人間の意識がこの世を創造しているということである。

 霊界は波動の世界で、個々人のもっている想念がストレートに現象化する世界である。これが量子力学の「波束の収縮」である。

 テレビやラジオ、携帯電話の電波を送受信する技術は知っていても、発信された電波が一個ずつの粒子なのに、多くの受信装置で同時にキャッチできるのは、考えれば不思議なことです。物理学では光や電波は波でもあり粒子でもあるとしていますが、これはそういう性質をそのまま知識として受け入れているだけで、それは何故なのかという根本的な説明ではありません。

 この現象に説明としては、もし、宇宙空間が何もない真空だったら、波でもあり粒子でもある光が一定速度で直進するとすればよいわけですが、電波も直進するのか疑問ですし、波でもあり粒子でもあるという点が誤魔化されているようで、違和感を覚えます。この点、アインシュタインと同じ頃に活躍した物理学者のニールス・ボーアが創始した量子力学にヒントが得られそうです。ボーアは、原子より小さい素粒子の世界では、相対性原理が通用せず、私たちの常識を覆す現象が多いことに気付きました。この世界は物質ではなく、人間の意識こそが存在を規定しているのと言うのです。観測している素粒子が、いつ、どの位置に存在しているかを決めるのは不可能なのです。これは素粒子が粒子の性質を示すかと思えば、波の性質を見せたりして、実体が捉えにくいのですが、その状態を決定するのは、観測する人間の意識なのです。観測者が素粒子の状態を調べようとすると、素粒子がその意識を察知して、瞬時に状態を変化させるのです。つまり、素粒子に意思があるとしか考えられない振る舞いをするという。また、スクリーンの手前に小さな穴を開けた板を置き、素粒子にその穴を通過させると、一つの素粒子が同時に二つの穴を通過するという奇妙な現象が起こります。

 ボーアは、量子力学を打ち立て、これら素粒子の奇妙な現象をシュレディンガーなどが不確定性理論や波動方程式にまとめて、量子の世界の出来事はこれが原因で結果がこうなるという因果律に囚われず、確率的にしかわからないとしました。しかし、この理論は相対性原理と相容れず、アインシュタインはボーアたちとの論争を死ぬまで続けました。

光子は観察しているときは粒子となり、観察していないときは波となる

 不可思議なことであるが、現代物理学ではこれを『粒子と波動の二重性の謎』と呼んでおります。

 

二重スリット実験

 19世紀のはじめ、トマス・ヤングは、スリットが入れられた2枚の板に光を通過させて、スクリーン状に干渉パターンを映し出した。

 現在、それに相当する実験は電子によって行われている。

 光源が、前方のスクリーンに並んだ2つの狭いスリットを照らすと、スリットをくぐり抜けた光の像が後方のスクリーンに明暗の干渉縞を結ぶ。縞模様が現れるのは、光が波(光波)であることを証明していることで、2つのスリットを通り抜けてきた光の波が衝突しあって波の高低差を生じさせるのである。

 ところが、実験者が、光子を弾丸のような個の粒子と考えて同じ行動をすると、非常に矛盾した現象が出現してくる。

 光子を鉄砲の弾丸のように左右のスリットを1個ずつ通過させると、光子がスクリーンに着いた様子がフイルムに記録できる。はじめ、光子の痕跡は鉄砲の着弾点のようにでたらめに並ぶが、次第に1つの整然としたパターン(干渉縞の模様)が形作られていくのです。個々の光子がスクリーンに明暗の干渉縞を造りだすのは、縞模様の暗くなっている場所に光子(弾丸)が到達できないからです。

 ところが、実験者が、2つ開いている一方のスリットを閉じると、先に見られた光子の行動は劇的に変化する。途端に干渉縞は消失して、光のシミ1つが残るだけになった。

光子は、1つのスリット(トンネル)しか開いていないときは、到達できなかった場所に、なぜかスリットを2つにすると易々と到達できたのである。

 また、一人の実験者は、2つのスリットの傍らに精密な検出装置を置いて、発射された光子が2つのスリットを通りぬける直前に片方のスリットを素早く閉じるという早業を試みました。

 光子が2つの場所に同時に存在できるという「非局所性」への手掛かりを掴めると考えたのです。

 ところが、スリットを通る光子の経路を知ろうと検出装置を設置しただけで、とたんに光子の経路は乱れて、干渉縞が消失してしまったのです。

 実験者が何も意識しないで放置している場合だけ、干渉縞が出現するのである。こうなると、光子は、人間の意図を事前にテレパシーのように読んで行動していることになる。この世の人間にあの世の情報を知られたくない、という未知のパワーが働いているのでしょうか? 奇妙だが、実験ではそうなると言うのです。

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