観自在菩薩

 観自在菩薩(観世音菩薩)とは、人の名前ではなく、修行が進んで、観自在となった菩薩の境地のことを意味する。

 それは、少々の病気や事件、人間関係のできごとにおかまいなく、安定した神通力を発揮することができるようになった梵天の境地であり、まだ十分とはいえなくても、六大神通力(天眼、天耳、他心、宿命、神足、漏尽)を全部そなえるにいたった段階である。

 実在界では、菩薩界と如来界の中間、七次元とも八次元ともいえる霊域に達した魂のことをいう。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『太陽の法』で以下のように説かれました。

「般若心経というお経の最初に、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」という文句があります。これをそのまま訳せば、「観自在菩薩の修行の境地がたいへん深まり、内なる潜在意識の宝庫をおひらきになったときに」という意味です。観自在菩薩とは、人の名前ではありません。修行が進んで、観自在となった菩薩の境地のことを意味します。菩薩とは、一応、自分づくりという「小乗」の段階を通過して、「大乗」、すなわち、衆生済度に立ちあがり、人々を救おうという気持ちになっている魂の段階です。とはいえ、この菩薩の境地にいたってもまだ、人間的な悩み、苦しみがあり、いつもいつも神通力(法力)を発揮できるような状態ではありません。しかし、菩薩の心境が進み、菩薩界上々段階の悟り、すなわち、梵天の境地になってくると、少々の病気や事件、人間関係のできごとにおかまいなく、安定した神通力を発揮することができるようになってきます。つまり、観自在菩薩とは、梵天の境地であり、実在界では、菩薩界と如来界の中間、七次元とも八次元ともいえる霊域に達した魂のことをいうのです。観自在菩薩は、インドの釈迦の時代には、アヴァローキタ=スヴァラ(サンスクリット語ではアヴァローキテーシュヴァラ Avalokitesvara)と呼ばれておりました。観世音菩薩も同義語です。まだ十分とはいえなくても、六大神通力を全部そなえるにいたった段階です。六大神通力とは、天眼、天耳、他心、宿命、神足、漏尽の六つです。ここで、そのそれぞれについて説明しましょう。  天眼(てんげん)とは、いわゆる霊視能力のことです。生きている人間のオーラや憑依霊はもちろんのこと、あの世の世界、実在界までを透視する力があります。天耳(てんに)とは、あの世の霊たちの声を聞くことができる能力です。霊言能力なども、これにあたります。他心(たしん)とは、いわゆる読心のことです。マインド・リーディング、つまり、人の気持ちが手にとるように理解できる能力です。宿命(しゅくみょう)とは、単に自分の将来がわかるだけでなく、その人の想念帯を読みとれば、他人の運命、宿命が手にとるようにわかる能力です。もちろん、過去世のことまでわかってしまいます。神足(じんそく)とは、いわゆる幽体離脱のことで、肉体を地上においたまま、霊界を見聞したり、テレポーテーションしたりする能力のことです。漏尽と(ろじん)は、「心の欲する所に従って、矩を踰えず」と喝破した孔子の境地で、欲望に振り回されず、それを自由に超越する能力です。たとえ霊能力をもったとしても、たんねんに心の錆び落としを続ける精進能力です。観自在菩薩とは、以上あげたこの六大神通力がなんらかの形で身についてきた状態の人のことです。同時に多人数の人の心を読んだり、遠隔地の人の心が手にとるようにわかる「如心」よりも、一段と高い心境だといえます。」

「仏法真理」へ戻る