無明

 「無明」とは、明かりが無いと言うことです。 仏教的な響きを感じる言葉ですが、真理に暗い状態で、智慧が無いことをさします。 闇夜を手探りで歩んでいる状態と言えば分かるでしょうか。 言葉は選ばなければいけないですが「飛んで火にいる夏の虫」という諺があります。 みすみす火に飛び込んでいって焼け死ぬ蛾のようなものと言ってもいいでしょうか。 人間もこれと似たようなことをすることがありますが、これとは違ってこの無明とは、真理を知らないことで、みすみす罪を犯してしまうようなことを指すでしょうか。 真理を知らず、いや無視をして、あまつさえ真理と反対のことをして、みすみす死後地獄に赴いて苦しむような人が現代では沢山いるのです。 誰しも、地上に降りてからこの方、真理に出会うまでは、手探りの状態ではあるのですが、それでもこの世で様々なことを学び知識を得、経験も積んでくるので、全く無知なる状態に到ることはないでしょう。 しかし、地上に生まれ、肉体に宿っていると、眼耳鼻舌身意という六つの感覚によって自己意識ができあがり、その自己意識(目の意識、耳の意識、鼻の意識、舌の意識、身体の意識、頭脳の働き)が、本来の自己を昧まし本当の自己というものを見失ってしまうのです。 釈尊(お釈迦様)は、「知って犯す罪と知らずに犯す罪では、どちらが重いのか?」と弟子に尋ねられ、「知らずに犯す罪は、知って犯す罪の百倍も重い」と答えられています。釈尊は、「無明」のほうが罪が重いと言っているのです。 「知っていて犯す罪のほうが断然重い」と、普通には思うのではないかと思います。 しかし、釈尊は、逆であると言っているのです。 今真理を学んできて、これが真実であると感じています。 なぜなら、私たち人間は、縁起の理法のなかにすべての人間が生きています。 原因結果の法則とも言います。 そして、この縁起の理法は、この世とあの世を貫いた真理なのです。 そして人間は心であり、魂としての存在なのです。 人間がこの世だけの生存であり、あの世というものが無いなら、知らずに犯す罪のほうが軽いのかもしれません。 しかし、真実はあの世という世界があり、死後、その人のこの世での境涯、心の状態によって、天国地獄が分かれるという真実があるのです。 そして、地獄ではこの世での境涯により様々な地獄に分かれるのですが、無知、無明の状態の人は反省ができないのです。 あの世を信じていない人は、死後、天国にも還ることが出来ず、あの世での行き場がなく、この世でさ迷い続けることもあるのです。 また、地獄に行った人でも、知恵がありませんから、反省というものが出来ないのです。もちろん知らないということは、この世でも反省ができないのですが、あの世に行ってもそれが不可能なのです。罪であるという認識がないからなのです。  反省ができて初めて天国へ還ることができるのです。無明という罪は、反省ができないのです。  そういう意味で無明というのは罪つくりなのです。反省ができないから天国へ還ることが非常に難しいことになってくるのです。

 

「知って犯す罪」と「知らずに犯す罪」

 世間一般的には、「知って犯す罪」と「知らないで犯す罪」とはどちらが罪が重いですかと問えば、大抵は「知って犯す罪」ですと答えるのではないでしょうか。仏典『ミリンダ王の問い』の中で、阿難(アーナンダ)がある時釈尊に「知って犯す罪と知らずに犯す罪とどちらが恐ろしいのでしょうか」と釈尊に問うと、釈尊は、「それは知らずに犯す罪のほうが重い」答えているのです。阿難がその訳を尋ねると、「お前は、焼け火箸を焼け火箸だと知って握る人と、焼け火箸だと知らないで握る人と、どちらが重い恐ろしい火傷をすると思うか」と問いかけます。阿難は、「それはもちろん、焼け火箸と知らないで握った人の方が、よりひどい火傷をします」と答えると、釈尊は、「その通り。人は自分のしていることが罪悪だと知らないために、いつもその罪を重ねることになるから、一層罪が重く恐ろしいものになる」「『知って犯す罪』には自ずと限度があり、とがめられれば反省し、悔い改めることもできる。しかし、『知らずに犯す罪』には限度というものがなく、とがめられても、本人に悪いことをしている自覚がないから、反省ができない。反省できなければ悔い改めることができず、際限なく罪を犯してしまう。無明(むみょう)ほど罪深いことはない」と答えているのです。これは「知らずに犯す罪」の方が大きいという譬え話です。

 肉体は常なるものではない。肉体に執着して、これが自分だと思っても、それは無常のものなのである。

人間の悩みや苦しみのもとは肉体であって、肉体的生存こそが自分だと思っているところに、最大の迷いがあり、その「無明」ゆえに、不幸が来る。

肉体に宿って生きながら、「肉体的生存を超えた存在が自分である」と知ることは非常に難しいが、これが悟りの第一歩である。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『仏陀の証明』で以下のように説かれました。

「肉体というのは有限なのです。有限とは文字どおり、「限りがある」ということです。限りがあるということは、それに執われ、こだわり、執着して、心を縛りつけても、結局は無常のものであるということです。無常とは、「常ならず」ということです。「肉体は常なるものではない。肉体に執着して、これが自分だと思っても、それは無常のものなのである」 これは簡単なようでありながら、結局、仏教の基本であり中心なのです。まず、ここから入っているのです。釈尊の悟りからいうと、結局、人間の悩みや苦しみのもとは肉体なのです。肉体的生存こそが自分だと思っているところに、最大の迷いがあり、その「無明」ゆえに、不幸が来るのです。実は、これが大きな出発点なのです。簡単なようでありながら、よくよく考えてみると、確かにそのとおりです。幸福の科学の会員のみなさんは、日々、仏法真理を学んで活動していますから、人間は霊的存在であるということを、ごく初歩の真理のように思うかもしれません。しかし、仏法真理に目覚める前には、あの世の世界を中心にものごとを考えるとか、霊的存在としての自己認識から世界を見るなどというようなことは、できていなかったでしょう。同じように、今でもまだ、そうした人が大勢いるわけです。彼らは、毎朝、電車やバス、タクシーなどで、一時間以上揺られながら会社に出勤し、一日を終えて帰ってくるということをくり返していますが、残念ながら、根本のところに目覚めてはいません。肉体に宿りながら肉体を超えるというのは、非常に難しいことです。肉体に宿って生きながら、「肉体的生存を超えた存在が自分である」ということを知ることは非常に難しいことですが、実は、これが悟りの第一歩なのです。」

 釈尊は、「無明」が最大の罪だと教えているのです。知らないということは罪なのです。無明というのは、真理を知らないこと、智慧がない、真理を知らないということです。無明が罪を作り出しているのです。知って犯す罪は、罪悪感があるので、一定の歯止めがかかりますが、知らずに犯す罪は罪の意識がないので、際限なく罪を重ねていくことになるのです。ゆえに、より大きな罪を犯すことになります。真理を知らない方、「無神論者」の人は、この譬え話と同じようことをしているのです あの世があるということを知らないで、この世だけと思って、地位や名誉だとか、お金儲けだとかグルメだとかギャンブルだとか、この世的なことに執着し、そしてこの世を去ります。しかし、あの世はあります。あの世は、心だけの世界、思いの世界であり、その結果、その思いと同じ世界である地獄へ行くことになります。そこでは、自分がどうしてその世界に来たのかが分からないのです。

 多くの人は、悪いこともしたかも知れないが、よいこともした、「自分の人生はプラス・マイナス・ゼロだ」と思っているかもしれません。しかし、「地獄に堕ちる」ということは、「この世での数十年間の間の人生に、霊的な意味において借金があった」ということです。その借金の原因の殆どは、魂ではなく、肉体の方を真の自分だと思って生きた場合に生じるのです。「肉体こそ本当の自分である。心は脳の作用、神経の作用などにすぎない」、「死ねば終わりだ」と思っている人が多いのですが、実際には、死ねば終わりではないのです。人間は魂であり、永遠の転生輪廻をしているのです。この簡単な価値観において、どちらの側に立つかというのは非常に大きな問題であって、立場が違えば、借金と貯金が入れ替わってしまうのです。そういう借金を持ってあの世に還れば、あの世をこの世であると思っていたりします。そしてまた、地上で生きていると同じようなことをしてしまうのです。勿論そこは天国ではありません。あの世は心だけの世界です。地上での借金だらけの心では天国に住むことはできないのです。地獄から天国へ行くには、その借金を貯金に変える「反省」という行為が必要なのです。地上界の執着を取らない限り天国へ上がることはできないのです。 真理を知らないということはそういうことになるのです。 ゆえに真理を知ってくださいと言っているのです。地獄に行かないためには、反省が必要なのです。  心で思うことの善悪が、本当の善悪を分かつのです。

 現在の世の中を見渡してみると、あちこちで犯罪が増えています。もちろん、「法に触れる」という意味での犯罪が目につきやすいわけですが、私には、違った意味での犯罪が気になってしかたがないのです。  世に言う「犯罪」という言葉は、思いより行為を対象にしており、他の人の権利を侵す行為が犯罪と呼ばれています。しかし、これは、ほんとうの心の秘密を知らない人の考えであると言っても過言ではないでしょう。ほんとうに犯罪が起きているのは、心のなかにおいてなのです。行為として、この世に現れた犯罪は、心のなかに現れた犯罪の十分の一にしか過ぎないのです。この地上から、他人を害する行為をなくすには、まず、人の心のなかから、他人を害する思いをなくさねばなりません。他人を害する思いを人の心のなかからなくすことができて初めて、他人を害し、他人の権利を侵す行為が地上から消えてなくなるのです。思いが原因であり、行為は結果です。結果をなくすためには、原因を探究し、原因の根を取り除くことが肝心です。それでは、「思いにおいて犯罪を犯さない」とは、どういうことでしょうか。それは、「他人の権利を侵害しない」という消極的な考えが中心であってよいわけではなく、積極的に、「他の人々を幸福にしていこう」という思いを持つことから始まるのです。よく言われるように、人間の心は同時に二つのことを思うことができません。心のなかに悪いことを思い描かないためには、悪いことを取り除くことに専念するよりも、むしろ、よいことを思おうとするほうが大事なのです。  よいことを常に心に描くようにすれば、必ず、悪い思いは一掃されることになります。よい思いを心のなかに描きつづける行為こそが、「心に悪を抱かず、悪を行わない」ということを戒律として自分に課すことにもなるのです。結果は、それ以上に素晴らしいものとなるでしょう。なぜなら、自分の心のなかが、他の人々への善意と愛に満ちているならば、その善意や愛を受けた人々も、必ずや喜びを胸に抱くはずだからです。彼らは、その喜びを心のなかに隠していることができるでしょうか。それを単に隠しているだけでは、「自分が人間である」という事実すら確認できないことになるでしょう。人間であるならば、他の人から優しい思いや行為、思いやりを受けた喜びは、必ず感謝となって表れてくるはずです。その感謝が、愛を与えてくれた人への感謝になるか、それ以外の人への愛の行為となるかは、時と場合によるでしょう。しかし、いずれにせよ、「悩みの渦中にあった人が、他の人から愛を受けることによって、マイナスの発想をやめ、プラスの発想へと心を切り替える」という瞬間が生まれます。これは実に大切なことだと思います。 (『限りなく優しくあれ』 愛の大切さ)

 

無明によって天国・地獄が分かれます。  

 その無明の代表が、「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見」と言われる六大煩悩です。  

 この無明を断ち切るものは、智慧、仏法真理なのです。真理を知るということは、智慧を生み、それが幸福の基なのです。年間3万人にものぼる自殺者、多発する犯罪、イジメ、老人のミイラ化事件に端を発した年金不正受給など、心を痛める事件が多すぎる現代。それらの背後には、現代の人々の多くが、「真理を知らない」という事実があるのです。

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