臓器移植と「三輪清浄」

 仏教的には、布施について、「三輪清浄」が必要とされる。臓器移植でも、布施をする人、布施を受ける人、布施するもの、の三つに穢れがないこと、執着がないことが大事である。

 幸福の科学大川隆法総裁は、書籍『復活の法』の中で以下のように説かれました。

「それから、懸念されることは、やはり、臓器ビジネス、臓器の売買です。これによって、闇の世界がかなり広がりつつあります。地獄的なものが、かなり広がっています。臓器は貴重なものなので、高く売れます。そのため、闇取引がかなり流行っているのです。東南アジアでは、生きている子供の腎臓の片方を取って売る親が出てきています。貧しい家では、子供の臓器を売る親も出てくるのです。今後、そういう闇の取引、非合法の売買も増えていくでしょう。怖いことです。そのような思想がまかり通るのであれば、たとえば、死刑囚に対して、「×月×日×時に電気椅子で処刑された」ということにして、現実には麻酔をかけて臓器を切り取ってもかまわないことになります。「電気椅子にかけられて死んだ」ということにすれば、新鮮な臓器を取れるのです。「どうせ、その時刻に死ぬのだから、同じことだ。だから、臓器を取ってしまえばよい」というわけです。そういうことだって起きるでしょう。  「本人に、『死んでもよい』という自殺の意志があり、臓器を提供する意志もある」という場合の臓器ビジネスも流行ってくるかもしれません。「生きたい」という人間の欲望に付け込んで、臓器が何百万円や何千万円といぅ値段で取引される商売が始まると、やはり、穢(けが)れが入ってきます。仏教的には、布施について、「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」ということがよく言われています。布施をする人、布施を受ける人、布施するもの、この三つにおいて、どれにも穢れがないこと、執着がないことが大事なのです。この基準で見ると、布施をする人、すなわち、臓器を提供する人が、まだ、臓器に執着したり、この世に執着したりしている場合には、そこに穢れがあります。また、施物(せもつ)、すなわち臓器そのものも、そういう闇のビジネスで取引されていると、そこに大変な穢れが発生します。さらに、臓器を受ける本人や家族のほうも、唯物論的に、ただただ「寿命を延ばせばよい」と考え、物だと思って臓器をもらうようであれば、そこにも穢れが生じます。脳死状態は突然にやってくるため、しかたがない面はあるのですが、ほんとうは、「真実の世界を知った上で、『私の臓器を、この方にあげたい』という気持ちがあって、臓器を提供する。そして、安らかに死んでいき、執着なしで天国に還っていける」というかたちがよいのです。  そのかたちになるのならば、三輪清浄が成立する可能性はあると思います。しかし、現実を見ると、「それは、かなり厳しいのではないか。そこまで悟った人が、この世に、それほどたくさんいるだろうか」と感じます。したがって、「臓器移植には、けっこう厳しいものがある」と私は述べているのです。」

 繰り返し手術を受けて臓器や組織を取り替えても構わないと考えるなら、人工的に作られた臓器は、確かに長い生命を与えてくれます。しかし、それが本当によい人生であったかどうかは、まったく別問題です。人間の幸福は、「この世の人生が永遠に続くものではない」と知ることで高められるものだと思います。

 大川隆法総裁は、説法で脳死臓器移植が許される条件があるとして、以下のように説かれました。

「最低限、あの世があり、人間の本質は霊的存在であるという仏教的な悟りを受け入れ、自己犠牲の観点から『私の寿命は尽きたので、移植される人を生かしたい』という場合だ。相手も感謝して受け入れれば、その人の病気がよくなることはある」

 改正臓器移植法のもと、家族の同意のみで脳死臓器移植への道が開かれたが、家族も医療者も、ともに脳死者の霊的真相を謙虚に受け止め、宗教的理解を深めることが大切です。

 私達が臓器を摘出されると想像してみた時、その驚愕はいかばかりか、想像を絶します。残念ながら、臓器移植はドナーたる脳死者の立場が忘れ去られています。

 今後、再生医療が更に発達し、臓器を再生できるようになれば、臓器移植が必要なくなる時代がやって来ます。そうなれば、「脳死による臓器移植」の問題も無くなります。

 「人体再生術」は古代エジプト神話や、キリスト教の復活神話など、宗教的にも重要なテーマです。大川隆法総裁は「人間は自分の体を復元する能力を持っています(中略)。それができないのは、人々が唯物論にかなり毒されていて、『そういうことはできない』と思っているからです」と述べています。(『心と体のほんとうの関係』)

 

「移植」に代わる先端医療

 「確かに技術開発は重要ですが、だからといって、延命すればそれだけで本当に幸せなのかという問題は残ります。人間は命が助かればそれが当たり前になり、今度はもっと簡単に歩けるようにとかいろいろ考え、それが執着になる場合もある。結局は人生や命をどうとらえるかという心の問題で、人工心臓は『すべての望みをかなえる夢の治療法』と単純には言えません」

 医学の進歩と、執着を離れた人間の幸福の一致点をどう見いだしていくか。ここに、新たな生命倫理の問題点があるといえる。

参考

脳死と臓器移植 へ

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