正しい先祖供養

 日本では、8月中旬はお盆、そして15日は終戦の日に当たる。

 無神論者が増えたと言われる現代でも、終戦の日に靖国神社などに参拝した人や、お盆の期間に里帰りし、先祖を弔った人は多いでしょう。しかし、「自分の供養が正しいかどうか」を考えたことがある人はどのくらいいるでしょうか。間違った供養を行えば、両親や祖父母、あるいは先祖は、まだ あなたの近くで さまよっているかもしれない。

 

先祖供養には、本来宗教的修行で得られる「悟りの力」が必要

 霊的な真実では、お盆の時期には、この世の多くの人が死者に思いを向けるので、あの世との交流が盛んになる。

 先祖を供養するには本来、宗教修行によって得られる悟りの力(法力)が必要です。そのため、供養の前提として「あの世の存在・霊的存在を信じる」ことが大事となる。

 あの世の存在を信じず、自らの心を振り返り、「あの世の世界から、生前の生き方を見られたら困る」と思うような人は、正しい供養はできない。

 そういった意味では、「とりあえず供養を行う」という場合でも、故人や遺族が何らかの宗教や宗派に縁があった方が、死後、あの世での導きを得られやすい。

 「ただ救われたい」という一念で、毎日先祖供養ばかりするのはおすすめできない。

1 先祖が天国に行っていると思われる場合

 先祖供養のやり方は、次のように天国に還った人と地獄に堕ちた人とに分かれる。

 死後、天国に還った場合は「この世の修行を見事に完成して、卒業した」ということになる。死はこの世の「卒業式」であり、あの世へ行くことは「入学式」だ(ただし自殺の場合は、地獄に行きやすい)。

 本来、死はおめでたいことである。遺された人たちは、故人を偲びながらも「この世での人生修行を見事に終えられ、おめでとうございます」と思うような姿勢が大切となる。

 この世に生まれたことをはじめ、先祖からは物心両面でさまざまな恩を受けているはずなので、供養の際は「感謝の思いをもつ」ことが大事です。子孫から「ありがとうございます」と感謝されることは、先祖に「徳があったこと」を意味する。

 毎日行う必要はないが、年に1、2回は感謝をささげると、あの世にいる故人が周りの友人たちから、「あなたは子孫から非常に慕われていますね。生前ずいぶん徳があったのでしょう」と言われ、嬉しいものだという。

 また、友人や知人が亡くなった場合も、地上の人が思い出してあげると、彼らはうれしくなることもある。反対に、誰からも供養してもらえないということは、遺族や子孫に見捨てられたか、生前、多くの人から嫌われていたことになる。

2 先祖が地獄に行っているかもしれない場合

 問題は故人が地獄に堕ちた場合です。地獄にいるかどうかの判定は難しいが、法事に来た人たちがしている噂話を聞けば、故人が天国的な人だったか、地獄的な人だったかは、ある程度分かる。

 遺族や知人が「あの人は無理だろうね」とか「絶対、天国に上がっていないだろうね」などと言うようであれば、だいたい当たっているはず。そういうときは「あの人が迷っているとしたら、なぜだろうか」というように原因を考え、「おそらく、ここが間違いだったのだろうな」ということが分かれば、それを思念として故人に伝える必要がある。

 先祖が地獄に行っている場合は、障りがある可能性もあるので、何らかの正しい宗教と縁をつくり、あの世の天使や菩薩、神仏に救済をお願いすることがとても大切である。

子孫の側が自分たちの不幸を「先祖のせい」にして行う供養は間違いです

子孫を苦しめようとする先祖はいない

 世の中にある先祖供養のなかには、病気や怪我、事業の失敗や受験の失敗など、家庭内で起きる不幸の原因をすべて先祖のせいにして、「迷っている先祖の供養さえすれば、幸福になれる」という言い方をするところがありますが、これは間違いです。なかには、本当に浮かばれずに迷っている先祖がいる場合もありますが、その場合でも、積極的に子孫を害してやろうと思っている先祖は、基本的にはいないのです。 本当の意味で先祖を供養し、彼らが浮かばれるようにするためには、遺された子孫が、常に先祖に対する感謝の念を持つとともに、人間としての正しい生き方、光に満ちた生き方をすることが必要です。これが先祖供養の前提です。彼らは人間としての正しい生き方が分からずに、自分が間違った理由、自分が今苦しんでいる理由が分からないので、先祖供養においては、それを教えてあげることが大事です。

 

迷っている先祖と子孫の心が同通すると「先祖の霊が障っている」状態になる

 「先祖を供養したい」という子孫の念が、愛念として実る場合はよいのですが、子孫が欲得の心で先祖供養をすると、先祖が、あの世で悪霊となり、迷っているような場合は、両者の心が完全に通じてしまうのです。たとえば、この世に生きている人が、誰かを強く恨んだり憎んだりする気持ちを持っているとします。その場合、あの世の地獄界に堕ち、人を恨んだり憎んだり怒ったりしている先祖がいれば、両者の波長が通じてしまいます。そうすると、子孫がその思いを持ち続けるかぎり、先祖は、いつまででも憑依することができ、憑依された人の運命を悪くしていきます。その人を病気にしたり、事業を成功させなかったり、間違った判断をさせたりできるのです。そういう意味では、「先祖が迷っていて、子孫を苦しませる」という現象が、あることはあります。しかし、その場合であっても、まず子孫の側が自分自身の心を正すことが大事です。

 

迷っている先祖は御札や戒名などで救われるわけではない

これは、たとえて言えば、父親が多大な借金を背負っていて、また息子は息子でまったく別に同じような借金を背負っているのに、息子が父親の借金を返すことができないのと同じです。もし、事業に成功するなりして、息子が大きなお金を持っている場合には、父親の借金を返すことができるでしょう。これが先祖と子孫の関係であるわけです。「先祖が浮かばれていない」、「地獄で苦しんでいる」ということは、借金を背負っているのと一緒で、精神的な借金、この世で生きたときの借金を背負っているわけです。その借金を払うために、子孫がそれを供養し、先祖を成仏させようとするときに、子孫が悪霊に憑かれるような目茶苦茶な生活をしていた場合には、子孫もまた負債を負っているわけです。借金を持っている者が、借金を持つ人の借金を、代わりに返すことはできないのです。豊かであればこそ、他人の借金を払うことができるのです。この「豊かである」ということは何かと言うと、「今世において徳を積んでいる」ということなのです。それは、仏法真理に基づいて日々修行をしているということです。光の徳を積んでいること。光を蓄積していること。天の蔵に富を積んでいること。それがあってこそ、苦しんでいる人に対して、その光を手向けることができるのです。ですから、御札や護摩木で先祖が救われるわけではなく、生きている子孫たち、縁のある人たちが、日々、徳を積むことが大事なのです。

 

正しい宗教かどうかの見分け方は、「反省」と「自己責任」を教えるかどうか

愛と慈悲の心で先祖を供養したいという気持ちがみなさんにあること自体は、非常によいことなのですけれども、ただ、先祖が迷っているのは、決して子孫の責任ではないのです。これは原則ですから、よく知っておいてください。 地獄に堕ちたのは、やはり、本人の生き方に問題があったのです。思いと行いに問題があって、地獄に堕ちているのです。この大前提は知っておいてください。そうしないと、みなさんが一生懸命供養をしていても、先祖のほうは「自分が悪い」とは絶対に思わない人が多いのです。子孫のせいにしてきます。「立派な墓を建てないから、俺はこんなに苦しいのだ」「仏壇が安物だから、こんなに苦しいのだ」「位牌が悪い」「戒名をつけなかった」とか、いろいろなことを言うわけですが、これは言いがかりというものであって、そういうものによって救われることは、まったくありません。  「生きていたときの思いと行いに基づいて、天国・地獄が分かれるのであり、あなたが地獄に堕ちているのは、やはり、それだけの責任があったからですよ」ということを教えてあげることです。正しい宗教かどうかの見分け方は、生きている人、現実に修行をしている人に、反省をキチッと教えるかどうか、自己責任のところをキチッと教えるかどうか、というところにかかっています。

 先祖供養は、前提として、供養する側に修行(仏法真理の書籍を読み、各種行事に参加して学習を深めること)が必要である。

 そして、仏の光の感覚を身につけることができた結果として、その光の一部を先祖の霊に手向けることが可能になるが、危険な面もあるため、家庭での煩瑣な先祖供養は勧められない。

 幸福の科学の総本山・正心館における総本山先祖供養大祭や永代供養、全国の各支部でも、年に2回、供養大祭を行っているので、導師がいる、そういう場所で供養したほうがよい。

 大川隆法総裁は、『霊的世界のほんとうの話。』で以下のように説かれました。

「先祖を供養するには、その前提として、供養する側に修行が必要です。まず、仏法真理を学習すること、真理の書籍を読み、幸福の科学の各種行事に参加して、学習を深めること、そして、仏の光の感覚を身につけることが大事です。その結果、その光の一部を廻向していく(手向ける)ことが可能になるのです。自分自身が、光を発する灯台とならずして、闇夜の海を照らすことは不可能です。闇夜のなかで、航路が分からなくて迷い、漂っている船があるとき、「その船を救わなければいけない」と、いくら言っても、灯台から光が出ていなければ、どうしようもないでしょう。自分も手探り状態のままで、「何とか救いたい」と一生懸命に言っているよりも、まず、光をともすことです。そうでなければ導けないのです。光をともすために、この世の人間にとっては、仏法真理を勉強して、修行をする必要があります。修行をして、悟りを高めなければなりません。先祖供養には危険な面もあるため、家庭で煩瑣に先祖供養をすることは、お勧めできません。そのため、幸福の科学の総本山・正心館では、総本山先祖供養大祭や永代供養等を実施しています。また、全国の各支部でも、年に二回、供養大祭を行っています。  導師がいるほうが安全ですし、他の参加者たちの光にも護られるので、そういう場所で供養したほうがよいのです。また、当会の供養大祭の会場には、当然、参加者の守護・指導霊や当会の支援霊たちが来ているので、家に取り憑いて子孫に悪さをしている先祖は、そういう霊に見つけられます。そして、「なんだ、おまえは。何年も悪さをしているようだな」などと言われ、先生の前に出された生徒のように恐縮するのです。要するに、子孫の力だけでは救済できない場合でも、当会の行事に参加することによって、間違ったことをしている先祖を高級霊が叱ってくれるのです。あの世のことには、あの世の人が最も精通しているので、基本的には、霊人の間違いは、あの世の高級霊に任せるのがよく、それが近道なのです。そのように、当会の行事に参加することは、あの世の高級霊との間に新しい縁ができるきっかけにもなるので、先祖供養は、できるだけ、当会の供養大祭の会場で行ったほうがよいのです。もちろん、家庭でも、年に何回か、命日などに家族全員で供養するのは、悪いことではないと思います。しかし、やりすぎないことです。毎日、朝昼晩と供養したり、毎晩、寝る前に供養したりするよりも、きちんと自分が修行をすることです。当会の根本経典である『仏説・正心法語』を読誦したり、仏法真理の書籍を読んだりして、まず、自分自身の悟りを高めることに重点を置き、先祖供養は、できるだけ、導師がいる所で行うほうが、危険が少なく、効果も大きいのです。」

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