利自即利他

 孤高の人となるためだけの修行ならば、今世で地上に肉体を持った意味がないではないか。

 「どうすれば他の人びとをよくしていけるか」ということを考えながら、みずからが学びえたことを他の人びとに教えていくことが何よりも大事なのです。  「みずからが悟りというものによって与えられた幸福感を、世の中の人びとに還元していく」という思想なのです。  これは非常に大事な考え方であり、「利自」と「利他」とを併せ持ちながら、その順序において「利自から利他へ」「利自であることが、すなわち利他につながっていく」という観点を忘れてはいけないのです。

 ひたすらに花咲かそうと努力している姿が、多くの人の恵みとなっている。 自ら幸福を求めて(花咲かそうと努力する)、それが多くの人の幸福へとつながっていく。 これを『利自即利他』と言う。

 仏教を考えるにあたっては、「自利利他」または「利自他」という考え方が非常に大きな鍵を握っている、

 これを幸福の科学では、「利自即利他」と呼び換えているが、この言葉に表れているように、釈迦には、「自分を磨き、幸福感を増していく」という考えと、「その幸福感を他の人に広めていく」という考えの両者があった。

 大乗経典は後代に編纂されたものではあるが、その思想の大部分は、実は釈迦の時代にすでにあったものである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『釈迦の本心』で以下のように説かれました。

「釈迦仏教を考えるにあたっては、「利自即利他」(伝統的には「自利利他」という)という考え方が非常に大きな鍵を握っています。仏教界では、「大乗仏教はのちの世につくられたものである。釈迦没後、五百年もたってから、後世の人たちが大乗仏教の思想をつくり、大乗経典をつくったのである」と言われることがあります。「釈迦が説いた教えは、小乗、すなわち己を整える教えであり、大乗、すなわち大衆救済という教えは後代のものである」と考える人が多いようです。もちろん、大乗経典は後代に編纂されたものですが、その思想の大部分は、実は釈迦の時代にすでにあったものなのです。すなわち、釈迦自身が「自分を磨くことによって、完全に孤立した人間となったり、人里を離れ、孤高の人として生きていくような人間になったりしたのではいけない。孤高の人となるためだけの修行ならば、今世で地上に肉体を持った意味がないではないか」と考えていたのです。村娘のミルク粥を飲んで考えた、「苦行のなかに悟りはない。中道のなかにこそ悟りがある」という思想の延長線上には、自分を利する考え、すなわち、「自分を磨き、幸福感を増していく」という考えと、「その幸福感を他の人に広めていく」という考えの両者がありました。「中道」の思想には、こうした「利自即利他」の考え方があったのです。人間は社会生活を営みながら生きていく「社会的動物」です。そうである以上、いたずらに自力天狗になるのではなく、「どうすれば他の人びとをよくしていけるか」ということを考えながら、みずからが学びえたことを他の人びとに教えていくことが何よりも大事なのです。そうした教育者としての一面が釈迦にはあり、この部分も釈迦の思想のなかにはずいぶん色濃く投影されているのです。「利自即利他」という言葉は、現代的には次のように翻訳できるでしょう。「みずからを磨き、みずからを偉大ならしめていく過程において、社会のユートピアを増進し、幸福の輪を広げ、自と他の大調和を完成していく。傑出した人間が出ることがまわりに不調和を呼ぶのではなく、みずからが傑出していくことによって、社会のいっそうの幸福を増進していく」  すなわち、「みずからが悟りというものによって与えられた幸福感を、世の中の他の人びとに還元していく」という思想なのです。これは非常に大事な考え方であり、「利自」と「利他」とを併せ持ちながら、その順序において、「利自から利他へ」「利自であることが、すなわち利他につながっていく」という観点を忘れてはいけないのです。

(注)仏教では、自己を利することを「自利」と呼ぶが、「利他」との平仄を合わせて「利自」と呼ぶこととする。「利自他」を「利自即利他」と呼び換えているのである。」

マズローの欲求5段解説

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