菩薩になる方法 「六波羅蜜多」

 菩薩になる方法を「到彼岸法(とうひがんほう)」といいます。この到彼岸法、彼岸に到るための方法こそ、六波羅蜜多なのです。

 八正道というものもありますが、これは、どちらかというと、釈尊が悟りを開く過程で、あるいは、それを維持する過程で行った個人的修行の部分に中心があります。その意味で、八正道は、出家修行者にとって避けて通ることのできない関門なのです。

 ところが、六波羅蜜多のほうは、必ずしも出家修行者を対象にはしていません。むしろ、思想性よりも実践性のほうを重視した考え方であり、教えが普及し、広がり、実践活動に携わる人が増えていくことを前提とした思想だと言えます。

(『到彼岸の心』 「釈迦の本心」講義Part2 ②到彼岸法としての六波羅蜜多」

「信仰とは、この光が、大宇宙の根本仏である仏陀(宗教法人「幸福の科学」大川隆法総裁先生)を通して、地上を照らしていると、信ずることである。(『永遠の仏陀』第1章より)

 

六波羅蜜多

菩薩になるための方法論

 六波羅蜜多の思想の内容自体は釈尊自信から出ているものであり、後世の創作であるとは言えません。六波羅蜜多で説かれていることは、釈尊が説法のなかで重点を置いていたものなのです。  

1 布施波羅蜜多 

2 持戒波羅蜜多 

3 羼提波羅蜜多(せんだいはらみた)

4 精進波羅蜜多 

5 禅定波羅蜜多 

6 般若波羅蜜多

 この到彼岸法としての六波羅蜜多は、菩薩になるための方法論であり、「この六つの道を究めれば菩薩に到れる」という方法なのです。「この六つを常に念頭に置いて実践していきなさい」ということです。(『釈迦の本心』)

 八正道は「思いをどのように規定するか」というテーマでとらえたものであり、六波羅蜜多は「その思いが行動の面に現れたとき、どのような現れ方をするか。悟りたる人であるならば、どのような行動の型が現れてくるか」を示している。

布施波羅蜜

 キリスト教における愛の思想が「施す」という考え方のなかに流れているのです。 布施という行を通して、こんこんと湧いてくる叡智を味わい、それを身につけるための修行方法なのです。

  「与える愛の実践」

 「三施」とは財施、法施、無畏施(むいせ) 法を施してあげること、教えを説いてあげること、その悩みに答えてあげることは、最大の布施なのです。 悩み、苦しみ、恐怖している人に対して、それらを取り除いてあげる(無畏施)。
 

持戒波羅蜜

 殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ、嘘をつくなかれ、酒(誘惑)に溺れるなかれ(五戒)

  「ストイシズムの復権」

 

羼堤波羅蜜多  別名「耐え忍びの完成」

(1) 焦りに対する警戒

(2) 「忍辱(にんにく)」単に我慢することではなく、悔しい思いを心にとどめずに流していくこと。

(3) 身内の者の反対に対する耐え忍び  

  「時間を待つ」

 

精進波羅蜜多  別名「努力の完成」

 具体的な行動目標を明確に打ち出して行動すること。

  「仏法真理の探究、学習」

 

禅定波羅蜜多  別名「精神統一の完成」  

 日々にみずからの心を発見し、探究し、確認するという作業を積み重ねることが、どれほど困難なことかわかるでしょうか。  

 1日24時間のどの部分をとってみても禅定の状態にあるということ。これが人間として目標とすべき、修行の最高段階なのです。  

  「八正道の復活」

 

般若波羅蜜多

 般若の智慧が湧き出てくる

 「内在する叡智があふれ出してくる」

 

内在する叡智

 釈迦の思想のなかで最も特徴のあるものは何かと言えば、「内在する叡智があふれ出してくる」という考え方だと思います。  それゆえに、原始釈迦仏教は、現代のさまざまな宗教のような、祈りや祈願の対象を持つ信仰ではなかったと言えます。すなわち、自力が出発点だったということです。(もちろん、仏教が歴史を下るにつれて大乗化していく過程で、実在界の仏陀への信仰が始まり、他力化していくことにも、仏陀の意志が働いていましたが)。その自力の根拠として、「内在する叡智」(パンニャー・パーラーミター)というものが湧き上がってくる、浮かび出てくるという考え方がありました。釈迦自身の考えによれば、この「内在する叡智」こそが、大宇宙の意志や仏神そのものに通じるものであるということでした。したがって、他力思想というものは、厳密な自力修行という考え方からすれば、存在の根拠がゆるやかなものとなるのです。釈迦の生前の思想は、一人ひとりの人間が仏となるための思想、仏へと進化していくための教えだったため、「みずからの外にある仏神を信仰する」という他力思想は、仏教の出発点においてはなかったと言えるのです。この点が他の宗教と大きく違っているところだと思います。もちろん、釈迦はさまざまな高級霊の霊示を受けていたので、高級霊たちの力を充分に知っていましたし、根本仏の存在も知悉していました。しかし、自分の修行過程に照らして、弟子を導く際にも、「自己の本質を掘り下げていって、内在する叡智を発見する」という方法をとったのです。「内在する叡智を、いかにして掘り出し、湧出させるか」ということが仏教の根本であるということを、まず知っていただきたいと思います。したがって、仏教とキリスト教とは、その出発点において、かなり違った面があると言えます。キリスト教における「人間罪の子」の思想は、必ずしもイエス自身の考えではないかもしれませんが、内在する叡智を湧出させるという仏教の考え方は、キリスト教と比較すると、数段先を行っていると言えるのです。なぜなら、キリスト教においては、みずからが神になっていくという方法論は構築されていないからです。  キリスト教では、「父と子と聖霊」というように、「父なる神、子なるキリスト、そして聖霊たちが、厳然として存在している」という事実が述べられるにとどまり、他の多くの人びとは、救われるべき衆生、子羊の群れとしてしか存在を許されていないように受け取られかねない点があります。そうした物悲しい風景として、人びとの姿があるように見えます。しかし、仏教においては、その根本に、仏性思想を中心とする、もっと力強い人間像があります。釈迦は人間の本質を、うつろいやすい肉体とは別の、よきもの、可能性に富むものと見ていたのです。仏教は「業」(カルマ)の思想というネガティブな面だけでなく、「人間の心の奥には無限の叡智がある」という考え方も持っており、それが「六波羅蜜多」という考え方に通じていくのです。釈迦の考えは「六波羅蜜多の六つの徳目を実践することによって、内在する叡智が湧出してくる。仏のエネルギーそのものが噴水のごとくあふれ出てくる」という大乗仏教の思想として結実し、「人間は、根本において非常に価値あるもの、本質において仏と変わらないものである」という積極的な人間観へと展開していきました。その意味で、仏教には、その出発点から大乗運動への過程を通じて、「みずからの手で、みずからを救っていく」、あるいは「人間はすでに救われているのだ」という肯定的な考え方があると言えるのです。

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