神と人間

 神(仏)と人間は、天上界で住んでいる世界(次元)が違う以上、もちろんまったく同じではない。しかし同時に、「仏性」という同じものを持っているのであって、その進化の程度が違う、あるいは光の出し方の程度が違うにすぎない。

 人間というのは、もともと進化の可能性を持っており、その可能性においては「平等」である。しかし、永年の数限りない転生輪廻において、進化したものとそうでないものとが現われてきており、その結果は「公平」に判定されているということにすぎない。

 したがって、私たちの魂は、新たな法という触媒で磨き出されるときに、一躍悟りを高めることが可能なのである。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『心の挑戦』で以下のように説かれました。

「神は人間を創った造物主であって、人間は被造物、創られたものである。粘土をこねて創られたものである。あるいは、塵を集め、かき混ぜて創られたものである。あるいは、肋骨の一部をとって、そして生命の息を吹き込んで創られたものである。こういう思想がキリスト教系統にはあります。「創ったもの」と「創られたもの」というのがはっきりしておりますと、もはや「創られたもの」は「創ったもの」になることはできないのです。「創ったもの」のようになろうとして、エデンの園で禁断の木の実に手を出して、楽園から追放されたという神話まで遺っているぐらいです。ここには、神と人間とは明らかに違うものなのだ、という一線が画されていて、その一線を人間が超えようとしたときには、神は怒り給うものだ こういう思想であるわけです。もちろん、幸福の科学で説かれている多次元構造論を見ればわかるように、神と人間が違うというのは、ある面ではその通りです。住んでいる次元が違いますから一緒ではありません。しかしまた、同じものをも含んでいる。同じものをも含んでいるけれども、その進化の程度が違う、あるいは光の出し方の程度が違う、そういう考え方を当会はとっているわけです。誰もがダイヤモンドの原石を有してはいるが、その磨き方が違う、光の出方が違う、その光の出方によって等級が分かれているのだ、ということです。ダイヤモンドの等級が分かれるように、人間でも、その魂の磨き方によって、四次元的魂、五次元的魂、六次元的魂、七次元的魂、八次元的魂、九次元的魂というように、あの世での階層が違うわけです。また、あの世の階層は、この世での魂の悟りのレベルとも、まったく一致しています。この世でそれだけの輝きを出している人は、あの世に還れば、その世界に還ります。この世的に七次元の悟りを持っている人は、あの世に還れば七次元世界に還り、この世的に五次元の悟りを得ている人は、あの世に還れば五次元の世界に還ります。このように、この世での魂の磨きと、あの世で行くべきところとが、まったく対応しているというのが、仏教的な思想であるわけです。こうしてみると、人間そのものへの見方として、こういうことが言えます。人間というのは、もともと進化の可能性を持っていて、可能性においては平等である。ただし、永年の転生輪廻において、ずいぶんと魂に違いが出てきた。公平に結果を判定していく過程において、魂には、進化したものと、そうでないものとが現われてきた。しかし、その進化の可能性自体は、いつの時代にも残っている。現在も残っている。そしてその可能性は、新たな触媒、すなわち法という触媒によって磨き出されるときに、一躍悟りを高めるチャンスがそこに現われてくる。そういうことが、私が考えている修行論の中心であるわけです。」

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