ソクラテスはなぜ哲学の祖なのか

 ソクラテスと言えば、哲学者や各分野の学者から、今でも尊敬を集める人物。「哲学の祖」として、誰もがその名を知っています。しかし、具体的に何をした人だったのか・・・ 意外と知らない人が多いのではないでしょうか。

 ソクラテスの行ったことは、「知識人に”智慧”を問うこと」でした。

 

釈迦や孔子と同時代に生まれた

 ソクラテスが生まれたのは、紀元前470年頃、今から2500年ほど前。インドでは釈迦が、中国では孔子が活躍した時期です。生まれた場所は、ギリシャのアテネ、有名な「パルテノン神殿」がある地域です。

 ソクラテスは石工(彫刻家)の息子。ソクラテス自身もなかなかの腕前で、神殿のヘルメス像などを彫っていたとも言われます。

 

神がかった巫女から驚きの神託

 ソクラテスは青年時代、自然科学など様々なことを学んでおり、その高い見識にほれ込んだ弟子もいました。

 そんなソクラテスの人生が変わったのは、40歳くらいの時。弟子の一人が、デルフォイという土地にある神殿を訪ねます。そこでは、巫女が神がかりになって、アテナ神の言葉を降ろすという神事が行われていました。

 その弟子は、巫女を通して神に「ソクラテス以上に賢い人はいるか」と尋ねました。神からは、「いない」という答えが降ろされました。

 ソクラテスはそれを聞いて衝撃を受けます。ソクラテス自身、「自分は賢くはない」という自覚が強かったからです。しかし、「ソクラテスは最も賢い」というのは神の言葉。信仰心のあったソクラテスは、疑うわけにもいきません。

 神託をどう受け止めていいのか迷ったソクラテス。彼が始めたのは、神の言葉を検証するため、ギリシャの中で賢いと自認する人たちとの議論をすることでした。本当に自分が最も賢いのかを、確かめようとしたのです。これが、「哲学者人生」の始まりです。

 

神託を検証すべく、知識人とディベート

 ソクラテスは、ある時は政治家、ある時は作家、ある時は一流の職人と議論。その中で、「善とはなにか」「美とはなにか」を問いかけていきました。

 彼らは、持ち前の知識を活用して持論を展開します。しかし、その全員が議論に敗れていきます。ソクラテスとの問答の中で、論理矛盾を起こしていったのです。

 ソクラテスは、神託の「ソクラテスが最も賢い」という言葉の意味を知りました。「私は少なくとも、自分が善や美について何も知らないことを知っている(『無知の知』)。しかし、議論してきた知識人たちは、自分たちが善や美について何も知らないことを知らない」と悟ったのです。

 その後も、ソクラテスは、知識人たちを議論で負かし、「いくら多くの知識があっても、善悪や美醜を知る“智慧”があるとは限らない」ということを知らしめていきます。

 

恨みを買い、処刑される

 しかし、公衆の前で議論に負かされた人々は、ソクラテスに恨みを持ちます。ソクラテスはとうとう、「誤った神を祀り、青年たちを腐敗させた」として告発され、死刑を言い渡されます。

 死刑を前に、何度も逃げるチャンスがあったにもかかわらず、ソクラテスが「悪法も法なり」と言って、堂々と毒杯をあおって死んでいったという話は有名です。

 

対話の中に見られる ソクラテスの思想

 そうした対話の中でソクラテス側が語った内容が、「ソクラテスの思想」として遺されています。

 例えば、「人生において、徳こそが最も価値あるものだ」「ただ生きるのではなく、善く生きなければいけない」といった内容です。ソクラテスはあの世の世界についてたびたび話し、「自分にはダイモンという存在の声が聞こえる」といった、霊的な話も度々していました。

 

現代人はなぜソクラテスを尊敬するのか?

 そんなソクラテスの名が後世に残ったのはなぜなのか。

 ソクラテスは、「人生とは何か」という疑問を、知的に追究しました。そうした姿勢が、哲学者の理想像として尊敬されてきたのです。

 しかし、現代の学者が、ソクラテスに学んでどれだけ人生の「徳」や「善」を求めているでしょうか。また、あの世の話やダイモンの声についても、「何かの例え」くらいにしかとらえていない様子です。

思想・人間学

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