「本体一・分身五」という魂のグループ

(幸福の科学大川隆法総裁『悟りの挑戦(上)』より)  

 魂の兄弟という言葉については詳しく説明しなければ分からないと思いますが、実は、人間というのは、原則として「本体一・分身五」という魂のグループをつくっていて、交替で生まれ変わってきているということなのです。  これは理解しがたいことのように思うかもしれません。しかし、考えてみれば、人間には心臓、肝臓、膵臓、腎臓などの内臓器官がありますが、そのなかで自分の意志で動かしているものがあるでしょうか。自分の意志で止めたり動かしたりできるものなら簡単ですけれども、それはできません。心臓にしても、その鼓動を数えていると、本当に気になって夜も眠れなくなるはずです。しかし、心臓は自分の意志とは別に生きています。ですから、人間の身体自体を考えてみても、この意志の言うことをきかず、「自分は自分だ」と思っている生き物が、身体のなかにも生きているということです。現にそういう複合体として、私たちは存在しています。このようなことが、もっと大きな魂の兄弟のレベルにおいてもあるということなのです。自分の意志に関わりなく、体内で心臓が生きているということに対して、違和感を持つ方はいないでしょう。肺が勝手に呼吸したり、腎臓が勝手に尿を濾過したりしていることに対して、異議を唱える方もいないでしょう。特に命令している訳でもないのに、しかし生きているでしょう。それでも共存しています。これと同じように、魂の兄弟というのも、バラバラに生きているようでありながら、実は一つの大きな魂を構成しているものなのです。内蔵の例と同じような関係なのです。頭脳に究めて近い部分が本体の部分であり、霊格的にも高く、その魂全体の向上を決めているのです。  

 さらに「魂の兄弟」については、以下のようにも説明しています。「魂の兄弟」とは、物理的に何人かがいて、そのうち一人が出るというかたちではないということなのです。そうしたものではなく、これはあくまでも、私たちのこの三次元での感覚に訴えて、分かるような形での説明にしかすぎないのです。では、これをどのように比喩するか難しい問題がありますが、例えば、魂というものを人体で例えますと、頭、右手、左手、両足、それから胴体、これで出来上がっております。しかし、実際、地上、即ち現象界に出ている部分というのは、結局、この右手なら右手を水のなかにつけた、その部分が出ているということなのです。水の中に手をつけて、水底にあるいろいろな物をつかんでいるわけです。ただ、他の部分との感覚がずいぶん違うわけです。水の抵抗があったり、さまざまな妨げがあり、それで違和感があるのだけれども、私の全体のなかの一部分が現象界に出ていることは事実なのです。このように、バラバラの5人、6人がいるというよりは、全体で一つの魂で、その一部が出てくる、そういう感じなのです。ただ、この三次元にいて、それでどうなっているのだろうかと想像するから、その視点がなかなか理解しがたいのです。実際は、水槽のなかなら水槽の中に手を入れて、それで右手で金魚を追いかけているような感じがこの三次元の生活なのです。 ところが、手には手の意識というのがあって、例えば水の中へ右手を入れたら、はっきり自分の右手の感覚というのがわかるわけです。水槽のなかに手を入れると、ぜんぜん感じが違うでしょう。他の左手とか足とかほかの部分とぜんぜん違って、手ざわりに水の感じがありますね。そして、長時間水のなかに手を入れて金魚を追い回しているうちに、右手だけが独特な感覚を持つのです。水の中の冷たい感じ、独特の抵抗のある感覚、これに慣れてくると、右手だけが何か意識を持って、考えているような感じになってきます。しかし、それはやはり錯覚であって、本来はこの水槽から手を抜いたときに、やっと自分の体らしくなるのです。また、その水槽の中に手を入れて、これを横から見るとどうなるかですが、光の屈折というものがありますね。水の中に入っている手は曲がって見えます。自分の手であって、自分の手ではないように見えますね。こういう不思議な感覚なのです。たとえて言えばそういうものです。この世的に説明しているので分かりにくいのですが、これが一番分かりやすい比喩です。

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