奇跡の明治維新

 1853年のペリーの来航による開国の要求に対して、江戸幕府は武家政権だけに、彼我の戦力の差を冷静に判断し、中国や韓国のように攘夷路線に政府をあげて取り組むのではなく、開国を判断しました。倒幕を目論む長州及び薩摩藩は、初めは攘夷の姿勢を貫き、薩摩藩は薩英戦争(1863年)を戦いました。長州藩は四国艦隊下関砲撃事件(1864年)を経験しました。両藩とも攘夷による武力闘争が不毛であることを経験しました。同時に、イギリス・フランスを初めとする列強は、武士の存在する日本の強さを実感し、早々と武力征服をあきらめました。両戦争は、薩摩・長州の敗北であると自虐史観では喧伝されていますが、日本の勝利または引き分けというのが正しい結果の判断です。薩摩・長州の志士の(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・高杉晋作など)の判断は、西欧に学ぶ近代国家を作らなければならないということでした。イギリスは薩摩長州藩などの雄藩連合政権の実現に向かって支援を申し出でます。幕府を率いる第15代将軍の徳川慶喜も同様でした。特に、軍事の近代化をめざし、軍艦を発注し、鉄砲や大砲などの調達に余念がありませんでした。フランスは幕府を支援していました。イギリス・フランスは、他のアジア諸国のように、内乱を誘発してそのすきに植民地化を目論んでいましたが、幕府も薩長雄藩連合政府推進派も、今は国内で争っている時ではないという大前提の判断力を持っていました。自分たちの利害よりも日本国を愛する気持ちが強かったのです。明治維新という政権交代において、両国の介入を許しませんでした。

 鳥羽伏見の戦いに始まる新政府軍と幕府軍との戦いはありましたが、フランス革命、ロシア革命など西欧の革命は、多くの血が流され、前政権の担当者は、軒並み処刑されるというのが通例でしたが、日本ではそうはなりませんでした。徳川慶喜は、「好譲不争」の精神を発揮し、自らを中心とする公武合体政府を樹立することに失敗した上は、明治維新政府に政権を平和裏に譲ることを望んでいました。明治維新政府は、このことを理解し、国家分裂・植民地化を防いだ明治維新の最大の功労者であると評価して「公爵」という地位を与えました。ヨーロッパ諸国ではありえないことでした。

 江戸幕府から明治維新への無血革命を成し遂げたのは、「古事記「」にある先例でした。水戸藩出身の慶喜は、歴史に精通し古事記にある「大国主命の国譲りの神話」の歴史の先例に学ばれた。  大国主命とその後継者である事代主命は、天照大神の国譲りの要求に対して戦うことなく、政権を譲ります。事代主命は、責任をとって海に身を沈めますが、大国主命は出雲大社に祀られることとなります。この国譲り神話の実際は、神武天皇に国譲りをした歴史をベースにしています。また、明治維新の政治方針は「五箇条の御誓文」ですが、これも神武天皇の建国の精神「八紘一宇」の精神に基づくものでした。

 江戸幕府が倒れ、明治新政府ができるのは、1867年12月9日の「王政復古の大号令」とその夜の小御所会議の決定でした。

 欧米列強の圧力の中で、20年で封建制を廃止し、近代国家を成し遂げた。このようなことを、短期間で成し遂げた国はありません。手本としたイギリス・フランスでも、200年300年かかってなしえたことでした。

 1869(明治2)年1月の版籍奉還、1871(明治4)年の廃藩置県一つとっても、大名の租税徴収権を剥奪し、明治政府が一元的に租税徴収権を掌握した事件ですが、このようなことは武士たちの自己犠牲なしにはなしえなかったことでした。

 明治維新の主役は、神武天皇以来の伝統に根ざした明治天皇の存在でした。天皇がおられるからこそ、徳川幕府は天皇に武家政権を七百年ぶりに平和裏に返還することが出来たのです。そして、明治天皇は明治維新政府の精神的支柱となりました。

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