縄文文明

なぜ土器に注目すべきなのか

 縄文時代といえば、「土器」が注目されます。それだけではなく、土器が当時の日本人の「食」を知る鍵となるためです。

 日本の土器の内側についた成分を調べると、その多くに食材を煮炊きした痕跡があるといいます。

 では、いったい何を煮炊きしていたのか。当時の日本人たちは、海で魚や貝、昆布などを獲り、山で鹿などを狩り、山菜なども採取していました。それらの食材を、すべて ごった煮 していた可能性が高いのです。当時の日本では すでに食の中心が「鍋」だったのです。となれば、縄文土器はいわば「土鍋」のルーツです。

 土器では、海産物や昆布も一緒に煮込みます。その旨みが出て、山菜や肉にも染み込みます。和食の中心は「だし」だといわれていますが、この食文化は数千~1万年前から続いてきたことになります。

 縄文時代はすでに日本に四季はあり、冬にはしっかり雪も降っていました。しんしんと寒い夜、家族で鍋を突いて、最後にだしの効いたスープをのんでほっとする。そんな今でもよく見る風景が縄文時代にもあったのです。

 あの、鍋の優しく奥深い「だし」の味は、「美し(うまし)国」日本の魂を表しているのかもしれません。

 縄文土器は、文様の細かさや洗練性を見ると、「四大文明」の土器とまったく遜色がない。これらの土器は意外に大きく、胸の高さくらいあるものも多いという。

 ひと昔前まで、縄文時代の建物はすべて「竪穴式住居」といわれていました。これは、「地面を掘りこんで、ここに木と植物を使ってテントのようにする」というもの。その後、縄文時代にも一部「高床式建築」があったことが分かり始めました。これは、宗教建築や身分の高い人たちの住居が「木の床」だったことを意味します。

参考

足型付粘土板

 今に通じる慣習のひとつを思わせる出土品に、「足型付粘土板」があります。これは、文様が施された粘土板に、紐が通せるように穴があけてあるもの。そこに、子供の小さな足型がつけられています。

 かわいらしいアクセサリーのようにも思うかもしれません。しかしその足型の入り方を見ると、硬くなった足を押し当てたことが伺えるといいます。つまりこれは、亡くなってしまった子供の「形見」なのです。わが子の亡骸を埋葬する前、ずっとそばにいる証として、その小さな足を粘土板に押し当てる親の姿が浮かんできます。

 そして、この粘土板、どこから出土したでしょうか。それは、大人のお墓からでした。つまりその親は、自分が死ぬまでずっと肌身離さず、その粘土板を大切にしていたのです。

 そんな「形見」も、当時の日本人をぐっと身近な存在として感じられる慣習かもしれません。

 縄文時代は、「なんだかよく分からない原始的な時代」ではなく、今の日本に確実につながっている時代だったのです。

 

祈る姿も縄文から同じ

 多くの日本人は新年に神社でお参りし、拍手を打った後、合掌して神様に思いを馳せます。この「合掌」は仏教由来というイメージが強いかもしれません。しかし実は、縄文時代からあった形なのです。

 実際、当時の祈りの形について、幸福の科学大川隆法総裁が収録した『大日孁貴(おおひるめのむち)の霊言』においては、「『合掌』です。基本は合掌であって、これは、『左右の両極端を去って中道に入る』という釈尊の教えに近いもの」と明らかにされています。

 

 古代文字で書かれた歴史書『ホツマツタヱ』には、当時の神殿について、「柱頭にはコカネ(黄金)をはめ、漆で赤く彩色し、渡り廊下もある」という描写もあります。

 現在確認されている「最も高い縄文建築」は、青森県の三内丸山遺跡にあるもの。4階建てビル相当(推定15メートル)の柱が立っていたことが分かっています。

 4階建てビルの高さでそびえる神殿なら、出雲大社にあったと言われているような巨大な階段も備えていたかもしれません。それが美しく装飾され、内部や周辺には美しい土器が並ぶ。5000年前の日本には思わぬ風景があったかもしれません。

参考

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