一神教と多神教

 天使・大天使、菩薩・如来などの高級霊を「神」と呼べば、その格には差があるにしても、死後に神社が建つような、神としての格を持っている人はたしかにたくさんいる。

 この多神教の考え方をおかしいというのは、一神教の側の霊界に関する理解不足にすぎない。

 そして、幸福の科学こそが、寛容さ、包容力を持ちながら宗教の統一性をつくろうとし、世界中で起きている宗教に基づく戦争を終わらせることができる一つの宗教である。

 幸福の科学大川隆法総裁は、『朝の来ない夜はない』で以下のように説かれました。

「キリスト教もイスラム教も一神教ですが、一神教では、一つの神を立て、その神のために戦い、ほかの宗教を異端・邪教と見て、潰そうとします。これが延々と続いているのですが、両方とも、神の名の下に戦っているのです。このような問題を何とかして解決しなければいけないと私は思っています。幸福の科学は、寛容さ、包容力を持ちながら、宗教の、ある意味での統一性をつくろうとしています。時間はかかりますが、おそらく、幸福の科学以外で、世界で起きている「宗教に基づく戦争」を終わらせることができる宗教はないと思います。一神教に、評価すべきところがあるとすれば、ある意味で宗教のイノベーションを起こしたことです。「旧いしがらみである伝統的な宗教を一掃して、宗教を革新した」ということは、ほめるべき点ではあります。しかし、「多神教は間違いであり、一神教のみが正しい」という考えは、多神教の宗教を迫害するための考え方にもなってしまうのです。  パキスタンとインドの対立を見ても、パキスタンのほうはイスラム教なので一神教であり、「アッラーだけが神だ」と考えるのですが、インドのほうは多神教であって、神がたくさんいます。では、どちらが正しいかというと、「神はたくさんいる」という考え方のほうなのです。神は本当にたくさんいるのです。  この場合の「神」を定義するならば、神とは、天使・大天使、菩薩・如来などといった高級霊のことです。こういう人たちのなかには、一つの宗教を起こせるような人もたくさんいます。だいたい、宗教を起こせるぐらいの霊格があれば、神としての格はあるわけです。そういう意味では、神というものは確かに数多くいます。日本でも、「八百万の神々」といって、大勢の神がいるのです。それは、神としての格を持っている人であり、要するに、死後に神社が建つような人です。日本では、特定の人を祀った「××神社」というものがよく建ちます。祀られている人のなかには、かなり昔の人もいますが、近年の人であっても、明治天皇のように、神格があるような人には、明治神宮という社が建ちます。それから、乃木希典には乃木神社が、東郷平八郎には東郷神社が建っています。アメリカは、かつて日本と戦争をしたときには、日本神道について、「こんな宗教は邪教だ」と考えていたと思います。一神教の側から見れば、「おかしい」と思っていたでしょう。しかし、この見方は、一神教の側の「霊界についての理解不足」によるものだろうと思うのです。  神様のような人は数多くいます。神としての格というものはあります。ただ、その格には差があるわけです。」