ヘルメスとゼウス 一つにされた二つの神話

ゼウスを中心に書き換え

「ヘルメスは(エーゲ海域住民の)ペラスゴイ人の極めて古い神」

「(ギリシャへの)ドーリア人の侵入後、彼の名声と機能はアポロンのものとなり、ヘルメスはゼウスの息子で神々の使者ということになった」

 西洋神話の研究者、フェリックス・ギラン氏は、その著書でヘルメスとゼウスの関係をそう明らかにした。

 また、ギリシャ神話を新たな視点で解釈し直した作家の故・三枝和子も、「(ヘルメスのように)オリンポス系の神々の系統へ組み込んでいかれる神というのは、ギリシャ民族が進出する前にその土地に住んでいた先住民の信仰していた神である場合がほとんどです」と述べている。これは、西洋古典文学の重鎮、故・呉茂一が指摘した「ヘルメスはエーゲ海の島々で豊饒の神として信仰されていた神」との説をもとにしたとされる。

 ゼウスを最高神とするギリシャ神話は、紀元前1600年ごろのミケーネ文明の王朝を反映したもの。それ以前は、地中海に浮かぶクレタ島を中心にクレタ文明が栄えていた。ヘルメスもクレタの実在の王族で、エーゲ海域で「繁栄の神」として神格化されていたが、ゼウスを中心とする後代の神話に取り込まれた。今に伝わるギリシャ神話は、ヘルメスとゼウスの二つの神話を重ね合わせ、ゼウスを中心に書き換えられたものなのである。

 

ゼウス以前から根づいていた信仰

 3ヵ月にわたり五大陸を駆けて、7月9日、ギリシャに帰って来た聖火は、ヨーロッパ文明発祥の地であるクレタ島のイラクリオンから、ギリシャ全土を巡る旅へと出発した。このイラクリオンこそ、今から4300年前ごろ、ギリシャ統一を果たしたクレタ出身の王ヘルメスが首都を置いた地。この地を海上貿易の拠点とし、地中海世界の繁栄を築いたのです。

 その面影を残すのは、星形の城壁に囲まれた町に点在する市場や、島の人たちの陽気で親切な性格、さらには湿気や臭いもなく吹き抜ける海風。

 島東部のディクティ山麓に建てられたシミ神殿の遺跡もその面影の一つである。ここでは、ヘルメスとアフロディーテの像が一緒に発掘されている。

 この遺跡の発掘を担当した考古学者は、「紀元前2000年ごろから紀元後300年ごろまでこの地は途絶えることなく宗教の場として栄えていた」と、ゼウスのミケーネ時代以前から信仰が根づいていたことを明らかにしている。

 現在、遺跡の周りは ススキの野原が広がっているが、豊饒・繁栄の神とされたヘルメスとアフロディーテをたたえ、神事が行なわれていた様が目に浮かぶ。しかし、ギリシャでのヘルメスの足跡は4300年の時を経て、今ではほとんど確認することができない。むしろ、ヘルメス神の神秘的な力を発見し、その精神を受け継いだのは、エジプトの民だった。

 古代エジプトのナイル川中流域にヘルモポリス(ヘルメスの都)と名づけられた宗教都市があった。言葉の力で世界をつくり出した創造主で、一切の学問の発明者と信じられたエジプト最古の神トートを祭った神殿がそこに置かれていた。

 エジプトが最盛期を誇った紀元前16世紀から紀元前1世紀にかけて、エジプトの人々は、ヘルメスが霊界でトートと一体となって地上を指導していると信じ、「ヘルメス・トリスメギストス(三倍偉大なヘルメス)」という名で信仰した。ヘルモポリスはその中心地だったのである。

 ヘルメス・トリスメギストスの教えは、錬金術や占星術などの秘術の形で『ヘルメス文書』として紀元前3世紀ごろからまとめられ、エジプトの神秘思想が確立した。

 ヘルメスよりも新しい神ゼウスへの信仰も、その後エジプトに伝播したが、ヘルメスほどエジプト人に影響を及ぼしていない。

 エジプトに深い宗教的影響を与えた「ヘルメス信仰」は、オリンポス神話が書き換えられたものであり、実際のギリシャの神々の中心はヘルメスであることを何より雄弁に示していよう。

 死後の魂の行き先を決めるとされた古代エジプトの神トートは、ギリシャの神ヘルメスと同一視された。紀元1世紀の歴史家プルタルコスは、『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』で、「エジプトでヘルメスの祭が行なわれ、『真理は甘きもの』と唱えながらはちみつとイチジクを食べた」と書き残している。

 

「繁栄の神」は世界を駆けた

ヨーロッパに広がったヘルメス思想

 ヘルメスが人々の心をとらえたのは、エジプトにとどまらない。「ヘルメス信仰」は、中東を経由してヨーロッパ全土に広がり、さらには、商業の神として遥かこの日本へも伝わっている。

 『ヘルメス文書』は、ルネッサンス期のイタリアの知識人を魅了し、ヨーロッパ各地でヘルメス思想と呼ばれる錬金術や占星術が発達。これが実験化学や医学、天文学など近代科学の萌芽となった。

 ヘルメス思想に詳しい湯浅泰雄・桜美林大名誉教授は、ルネッサンス期、ヘルメス思想が母胎となって近世・近代の科学が生まれるとともに、その思想は宗教思想や哲学、文学のもとになったと話す。また、同氏は、新旧キリスト教はこれらの思想を完全に異端視したが、ヘルメス主義の観点から西洋精神史の全体像を再構成し直す必要があるのではないかと解説する。

 ヘルメス思想に強い影響を受けたルネッサンス期イタリアのルカ・パチョーリという数学者は、当時ベネチアで使われていた複式簿記の理論を体系化。それがオランダやイギリスに伝わり、西欧資本主義の基盤となるとともに、商業教育にも採り入れられていった。

 

そして日本へ

 日本が世界への扉を開いた明治維新期、世界でもトップレベルの商業教育機関が、ヘルメスをシンボルとしていたベルギーのアントワープ高等商業学校だった。

 明治政府は、この学校から教授を一橋大の前身の学校に呼んだり、留学生を派遣したりした。同校からは、当時最先端の商業教育と商業の守り神ヘルメスが日本へもたらされたのである。

「ヘルメスの導く学府 これぞこれわが母校 懐かしのふるさと」。

 一橋大学の旧校歌ではこのように歌われ、校章はヘルメスが使ったケリューケイオンの杖をデザインしたものである。

 また、商業科目を教える日本の大学や高校の中には、ケリューケイオンの杖を校章としているケースが多い。明治以降にベルギーなどで学んだ人材が全国の商業学校へと送り込まれた結果だった。

 このほか、ヘルメス像を置く商業施設も多い。東京・日本橋の三越本店の正面玄関には、ヘルメス像が飾られている。1923年に商売繁盛を期して備え付けられた。

 ヘルメスは、4000年以上の時を経て、遠くギリシャの地から世界を駆け、そして日本までやって来た。古代オリンピックでは「競技の神」とたたえられたヘルメス。時代を越え、国を越えて世界中に繁栄の風を届けてきたその姿こそ、ヘルメスの実像を如実に示しているといえる。

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