なぜ日本軍は南京に行ったのか

日中友好を目指した松井大将

 19世紀後半、清朝が弱体化した中国大陸は、欧米列強に侵略され、半植民地状態でした。明治維新後、日本人も「次は日本か」と脅威を感じていた時代です。

 1878(明治11)年、旧尾張藩(愛知県)の武士の家系に生まれた松井石根は、若くして軍人を志し、陸軍大学校に進学。在学中に日露戦争が始まり、戦いの舞台となった中国大陸の前線で指揮を執ります。

 漢語を修得していた松井は、大学卒業後、清国への勤務を志願するなど、陸軍きっての「支那通」として軍歴を重ねます。

 また、「アジアを植民地支配する欧米をはね返すには、日本と中国が協力すべき」という中国の革命家・孫文が提唱した「大アジア主義」に共鳴。その後継者の蒋介石などを含めた中国の人々に資金を支援するなど、さまざまな形で日中友好のために奔走します。

 

「アジアの警察官」だった日本

 当時の中国大陸では、各地を支配する軍事勢力(軍閥)同士の戦いが続き、ほぼ無政府状態。中国に居留していた多くの外国人も犠牲になりました。

 そこで、日本を含む列強11ヵ国は、1901年、清朝と北京議定書を結び軍隊を置くことを決めます。当時アジアの中でも唯一近代化を進めていた日本は、国際社会から信頼され、「アジアの警察官」としての役割を期待されました。

 一方、孫文らは、1911年に清朝を倒し、辛亥革命を成功させ「中華民国」を樹立します。しかし、軍閥同士の離合集散は続き、当初親日的だった中国国民党の蒋介石も、1936年、中国共産党に軟禁され、政策の見直しを迫られるなどして「抗日」に転じます。この裏では、ソ連のスターリンが日本と蒋介石を戦わせて双方を弱体化させ、共産主義勢力を広げようとしたと言われています。

 

自国民保護のための上海出兵

 1937年7月、北京郊外の盧溝橋で、演習中の日本軍が発砲されます。これは、近くにいた国民党軍の仕業に見せかけた共産党軍の罠でしたが、これを機に日中戦争が始まりました。

 その後、中国各地で日本人が犠牲になる事件が相次ぎ、北京郊外の通州では、日本人居留民230人が国民党軍に買収された保安隊に惨殺される「通州事件」が発生します。

 8月には、ビジネスマンやその家族など約2万人の日本人が居留していた上海に、国民党軍が20万の兵を集めます。彼らを守るべく、日本政府は松井を司令官にした上海派遣軍を送り、1万の戦死者を出しながら、辛くも勝利。国民党軍は首都・南京に逃げていきます。日本には、首都を攻略すれば蒋介石も和解に応じるだろうという期待もあり、南京まで追いかけていきます。

 

日本軍によって南京の治安回復

 国民党軍は、南京に逃げる途中民衆から食料などの物資を奪い、民家を燃やしていきました。追ってくる敵軍に何も残さず疲弊させる「焦土作戦」です。

 1937年12月、南京を包囲した日本軍は、投降を呼びかけ、拒否されたことを確認してから攻略を始めました。ところが、総大将の蒋介石、後を託された唐生智将軍も逃げ出したため、3日で陥落しました。

 一部の国民党軍が国際的に禁じられている民間人にまぎれたゲリラ戦を続けたため、日本軍は慎重に掃討しました。これによって治安が回復。当初20万だった南京の人口は、1ヵ月後に25万に増えていました。

 もちろん、「南京大虐殺」は存在しません。国民党軍の自国民の殺害や軍閥同士の内戦、日本軍の正当なゲリラの掃討などが、すべて日本軍の「虐殺」とされたのです。

 

中国を愛し続けた松井大将

 南京攻略の翌年である1938年、帰国した松井は、上海戦などで2万人以上の部下を失ったことに深く心を痛めました。そこで、戦死した日中両軍の兵士を慰霊するために、わざわざ上海から土を取り寄せ、静岡県熱海市の邸宅近くに「興亜観音」を建立したのです。

 また、第一線から退いた松井は、大アジア主義の実現を目指す「大亜細亜協会」の会長に就任。精力的に海外に足を運び、南京では汪兆銘に、シンガポールではインド独立の父チャンドラ・ボースと会談するなど、アジアの独立運動を支援しました。

 しかし、終戦後、松井は「南京大虐殺」の首謀者という濡れ衣を着せられ、戦争犯罪人となり東京裁判で死刑判決を受けました。

 最も中国を愛していた松井が、最も多くの中国人を虐殺した人物として処刑されたことは、無念であったでしょう。

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