ダイヤモンドの原石

 人は、心にダイヤモンドの原石を持っている。

 磨けば磨くほど、この心の原石は光ってくる。

 自分がだめなように思えるのは、他の人と比べて自分の磨き方が足りないにすぎない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『不動心』で以下のように説かれました。

「人間はともすれば自己憐憫に陥り、「自分はつまらないがらくただ。自分はだめなんだ」と考えてしまいます。しかし、それは間違っています。そうした人は、自分のなかにあるダイヤモンドの原石の部分を見失っているのです。どれほどだめなように見えても、それは自分が他人と比べて劣るということではなく、「他人と自分とは磨き方が違う」ということなのです。この観点を忘れてはなりません。磨けば磨くほど、人は光ってきます。その光の強弱を見て、「宝石」と思ったり、「石ころ」と思ったりしているだけなのです。それでは、自分を責めるタイプの人は、「自分は石ころではなく、ダイヤモンドの原石である」という事実を、どうやって発見すればよいのでしょうか。自分を責めるタイプの人には二つの類型があります。一つは、ある出来事をとらえ、それが失敗であれば、自分のすべてを否定してしまう、そうしたネガティブな思想を持っている人です。もう一つは、自信を持ちすぎていて、その自信が何かの際にくずれたときに、完全な自己否定となってしまう人です。しかし、自分を否定的にだけとらえたり、オール・オア・ナッシングでとらえたりする考え方であってよいわけはありません。「自分には悪いところもあるけれども、よいところもあるはずである。何らかのよき部分があるはずである」という考え方を忘れてはならないのです。この世的に抹殺されたような人、日陰を歩いているような人でも、何かよいところがあります。したがって、そうした人に対しても、何らかのほめ言葉を考えつくことができます。ましてや、最も大切な自分自身のよさを見いだせないことがあるでしょうか。光っている面、ほんとうに素晴らしい面がないかどうか、公平な第三者の目でもって、よくよく自分を見つめてみることです。挫折したときには、何もかも失ったような気になりがちですが、実際はそうではなく、むしろ、それは自分の素晴らしい面を教えてくれているのかもしれません。あるいは、偽りの人生を無理して生きている、他人の目ばかりを意識して生きている、そうした偽我、覆いを、取り去ってくれているのかもしれません。したがって、そこには一つの希望があるのではないでしょうか。この世的につまずき、失敗したところで、自分の価値が全部否定されるわけではありません。自分のよいところは、そのまま残っているのです。こうした公平な見方をしなければ、自分のなかにあるダイヤモンドの原石を発見することはできません。」

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