学問は何のためにあるのか

 「学問の祖」ソクラテスが学問をどのようにとらえていたのでしょうか。これから先の学問はどうあるべきかを考えます。

 

学問とは何か 学問の祖ソクラテスに見る

 「ソクラテスこそが最高の智者である」。古代ギリシャで、ある日、デルフォイの神殿でこのような神託が下りました。

 ところが、当のソクラテスにとっては何のことやら。「自分より賢い人は大勢いるはず。でも、神託が間違っているとも思えない。それなら、自分自身で確かめてみよう」。こうして、ソクラテスは知識人たちとの問答を開始したのでした。

 

学問の主流は「未知なる真理の探究」

 これらの問答から、ソクラテスの哲学は始まったのです。哲学だけではなく、今でいうところの倫理学、数学、自然科学、政治学、法学など、あらゆるジャンルの考察が深まっていきました。

 ソクラテスは問答していく中で、こう考えます。「私も他の人たちも知識は大したことはない。しかし、彼らはそれを自覚していない。私は無知であることを自覚している分だけ、彼らより知恵があるのだ」。これが有名な「無知の知」です。こうして、デルフォイの神託が意味していたことが明らかになりました。

 ここで大切なことは、哲学をはじめとする学問は、実は、神託を検証する作業から出発しているということです。つまり、学問はそもそも、「神のお告げ、宗教的インスピレーション(霊感)の検証」から始まったのです。神託をもとに、当時の常識にとらわれず、「未知なる真理」を探究することが学問だったのです。

「そんなのはきっかけにすぎない」「たまたまだ」という反論もあるかもしれません。しかし、宗教からインスピレーションをもらっていた大学者は何もソクラテスだけではありません。

 例えば、ケプラー、ニュートンといった大科学者たちは、「ヘルメス思想」という宗教思想の影響を強く受けていました。コペルニクスの地動説、セルベトゥスの血液循環説なども、ヘルメス思想のアイデアからできたと言われています。中間子理論を唱えた湯川秀樹博士が老荘思想からヒントを得たことも有名です。

 学問の進歩は、宗教の教義や神託を実証しようという努力の賜物だったのです。

 

学問の目的は人間を幸福にすること

 ソクラテスの学問を考える上で、大切なことがもう一つあります。それは、「学問は人間を幸福にするものである」ということです。

 学問もそうですが、ソクラテスの考える「真の知恵」とは、人々に「善く生きること」「徳のある生き方」を教え、人間の魂を向上させるものでした。つまり、知恵のある人は徳のある人なのです(「知徳合一」)。

 そしてソクラテスによれば、この「徳のある生き方」こそが「幸福」に他なりません。人間の魂は、有徳な生き方にこそ幸福を感じるものなのです。

 したがって、政治学や倫理学など、人間のあるべき行動を考える学問は「真」「善」「美」などの徳を探究することになりますが、その奥にある究極の目的は、人間を幸福にすることなのです。それ以外の学問も、当然ながら、この目的に奉仕するものでなければなりません。

 幸福の科学大川総裁は、法話「『人間幸福学』とは何か」の中で、「人間幸福学の下に、現代のあらゆる学問が再検討されるべきだと考えますし、その立場は決して恥じるべきものではなく、ソクラテス的立場そのものであると考えるべきで、『学問の始まり』に戻ったということでもある」と語っています。

 この考え方は、プラトンやアリストテレスにも引き継がれます。古代ギリシャは「神々の存在」を前提とし、「個人と社会の幸福」を目的として、数多くの学問を誕生させたのです。

 

価値観がなく人々を幸福にできない現代の学問

「5人を助けるためには1人を殺さなければいけない。さて、君ならどうする?」

 学生に活発に議論させる授業スタイルで有名になった政治哲学者、マイケル・サンデル教授の問いかけです。「ハーバード白熱教室」の名前どおり、世界最高峰のハーバード大学が舞台ということもあり、注目を浴びました。

 教室が白熱することは素晴らしいことです。日本の大学も見習いたいところでしょう。対話中心のやり方を見て、「ソクラテス的」と評する人さえいます。

 しかし、この白熱教室には一つの問題が・・・ 「どの意見が正しいのか」、結論が分からないのです。あくまで参考としてサンデル氏の見解が紹介されることもありますが、それでおしまい。結局、正解は分からないままです。以前、日本のテレビで、自分自身の意見を聞かれたサンデル氏が慌てていた姿が放送されていました。

 東洋大学で哲学を教える伊藤淳氏は、「サンデル氏のみならず、政治学者・社会学者たちは、重大な問題に対して価値判断をしないことをもって『学問的』と考える傾向があります」と指摘しました。

 学者ならば、深い学識を生かして人々を正しく導く使命があるはずです。ソクラテスは、はっきりと自分の信じる「普遍的な真理」を主張して意見を曲げなかったために死刑になった人です。その意味で、ソクラテスとサンデル氏は一見似ているようで、むしろ正反対です。

 当然ながら、結論を言えないサンデル氏では人々を幸福にすることも難しいでしょう。スタイリッシュで最先端にも思える「白熱教室」も、学問の理想からすれば合格点とは言えないのです。

 

人を幸福にしない脳科学

 世間で持てはやされている学問の一つに「脳科学」があります。メディアでは「脳科学者」がひっぱりだこ。あちこちで「脳」の文字が氾濫しています。

 脳科学は必要ですが、脳科学者の中にはしばしば非科学的な発言をする人がいます。茂木健一郎氏は「脳が心を生みだす」と言います。ところが、「どうやって心を生みだすのか」については「ハードプロブレム(難しい問題)」と言ってお茶を濁します。仕組みは分からないが、とにかく脳が心を生みだす。この考えでいくと、脳がなくなれば心も消滅します。

 しかし、心が脳内の物理現象にすぎないなら、どうして心が尊いのでしょうか。あるいは、人間がモノにすぎないなら、どうして人間が尊いのでしょうか。

『唯脳論』『バカの壁』などの著書で知られる解剖学者・養老孟司氏は、人を殺してはいけない理由を「人間は複雑な仕組みでできていて、殺すと元に戻らないから」と説明しています。これでは、人間より複雑な機械があればそちらの方が尊いことになるでしょう。

 ソクラテスならば、心を脳と一緒に消滅するような儚いものと考える脳科学者たちに反対するでしょう。こうした考えには根拠がない上に、人間の尊さも説明できないからです。

 

「学問の再生」が新文明を創造する

 「人間の幸福」という目的を見失っている現代の学問。これに対し、幸福の科学は学問を再生して、新たな未来を創造すべく「幸福の科学大学」の設立を目指しています。

 大川隆法総裁は著書『新しき大学の理念』でこう述べます。

「今、あえて新しい大学を創り、世に問う理由があるとすれば、それは、『新文明の発信基地』としての大学、『新しい学問を創造する場』としての大学を創りたいということです」

 そして、その中心に据えられるのが「人間幸福学」です。これはまさに人間を幸福にすることを目的とした学問です。

 人間幸福学とは、幸福の科学の教えを中心に諸学を整理・統合したものです。幸福の科学は「幸福になる方法」を探究している宗教ですが、人間幸福学はそれを一般化して「どういう考え方をすれば人間は幸福になれるか」を抽出して、学習できるようにしたものだと言えます。

 

人間幸福学は諸学問に善悪の価値判断を示す

 幸福の科学の教えをもとにしている人間幸福学の根幹には「神仏への信仰」があります。神仏への信仰という前提は学問にふさわしくないという人もいるかもしれません。しかし、これは学問の始まりであるソクラテスの精神そのものなのです。

 また、人々の幸福を目的とする以上、世界を苦しめている宗教紛争も解決せねばなりません。そのとき必要なのは「神の心」の探究です。

 やはり、学問の使命(ミッション)として「世界を正しい方向に発展させたい」という願いがあるならば、勇気ある価値判断を避けることはできません。

 総裁は、法話「『人間幸福学』とは何か」の中で、「『人間幸福学』というテーマから見て、あらゆる学問やこの世の行動について再整理し、再統合し、もう一度考えてみる必要があるのではないか」と述べています。このように「人間を幸福にしているか否か」という観点から価値判断をする人間幸福学は、倫理学や政治学はもちろん、理科系も含めたあらゆる学問についても、動機や目的を問い、善悪の指針を示すことになるでしょう。

 科学は本来、未知なるものを探究する学問です。霊的なものや神秘的なもの、現在の学問で説明のつかないものこそ、探究すべき対象であるはずです。しかし、デカルトやカント以来、学問の世界から少しずつ神秘的なものが取り除かれていきました。その結果、目に見えるもの、証明できるものしか論じないという風潮が蔓延し、現代科学の飛躍的な進歩を妨げてしまったという一面があるのです。

 そもそも近代科学が発展したのは、中世のイタリアを中心に起きたルネサンスに端を発します。いわゆるヘルメス思想や新プラトン主義と言われる神秘思想が大流行し、その流れから錬金術ブームが起きました。これが化学の基となり、さまざまな発明・発見につながっていったのです。日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士も『目に見えないもの』という著作でこう指摘しています。

「『錬金術』の形で発芽した化学が今日の姿にまで成長し、そこにさらに原子物理学の美しい花を開くにいたった」

 ルネサンスによって神秘性と合理性が融合することで、新たな学問、新たな科学技術がもたらされたわけです。

 

科学的精神は本来宗教心と一体のもの

 人類の科学を発展させてきた立役者であるニュートンやアインシュタインも、そうした立場にいました。

 万有引力を発見したニュートンは、科学者であると同時にフリーメイソンの長であり神学者でした。彼は神について「すべての事物を、万物の主として支配している。その権威の故に、彼は主なる神と呼ばれ、あらゆるものの上に君臨する」と語っています。「万物を支配する神の発見」こそが、彼の研究の目的だったのです。

「相対性理論」にたどりついたことで、物理学の次元を変えたアインシュタインも「宇宙宗教的感覚(Cosmic religious feeling)が、科学研究の最も強く、高貴な動機である」と述べています。

 人類を代表する二人の偉大な科学者が、神や宗教の探究こそが科学の真髄だと言っているのです。

 大川隆法総裁は、法話「『未来産業学』とは何か」の中で次のように述べています。

「神の創られた世界全体の構造についてもっと説明できればいいなと思っております。さらには我々が見ている宇宙が、ものすごい数あるらしいという最新の学説まで出てきているので、物理学としては限界が来ていて、理解できなくなっています」

 であるならば、科学の世界に神秘的なもの、霊的なもの、宗教的なものを採り入れなくてはなりません。そうすることによって、かつてのルネサンスのように、ニュートンやアインシュタインのように、それまでの限界を突破して新しい発明や発見をすることができるのではないでしょうか。

 「未来産業学」という新しい学問を立ち上げたのは、まさにこのためなのです。

思想・人間学

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