集団的自衛権はなぜ必要なのか

集団的自衛権とは

 集団的自衛権とは、「自国が直接攻撃されたわけではないが、ある国への武力攻撃が自国にとって脅威となりうる場合、実力をもって共同で防衛する権利」のことである。

 この集団的自衛権は、1945年に署名・発効した国連憲章の第51条で明文化された権利であり、国連に加盟している主権国家であれば当然の権利といえる。

 だが、日本政府は、長年、「集団的自衛権は持っているが、行使はできない」というスタンスを維持してきた。

 1981年、鈴木善幸内閣が出した政府見解は、「我が国が国際法上、集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため、必要最小限の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと解している」というものである。

 持っているけれども使えない権利というのは、事実上持っていないのと同じである。憲法9条を金科玉条の如く扱うマスコミや政治勢力の反対を恐れ、国際社会では通用しない解釈で自らの手足を縛ってきた。

 今まではそれでも何とかなってきたが、日本を取り巻く状況は次第に緊迫している。集団的自衛権を行使しないということは、「日本は同盟国が攻撃されていても守らないが、日本が攻撃された場合だけは守ってほしい」という自分勝手な態度を意味する。これでは同盟国であるアメリカとの信頼関係は維持できない。

 幸福の科学大川隆法総裁は、安倍内閣が集団的自衛権の行使容認を閣議決定したことについて「勇断」だと評価。何か問題が起きてから法律を整備することが多い日本の政治において、戦争が起きる前に備えようとする姿勢は「創造的」であるとした。

 

中国から日本を守るためには行使が必要

 反対派は、集団的自衛権行使によって平和が後退し、戦争に突入する危険性が高まったと、恐怖心をあおっている。

 現在、中国は日本の領海・領空侵犯を繰り返し、「核心的利益」という言葉を使って尖閣諸島を狙っている。日本の生命線であるシーレーンが通る南シナ海でも、フィリピンやベトナムと衝突を繰り返して覇権拡大を狙う一方、国民には正しい情報を与えず、自由を奪っている。

 さらには、日本の自衛隊機が中国機に30メートルの距離にまで異常接近される事件が相次いでいるが、これはいつ撃墜されてもおかしくない距離である。まさに一触即発である。

 そうした状況の中、防衛力を強化し、中国の侵略に備えることは絶対に必要です。

 それでも、今までどおり「一切戦争をしない」という平和主義を守りたいとする声もあるが、中国が軍事力を拡張しているのに、日本が防衛強化してはいけないというのはつじつまが合わない。

 大川隆法総裁は、「せめてそうした平和主義者の方は、中国にも憲法9条を導入してほしいという意見を言ったらどうか」と述べた。

 残念ながら、現在の日本一国では、核を持つ中国には立ち向かえないため、集団的自衛権を行使し、核保有国であるアメリカとの同盟を強化しなくてはならない。

 もし、集団的自衛権を行使せず、日本だけで国家と国民を守ろうとするなら、日本はアメリカ軍に代わるだけの軍事力を持たねばならないが、それには時間がかかるし、反対論も強まる。そうなれば、「他国から日本脅威論を言い立てられるきっかけとしてはもっと大きくなる可能性はある」と指摘した。

 

正義なき平和を求めれば自由を失う

 こうした背景があっても、やはり武力は持たない方が戦争にならないという議論もある。だが、それは国民にとって幸福なのか。

 全体主義国家・中国が日本を呑み込めばどうなるか。総裁は「個人個人の人権や、チャンスの平等が潰され、言論、出版の自由、信教の自由等が押し潰されていくことを意味するわけで、人間性を喪失させ、神仏の尊厳を捨て去ることにもなっていく」と解説した。

 日本を直接呑み込まずとも、原発を止めて火力発電に頼っている現状では、石油を運ぶタンカーの通り道であるシーレーンを押さえてしまえば、日本を事実上の支配下に置ける。

 戦争になったら、自衛隊員が犠牲になるという声もあるが、消防隊員や警察官も、職務中に負傷したり殉職したりすることはある。東日本大震災の際には、無線で津波からの避難を呼びかけて、亡くなった町職員もいた。

 総裁は「危険業務に携わる者に関して、人命尊重の論理で仕事そのものを否定することには間違いがある」と喝破した。

命をかけて他の人を救う任務に当たっているからこそ、消防隊員や警察官は尊敬を受けるのであり、この点、国家を守っている自衛隊員は最高の尊敬を受けて当然である。

 命が大事だから一切の戦いは避けたいというならば、古代ユダヤのバビロン捕囚のような運命が待ち受けるでしょう。その場合の平和とは、すなわち中国への服従、隷属への道である。

 ゆえに「平和」と言っても、そこに正義はあるのか、自由があるのかを考えなくてはならない。総裁は、「全体主義に隷属しないで、個人が自由権を守り、思想的に戦うことが大事であり『自由の革命』が要る」と、今後の方針を示した。

 

中国崩壊論は「希望的観測」 日本は防衛を怠るな

 総裁は、アメリカが軍事力を減らしていこうとしている今、「本当は集団的自衛権の強化も一時しのぎ」だと指摘。「最終的には憲法改正までするのが正直」であり「占領下でつくられた憲法を洗い直し、自主権を取り戻さないといけない」と、国民の奮起を促した。

 バブル崩壊や、民衆による氾濫など、中国の崩壊の可能性を指摘するジャーナリストや識者も出ているが、反対運動や自由化運動だけで中国を崩壊させることは難しいとの予測を示し、崩壊論はあくまでも「希望的観測」であるとした。

 習近平国家主席の狙いは「軍事力をお金に変えること」であり、経済崩壊の前に軍事的支配を強め資源を取りにいこうとしているので、「戦争の状態はいつ起きてもおかしくない」と分析。日本としては備えをしておくべきだと訴えた。

 解釈改憲は民意を無視しているという一部マスコミの論調もあるが、中国に侵略され、自由を奪われることが「民意」とは思えない。

 最終的には憲法改正まで必要だが、国民の幸福を考えた時、取り急ぎ憲法解釈を変更し、正義と自由を守るための備えを怠ってはならない。

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